Running away from home 「ちょっと待てよ! オイ! 十夜、俺の卵焼きを食うな!」 「いいじゃん、二つや三つや五つ」 「僕も頂きたいな」 「ほらよ、佳弥」 「じゃあ俺も」 「さすが暴君容赦ないね」 「待て待て、お前ら俺の卵焼きが空になっただろ! 俺まだ一個も食べてないぞ」 「まぁ諦めるんだな……閖姫」 「久遠……そうするよ。美味しそうに食べてもらえるのは嬉しいからな」 奈月は眼前で繰り広げられる光景に、心に針が刺さった感覚を覚えて、拳を強く握り締めた。爪が食い込む程の痛みが、奈月にとっては心地よい。 ――閖姫が、楽しそうに笑っている。閖姫が楽しそうに微笑んでいる。 お昼時の会話だ。授業の関係で普段より遅れて食堂に到着した奈月を待っていたのは、閖姫のお手製お弁当の卵焼きを貰いあう楽しそうな光景だった。盛り上がっていて、奈月が現れたことには気がついていない――距離もまだ数メートルは離れているから気がつかないのも無理はないのだが。 閖姫が自分以外に向ける笑顔に奈月は嫉妬した。 今からでも割って会話に入り込めばいいのだが、邪慳にされたら――と思うと怖くて近づけない。 閖姫がそんなことをする人柄ではないのは奈月がよくわかっているのに、それでも出来ない。気が付いてもらうまで、立ちすくむのも嫌で、奈月は屋上へと逃げた。 お昼時は大体の学生は教室か食堂にいる。屋上に好んで来る人もいないだろう。次の授業はサボろうと決める。展開術式の授業だ、得意な科目であるそれはサボっても支障がなかった。 授業に出た所で奈月はまともに聞いていないのだから――。 「あれ、今奈月いなかったかい?」 佳弥は奈月のローズレッドの髪を見かけた気がして卵焼きを飲み込んでから問うが 「いたらこっちに来るだろ」 「それもそうだね」 閖姫の言葉に佳弥は納得する。ただ、十夜だけが視線を僅かに細めた。 「なぁ、閖姫……最近奈月の調子はどうだ?」 「調子? いつも通りだよ」 「その何時も通りには気をつけろよ」 「は? 何をいっているんだ、まぁ……でも体調が悪いのに気がつかなかったら、悪いからな。戻ったら少し元気かどうか聞いてみるよ」 閖姫の的を外した回答に十夜はこれ以上の言葉を言うべきか悩んで――止めた。 ――同じことは繰り返してたまるか。 ――けど、ならどうすればいい。 答えのでない自問自答を十夜は繰り返した。 奈月は屋上で風に当たりながら下を眺める。屋上から地上までの高さに恐怖する。足を一歩踏み出せば飛び降り自殺が出来るだろう。けれど、その一歩を踏み出す勇気はない。 「……亜月……」 奈月はぎゅっと亜月ぬいぐるみを抱きしめると、不安が少しだけ和らいだ。 けれど、心は痛いまま。どうして痛いのだろう、そうだ、痛くないからだ。奈月の思考は自傷行為を求めた。 奈月はそれに逆らわず亜月が汚れないようにしてから、腕を捲る。包帯から僅かに血が滲んでいるのは既に怪我をして日が浅いことを示している。そこの傷をさらに上書きするように奈月はナイフを握りきりつける。痛みが脳内を駆け巡る。痛みが痛みとして認識されることによって心の痛を誤魔化す。 痛みが心地よかった。この痛みが、別の場所が痛むのを和らげてくれるから。 「あぁ……」 赤い血を見るのは心が落ち着く。この血は痛みを具現したものだ、と思えるから。 暫く血を見る余韻に浸っていたら、身体がふらついた。血を流しすぎたか、と奈月の頭は冷静に判断し、持ち歩いている包帯で傷の手当てをする。 血が足りなくなったので、奈月はそのまま屋上に寝そべって寝ることにした。 どうせ、授業に出る気分ではない。痛みで上書きされた気持ちのまま、眠れば――痛みが一つしか残らないと希望を持ち、眠りにつく。 目覚めた所で痛みは二つ残っていた。むしろ、手首の痛みが薄れていたことに奈月はショックを受けた。 もう一度傷つけようと思ったところで奈月は思いとどまる。 外から見える景色が何故だか恋しく思えた。 この学園に留まっているから、閖姫が目に入るから辛いのではないだろうか、そんな風に思えてくる。 「……だったらいっそ、痛みが痛みで上書き出来ないなら――」 奈月は学園から消えた。 奈月が戻ってこない――姿を見せないことに閖姫は夕刻気がついた。 「あれ? 奈月」 遅いくらいだが、奈月が授業をさぼるのはよくあることなので気がつくのが遅れるのも無理からぬことであった。授業が終わり、部屋に戻った閖姫は奈月がいなかったのを疑問に感じたものの、買い物にでも出かけているのだろうと判断していた。 だから、奈月が戻ってきたら皆でデザートを食べようと思い立ちショートケーキを作り始める。 しかし、ショートケーキが完成しても、奈月が戻ってくることはない。 冬馬たちの部屋にでも遊びに行っているのか、珍しいなと思って出来あがったショートケーキを持って冬馬の部屋を訪れたが、その予想は外れだった。 「冬馬。奈月きているか?」 「ナヅっちゃん? 来てないけど」 「見てませんね。いないんですか?」 冬馬と李真が共に答える。奈月を目撃していなかった。 「まだ部屋に戻ってきていないんだよなぁ」 「どこにいるか探そうか?」 「……そうだな。ただ買い物しているだけとかならいいけど、少し気になるし」 十夜の言葉が一瞬だけ蘇り、閖姫は心配になった。もしかしたら体調が悪いのではないか、と。 冬馬の部屋でショートケーキは冷やして置くことにして、閖姫、冬馬、李真は奈月を探しに出かけた。 見つかった時大事にしないため、佳弥や十夜、久遠には知らせなかった。 単独で行動をした李真は真っ先に屋上を訪れた。 奈月は一人になりたい時や周囲の喧騒を聞きたくない時よく屋上に逃げているからだ。 「……? いませんか……奈月の奴、何処にいったんだ? 閖姫第一な奴が、こんな時間まで閖姫の傍に現れないなんて珍しい」 現在時刻は七時半を回っている。普段の奈月なら閖姫と一緒にいる。それなのにいない。 「閖姫や冬馬は、別に異常なことだとは思ってないみたいだが、それはお前らのような人間からみたらだ。奈月にとってそれは異常だぞ」 李真は奈月がどれだけ閖姫に依存しているのかを知っている。出来れば一秒たりとも離れたくないと思っている本心を知っている。 けれど、奈月はその思いによって閖姫を束縛したくない――何より閖姫に嫌われたくないという思いに束縛されて行動が狭まっている。 奈月がいた痕跡はないかと見渡す。 「……ん?」 李真は僅かに赤い場所を発見する。血は乾いているが、屋上で血痕が付着する原因など一つしか思い当たらない。 奈月が、自傷行為をしてその後片付けの忘れものだろう。 実際、その血はごく少量が飛び散った跡であり――せいぜい指を切って付着した程度の量だ――大本らしき血の痕跡はない。 他の場所を見渡すが、此処以外に血の跡はないから、奈月が拭き取ったのだろう。 「それにしては……」 李真は目を細める。血の痕跡が全くないからだ。魔術が苦手な奈月が魔術で洗い流したとは思えない。布か何かで拭き取ったのであれば多少なりと痕跡が残るはずだが、それすらない。 「一体どうやって血の痕跡を消したんだ? ……まぁそれより……水流よ」 李真が普段は滅多に使わない魔術を用いて、血の痕跡を消し去る。 誰もこの血が奈月のものだとは気がつかないだろうしそもそも、血の跡を発見するとは思えない少量だが、念には念を入れた。 「さて、是は益々何かがあったと判断する方が賢明ですね」 屋上にいないのならば他の場所を探すだけ――と、李真は糸を使って外を縦横無尽に駆け巡り奈月の気配を探るが、見つからない。 「……俺が奈月を見つけられない、だと?」 違和感が募る。奈月は果たしてどこに消えたのか。一瞬、以前発見したロストテクノロジーが隠されている地下が思い浮かぶが、奈月は展開術式が得意でも魔術はからっきしであることを思い出して候補から外す。何より、仮にその場にいるのならば李真も解除することは出来ない。 一通り探した後、李真は冬馬や閖姫と合流することを選んだ。 閖姫も冬馬も奈月を見つけ出していなかった。 「何処へいったんでしょう」 李真が思いつかなかった答えを、冬馬が提示した。 「もしかして……ナヅっちゃん、学園の外に出たんじゃないのか?」 「……それは……」 ないでしょう、と李真が言いかけて止める。これだけ探して見つからないのであれば、そう考える方が自然だ。 「よし、学園の外にいこう」 瞬時することもなく閖姫が決断したが冬馬がそれをとめる。 「まて、もう少し日が落ちてからの方がいい。人目がある」 「けど、奈月が学園の外にいるかもしれないなら、早く探した方がいいだろう」 「それで教師たちに見つかったら元も子もないぞ。秘密裏に探すんなら、人気がなくなってから、十夜や久遠、佳弥も誘って探した方がいい」 「……わかったよ」 「この状況なら、人気は一時間もすればなくなるだろう、それまでに十夜と久遠、佳弥を呼びだして作戦を決めておこう」 「あぁ」 渋々だが、冬馬の言葉に一理あるため、閖姫は頷く。 [*前] | [次#] TOP |