零の旋律 | ナノ

第八話:彼らの目的


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 男は必死に逃げていた。なりふり構わず、身の回りの物も殆ど持たずに、必死になって逃げていた。急ぎ過ぎて何度か転び、高価な服の一部が破れたり、解れたが、そんなものに気を止めている場合も精神的余裕もなかった。
 男はとにかく自分が生き残るために必死だった。街を出て、友好関係のある人物に助けを求めれば、自分の身柄は保証してもらえると踏んでいた。
 贅沢三昧を送っていた領主の身体は肥っており、走る度に汗が顔から落ちて行く。息は荒いが、走ることは止めなかった。今、走るのをやめれば、根が張ったように動かなくなると直感していたからだ。薄暗い路地裏を必死に走る。所々で怒声が飛び交っているが、誰も領主には気がつかない。このままいけば街の外に出られると領主が確信した時、その場に一人の男が立っていた。
 薄暗い路地裏で、太陽の光を背に浴びて影になってその姿は見えにくくなっているのに、それでもはっきりとそれが誰だか男にはわかった。

「お前は……! 道楽息子か!」

 道楽息子、商人の息子、商人のボンボン、遊び人、バカ息子様々な呼び名で呼ばれている青年――ケイが立っていた。明らかに男を待ち伏せていたとしか思えないたちいちであった。何故この場所がわかったのか男は疑問に思う余地すらない。

「お前のせいでお前のせいで!」

 男は叫ぶ。市民とはまた違う――全てを台無しにされたが故の怒りに満ちていた。

「何――アンタ気がついていたんだ」

 普段浮かべるヘラヘラとした軽薄な笑みではない。背筋も凍るような微笑みが男――領主を怒りから一変絶望へと切り替えた。

「私腹を肥やすことを目的としながら霊石を研究しようとしただけのことはあるんだな」

 そう言ってケイは懐から、練乳色に輝く濁りが一切なく見ただけでその輝きに魅入られる石を取り出す。

「そ、それは私の霊石!」

 氷室が求め、研究所に侵入した時既に何者かの手によって盗まれていた霊石をケイは所持していた。領主が霊石を求めて手を伸ばすが、それよりも先に懐へ霊石を戻す。もはや、それが領主の手に戻ることはないし、ましてや氷室の手に渡ることもない。

「是は、頂いていくさ、それと――」

 ケイは鎖の両端に鎌がついた鎖鎌を取り出す。領主の目には刃の光が数多の血を吸った朱色のような錯覚に捕らわれ、何よりケイの姿が処刑人のように映った。恐怖から形振り構わず叫び声をあげる前に――刃は無情にも振り下ろされた。血飛沫が飛び、壁や地面に血の模様が描かれた。

「まさかアンタが、俺が何をしているか気がついていることは予想外だったよ。それと道楽息子って子だけで街の人間が殺しにかかってくることも予想外だったよ」

 軽薄な笑みに戻りながらも、瞳は冷酷に死した領主を捕える。耳を澄ます必要がないくらい人の足音が迫っている。此処にももうじき市民がやってくると判断したケイはその場から遁走した。


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