零の旋律 | ナノ

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 出会ったことはなくとも記憶にあった人物。ケイに見せられた写真の人物だったからだ。
 写真以外に彼女のことを何も知らない
 名前すら、氷室は知らない。

「くそっ。とりあえず追いかける」

 氷室は浮遊し、レストたちを置いて一人で彼女を追いかけた。
 軽やかに建物の上を移動する姿は、シャルの身軽さを彷彿させる。相手が素早い足取りで逃げようとも、氷室は宙を浮いて移動する。その速度は彼女よりも早い。

「僕らはどーしよっか?」

 呆然とするレストに、氷室の姿が見えなくなってからシャルは笑いながら問うた。

「も、勿論追うに決まっているだろ!」
「じゃあ、追いかけよっか」

 視界に氷室も彼女も既に映らないが、逃げて行った方角だけはわかる。東だ。ひとまずその方角へ彼らは走り出した。

 宙を自在に浮遊する氷室に障害物も、建物と建物を跳躍する僅かな時間のロスも関係ない。氷室が彼女の前に立った。不安定な屋根の上という足場でも彼女の重心はしっかりとしている。

「っ――追いつかれたかっ。契徒め」

 凛とした口調で、彼女は悪態をついた。肩で切りそろえられた漆黒の髪。翡翠の瞳は切れ長で強い意志を感じ取れる。身体のラインに合わせて作られた服は、身軽な印象を与える。実際動くのに邪魔なにならないように自分で合わせたのだろう、無理矢理鋏で切り取って、布を短くしたと思しき箇所が数か所あった。

「人の霊石を取っておいてその態度か? 返せ」
「断るわ。私の目的に、是は必要不可欠なもの。第一、貴方が持っても毒にも薬にもならない」
「勝手に決め付けるな」
「――残念」

 右手に霊石を、左手は腰に当ててほほ笑む姿は妖艶で、成程これだけの美人であれば女性に誰構わず声をかけていたケイが惚れるのも無理からぬことだろう、と氷室は納得した。

「私は全ての石を集めるわ」

 動きだしたのは彼女の方だった。身軽な動作で氷室から石を奪ったように、今度は距離を詰める。霊石は彼女の懐にしまわれていた。いつの間にか両の手には鉤爪を装備している。
 氷室は咄嗟に彼女と自分の間に重みを生み出す。空間の異質さを感じ取った彼女は後方に飛び跳ね距離を取る。屋根が僅かに沈んでいた。

「へぇ。成程ね、それ『重力』でしょ」

 一度見ただけで氷室の契術がなんであるか判断した彼女は、唇の乾きを潤すように舌で軽く舐める。

「一度の使用で見破られるとは思わなかったな」
「ふふ」

 彼女は冷静に状況を観察する。氷室の仲間――正確にいえば、闘技場で優勝したシャルという契約者まで加わっては状況が不利になると判断しているのだ。しかし、浮遊して――足で逃げる自分よりも早い彼に追いつかれるのは明白だ。

「さて、私はどうするかしらね」
「どうするも何も――裏切り者には死を」
「!?」
「!?」

 突然の第三者の声に、氷室と彼女は驚愕する。声の主は氷室の背後からした。氷室が振り返ると――全く気配を感じさせず、それはまるで影のように氷室のすぐそばに佇んでいた。
 氷室は慌てて距離を取る。纏う雰囲気が不吉で、冷や汗が流れる。まるで、シャルの兄ベルジュと対峙した時のようだ。

「久しぶりだな」
「――ケイ」

 かすれた声でそのものの正体を告げたのは、彼女だった。


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