下の小説の続き
俺は毛布の中でずっと震えていた。ヒロトに触れられた身体中が気持ち悪い。熱い。虫が体を這っているような、そんな感覚。我に返ってみると自分で自分を殺したくなる。だって、あんなこと、風介の家で!
「………うぶっ…!」
突発的な吐き気に堪らず洗面所に向かう。風介を起こさないよう静かに吐いた。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!
ヒロトが帰ったあとぼうっとしながらリビングに撒いた消臭スプレーを、今は気が狂ったように撒いた。いったいソファに何回撒いただろう。でもその一方でソファに温もりを求めて寄り掛かる自分がいる。まだヒロトの残り香があるのではないかと確かめる自分もいる。
苦しい。
遂に俺は買ってきた市販の弁当を夕飯として出してしまったのだ。反応が怖くて部屋のベッドでずっとうずくまっていたが、多分とてもびっくりしたと思う。今までに一度だって市販の飯は出さなかったのだから。
(ああ、朝飯つくらなきゃ……)
ふと台所に立って時計を見ると三時半をさしていた。風介は六時頃にはもう家を出てしまう。早くつくらなければと冷蔵庫を開けたとき、そうだ、と考えた。
いつも時間が無くてつくれない弁当をつくろう。風介もきっと喜んでくれる。俺は大急ぎで朝飯と弁当の準備に取り掛かった。
無意識に、ヒロトのことを考えないようにしたかったのだと思う。兎に角それからは少し忙しくて、朝ご飯が出来た頃風介が起きてきた。
「起きてたの、珍しいね」
「ああ、早起きだろ」
「一睡もしてないくせに何言ってるの」
え、何でわかるんだこいつ。特にそのことは気にしていないのか、風介は顔を洗いに洗面所に行った。大丈夫、あそこはきちんと消毒したはず。
弁当をきっちり詰めて箸をつけ、ハンカチに包んだ。よし、完璧。結び方は下手だがそこら辺はご愛嬌だ。
「朝飯が温かいのは久しぶりだ。」
「そうかよ、それはよかったな…ごめん、昨日の夜スーパーの弁当で」
俺が謝ると風介はきょとんとして言った。
「そんなの、疲れていたんだろう?そんなときもある」
「えっ、あ、ああ……」
拍子抜けするくらいに風介は淡白だった。そして意外に単純でもあった。あの頃はあんなにも神経質だったのにな、と思う。風介は食事をとりながら、ぼそりと呟く。
「これ、また作ってほしい」
俺は嬉しさに唇を噛み締めながら、短くああ、とだけ返した。こんな会話でさえ俺たちには貴重で、思い出にさえなる。弁当を手に取り、家を出ようとする風介に渡した。
「…お弁当?」
「ちょっと余裕があったから作ったんだけど…昼にでも食べてほしいから」
風介は弁当をじっと見つめていたが、俺に優しく押し付けた。その行為に自分でも驚くほど衝撃を受けて、俺は風介の顔を見つめた。風介は寂しそうな、諭すような表情をしている。
「…私、昼飯を食べる暇がないんだ。ごめんね。」
「……………。」
「帰ったら食べるよ。残しておいて」
「…………。」
「…ごめんね」
何も言えずに立ち尽くしていると、風介はいつの間にか出ていってしまっていた。手のなかに残る弁当が酷く冷たく感じる。俺は現実逃避をするようにフローリングの板の枚数を数えた。
「俺は、愛されてないのかな」
言ってはいけないことを言ってしまった。テーブルの上に置いた、包んだままの弁当をじっと見つめる。時間の無さは知っている。それでも、持っていってほしかった。頑張って食べるよ、と言ってほしかった。
暫くソファで死んだように寝ていた。徹夜はやはり辛い。それでも疲れはとれないようで、意識だけがどこかで動いていた。
聞き慣れたインターホンの音で目を覚ます。時計を見ると十一時で、慌てて通話ボタンを押してモニターを見た。
「こんにちは」
「何の用だよ」
「長居はしないから、入れてよ」
相手は、昨日の奴だった。俺は不機嫌になりながらオートロックを解除し、上に上がってくるのを待った。鍵は開けておいたので、勝手に入ってくるだろう。
「…昨日の今日で、また俺で遊ぶのかよ。いい身分だな、ホント」
「別に俺は遊んでないよ。言ったでしょう、晴矢を大切にしてるって」
会うなりヒロトは優しく微笑んだ。その表情を見ないように下を向く。今はフローリングの板の枚数なんかどうでもいい。
「…うーんとね、俺仕事で今日の午後から一週間海外に行っちゃうから、会っておこうかなって」
「…………それだけ…?」
「俺にはオオゴトだよ」
ソファの背もたれからヒロトにキスをされそうになったので、避けようとしたらソファから落ちて思い切り頭を打った。ヒロトの抑えた笑い声が聞こえたが、正直今は気にしてられない。
「……………っ!!!」
「キスくらい許してよ」
笑いながらぷーっと膨れっ面をするヒロト。俺は片手をひらひらして無理、というポーズをとった。まだ頭ががんがんする。
「昨日もしたじゃない」
「やだったらやだ」
ヒロトはふう、とため息をついた。ヒロトは何をしても笑顔だった。それがかえって俺には恐ろしくて、ヒロトから目を背けてばかりいた。怖い。俺は気付いていた。自分がヒロトに、ほだされ始めていると。
それは決して許されないことだ。世間から見ても自分から見ても、人間失格だと思う。人を好きになって、その人に想いを返して貰っているのに、愛を断ち切るとは何事か。
だがしかし、俺は想いを返してもらっているのか心底不安だ。行動に移すのも億劫だ。…結果的に甘えてしまうのだ。なんと薄情で莫迦なのかと。
「……あのさ、」
「ん?」
「…弁当あるんだけど、食わねえか。新幹線の中とかで食えんだろ」
「えー…どうかなぁ…そんな時間あるかなぁ……」
まあ勿論ダメ元だ。飛行機まで持ち込めないんだから邪魔なだけだろう。新幹線の中でしかパソコンを使う事は出来ないんだろうし…。
やっぱりいいや、と遮ろうとしたときヒロトがテーブルの上の弁当を手に取った。
「晴矢のお弁当美味しそうだから、時間つくって食べるよ。いただきます。」
「…………まじ、で?」
「うん、お弁当箱はちゃんと持って帰ってくるからね」
「いや、いい…今パックに詰め替える」
意外だった。時間が無いからと断られるかと思ったのに。
冷めきったおかずをパックに詰めているとき、段々と中身が減っていく弁当箱が目に入った。本当はこの中身を消していくのは風介の筈なのに。
(残しておいて)
風介の言葉が蘇る。俺は頭を振って言葉を追い出した。ヒロトがこの弁当を欲しいと言ってくれた。だから、いいんだ。食べたい人にあげればいい。
ご飯を最後に入れて、割り箸をつけた。迷った末、自分のハンカチでパックを巻くことにした。流石にスーパーの袋は嫌だろう。
「ほらよ」
「嬉しいなあ。ありがとう晴矢」
ヒロトだって本当は分かっている筈だ。この弁当は最初誰のものだったのか。どうして此処にあるのか。でも言わない。
…優しい。
「さあ、そろそろ行かなきゃ。…じゃあお弁当いただきます。楽しみにするね」
「期待外れても知らねーぞ」
「大丈夫、愛で受けとめるから」
「何だそりゃ」
「ふふ、…じゃあお邪魔しました」
ヒロトが靴を履く手を目で追ってしまう。綺麗な手、昨日つい手を出してしまった手。その手がドアノブに手を掛けたとき、思わず言葉を発していた。
「……いって、らっしゃい」
ヒロトは振り返って呆然とこっちを見ていた。俺だってびっくりだ。何故こんなことを言ってしまったんだろう。…言いたかったんだろうか、風介に。
俺が悶々と思考の暗中模索をしてる間に、ヒロトが寄ってきて額にキスをした。俺は更にパニックになり何も考えられなくなる。
「えっ、あ、う…?」
「いってきます」
ヒロトの一面の笑みに体がびくりと痙攣した。怖い。もう足元まで来ている。陰が、来てはいけない陰りが。
「お弁当、ありがとう」
がちゃり、ばたん。
再び出来た溝に、ひどく俺は安堵していた。ヒロトがもっと自身に詰め寄っていたら、もう取り返しのつかないところまで行っていただろう。
自分の手を見ると血が通っていないかのように真っ白だった。震える手を押さえ込んでも、震えが止まらなくて玄関に座り込んだ。
弁当ありがとう、なんて、
「あんたに言ってほしくなかったよ……!畜生……!」
何故愛している人には言ってもらえないのか。それだけが。
けれど、その一言に喜んでいる自分も大概畜生だ。
ヒロトがいなくなると我に返る晴矢
………………ううぅーん…