涼南←基
もう何時だろう。夜中の二時を過ぎた頃だろうか。
「おかえり」
「…ただいま」
風介はどんなに遅く、仕事から疲れて帰ってきても俺に笑顔でただいまを言ってくれる。でも矢張りその笑みも疲労を漂わせるものがあって、夜食もとらず直ぐに寝てしまうことがほとんどだ。ずっと前に作ったときに美味しいと言って俺の分まで食べたオムライスも、ラップをして冷蔵庫いき。今回は本当に上手くいったのに。
…そんなこと、疲れているのだから仕方ない。俺の我儘なんて聞いていたら風介は体を壊してしまう。でも、少しだけでいいから構ってほしいという気持ちもある。
優しさが欲しい。愛されている、という証が。
(それこそ、我儘だ)
静かな寝息を立てる風介の頬を撫でて、キスをしようとしてやめた。始まりはフリーターだった俺に、家の手伝いにこないかと言われたこと。手伝いなんて引っ越しの荷解きかなんかだろうか、と考えたが何のことはない、ただの家事だった。しかし初めてマンションに行ったときの部屋の状況といったら、凄まじかった。片付ける暇がないそうで、何を思ったか俺は必死になって風介の部屋を掃除しに毎日通った。アルバイトの合間をぬってリビング、風介の自室、使われていない倉庫と化していた部屋を躍起になって整理し、ファミレスで培った炊事の力を生かして風介に朝食と夜食を作る。そろそろ最初の目的を忘れかけていた頃、風介に此処で私のために働いてくれないかと頼まれた。断る理由もなく、アルバイトもそこでやめて風介のマンションの一室に住み着いたというわけだ。…それから風介が休日に寝呆けて起こしにきた俺にキスをするというトラブルを起こし、まあ、色々あって恋仲になった。風介のことは嫌いじゃなかったし、同性愛に対しても特に嫌悪はなかったので受け入れた。今では多分風介がとても好きなんだろう。
「………。」
次はいつ休みがあるのか、などとは怖くて聞けなかった。当分ない、と言われるのが怖い。きっと向こうから言ってこないのはそういうことなのだから。帰ってきてくれるだけで幸せ。30分だけ仮眠しに帰ってくることもあるくらいだ。
俺を養えるということは給料がいいということ。しかしお金の代償はお金よりも大事な、時間だった。
俺が寂しいなどと口にしてしまえば風介は、半分の確率で理性を捨てて俺だけを見てくれるだろう。けれどそれからどうする?生活費は?この生活を変えるわけにはいかない。俺たちの愛を守るためにも。
俺が理性を保たなければ、この愛は育んでゆけない。俺がしっかりしなければ。俺が。風介の頬を撫で、俺は自分の部屋に入った。電気を消して、ベッドの毛布に包まる。大丈夫、俺が何も言いださなければ。俺がおかしなことをしなければ。
翌朝、風介はやっぱりいなかった。今日も休日じゃない。いつなのだろう。いつ、俺は風介とゆっくりとした時間を過ごせるのだろう。
しかしリビングのテーブルの上に小さな幸せがあった。本当はそんな暇ないくせに、昨日のオムライスののっていた皿の横に小さなメモがあった。そこには達筆の走り書きが二行だけ。
(いつもありがとう
おいしかった)
途端に俺は嬉しくなり、苦しくなって、大急ぎで台所に水を飲みに行った。その後何度もその二行を読み返した。シャワーを浴びている間もずっとそのことだけを考えていた。風介のことだ、地下鉄の階段を走り下りるときにあのメモを書いたことを悔やんだだろう。あれを書いたお陰で時間を無駄にした、と。
それでも俺はこの小さな紙に、また頑張れると元気を貰えるのだ。幸せを、貰えるのだ。
その時、オートロックのマンションの入り口のインターホンが鳴った。
「はい」
「宅急便です」
モニターには大きな段ボールを抱えた男性が立っていた。大方風介の仕事関係だろう。俺は返事をして入り口を開け、配達員が来るのを待った。
再びインターホンが鳴って、玄関のドアを開ける。すると、思わぬ人物が立っていた。
「…………ヒロト?」
「あれ、晴矢じゃない。久しぶり」
ヒロトが段ボール箱を持って立っていたのだ。さっきのモニターでは段ボールに隠れて顔が見えなかったが、まさか昔馴染みに会うとは。久しぶり、というか多分六、七年ぶりだ。FFI以来会っていない。すっかり大人びてモデルのような顔立ちになったヒロトを見て俺は腰を抜かしてしまった。風介とはまた違う、女性を惹き付ける魅力がある。
「…………………。」
「そんなに驚いた?」
「あ、ああ…凄く。時間あるなら上がっていけよ。お茶くらいなら煎れっから」
「やった!実は今日もうノルマこなしちゃってるんだよね。じゃあ、遠慮なく。」
ヒロトがふかふかのソファに体を沈める。日本茶よりも紅茶の方が好きそうだという俺の独断でテーブルにはダージリンと菓子を置いた。ヒロトはきょろきょろと辺りを見回す。
「いい生活してるね、風介の稼ぎ?」
「ああ」
「あ、つまり晴矢にとって風介はヒモなわけだ」
「ち が う」
ヒロトは俺の反応を見て愉快そうに笑った。相変わらずの性格だ。
「大丈夫大丈夫、そんなこと思ってないよ。なんか若奥さんみたいだなーって」
「………はぁ?」
「だってさ、風介お金に厳しそうじゃん。なのに同棲してるだけの晴矢にお金預けて安心してるわけでしょ?それって奥さんのこと大好きな新婚の旦那さんじゃん」
「………新、婚」
思わぬ単語に心身が凍り付く。まあ、言われて嫌な気はしないけれども。そういえば昨日皿洗いしていなかったな、と思い台所に立つ。ヒロトがひょこひょこと寄ってきた。
「手伝おうか?」
「………いい、その位出来る」
「二人でやった方が早いでしょ?俺お皿洗うから晴矢拭いて」
その時腕まくりしたヒロトの腕から手にかけてが目に入った。白く、繊細な細工のような手が洗剤を手に取ろうとして、俺は思わずその腕を握った。ヒロトが穏やかな表情でこちらを見る。
「何?」
「……いや、俺洗うからヒロト拭いて…」
「そう?じゃあお願い」
ヒロトの綺麗な手を洗剤で汚したくなかった。肌が荒れるなどと思ったのかもしれない。体が付きそうな程に密着した空間で、俺は気が気ではなかった。ヒロトは風介と同じ空気を纏っている。同じような過去を持っているせいか、一緒にいるだけで風介といるような錯覚に陥ってしまう。その錯覚にくらくらして俺は立ってられなくなってしまった。風介と台所に立つなんて、ほとんど無かったのだから。
「その皿で最後」
「はい、終わり」
「さんきゅ」
ソファにどっかりと座り込んで深呼吸をした。駄目だ、何故か調子が狂ってしまう。
ヒロトが隣に座ったので俺は避けようとしてヒロトに腕を引かれた。俺は何が何だか解らないまま、ソファでヒロトに押し倒されていた。
「…………え?」
「晴矢、丸くなったね。だって以前の晴矢だったらこんなことしただけで腹に一発いれてたでしょ」
体を思うように動かすことができない。自分はさぞ驚いた顔でヒロトを見ているのだろうと思った。ヒロトは綺麗な手で俺の頬を撫でた。あまりの冷たさにぞくぞくする。
「……やめろよ、そろそろ仕事に戻ったら?」
「冷たいなあ、俺がこんなアルバイトみたいな仕事、してると思う?」
ヒロトがにっこり笑って作業服を脱いだ。普通のブイネックの服とジーンズを着ている。頭が混乱してきた。じゃあ何で荷物を持ってきたのか。ヒロトは何をしているのか。何故ここに、いるのか。
ろくでもない過去を思い出す。グランだって、正常とは言い難いことをしてきた。嫌な予感がする。逃げなきゃ。逃げなきゃいけないに違いないのに。体がそう指示しているのに。
ヒロトが触れる頬がそこから離れようとしない。心地好くて仕方ないのだ。普段滅多に風介に触れてもらえないが為に、体が温かさを求めている。その事実に俺は愕然とした。
「風介は忙しいんだね。風の噂で聞いたよ、すごく頑張ってるって」
「…………、」
「晴矢も一緒だって。まさかね。こんな仲だとは思ってなかった。…でも好都合かもね、この状況は」
「…どういう意味だよ」
「俺は晴矢が好き、って言ったらどうする?」
「嫌だ、俺には、」
「“休みもほとんど無い、愛してくれているかどうかすら曖昧な恋人がいるから”?」
「…………!!」
何も、言い返せない。ヒロトはせせら笑って俺にキスをしようとした。それを遮って首を振る。希望がある。少しの希望が。
「でも風介は俺を愛してくれている!」
「そう。でも、晴矢のための時間はとってくれないんだね」
「それは、有休をとる暇がないから……!」
「一日何分かでも晴矢の為に時間を使ってあげればいいのに」
「疲れてるから……!」
「可哀相にね。晴矢は風介の専属メイドさんなんだ。飼い殺されるだけの。」
「違う………!」
「風介は、晴矢に何をしてくれたの?」
どくり。
脳内を小さなメモが過る。でも小さ過ぎて過ったものは掴めない。何を、してくれた?何だろう、笑って帰ってきてくれた。俺の料理をおいしいと言ってくれた。あとは?あとは?
……わからない。
「………。」
「俺なら、寂しい思いは絶対にさせない。晴矢の望むことは何だってするよ。だって、晴矢が好きだから。大切だからね。」
「やめろ、やめろ、やめてくれ………!」
「好き、晴矢。」
整ったヒロトの顔が近づいてくる。風介と一瞬だけかぶったその顔を退けることは出来なかった。
人肌に、甘えてしまった。
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浮気って一概に悪いことだと言えないと思うんですけどどうでしょう。
続くか続かないのかわからないパート2
いまいち萌えどころがない。ごめんなさい…