ぐだぐだ | ナノ







月並みな言い方をすれば惚れている。少なからず、愛しく思っている。すれ違えば振り返りたくなるし、遠くから見ればすぐにでも近づいて機嫌よく声をかけたくなる。やさしい執着だ。神への哲学、赤への焦燥、廻る血液の経路を辿りたくなることも忘れて俺は彼女の一挙一動に集中する。触れて、求めて、吸い込んでみたいと思う程度に。我ながら健全―いや、随分と大衆的な欲求を被せた欲情をしていると感じる。

大衆的な俺。大層結構なことだろう、まるで今まで喰ってきた種族に括ることに違和感がない。消えてしまう。彼女を眺めていると走り方も牙の研ぎ方も忘れそうになる。優しく触れてみるとか、愛撫のように舐めてみるとかそういうことばかりが浮かぶ。消えてしまう。獣性が掻き消える。結構なことだろう。もしもこのままなら、もしも彼女を手にすることが可能だとするなら俺は一般的な大衆そのものに成り下がるだろう。成り下がる、だとまるで優れているかのような言い草だが、ただの『食われる側』―に。なってしまうということが言いたいだけ。

彼女は俺を食ってしまった。

ぺろりと。咀嚼さえされることなく。卵を一飲みにする大蛇のように。骨を肉を皮を砕かれ、血や脳髄や臓物といった柔らかいものを啜られる間も無く俺は俺の形を保ったままずるずると食道に押し込まれ、ぎゅうぎゅうと内壁に押し潰され、どろどろと消化液をかけられて、じわじわ溶かされていく。指が腕が足がかけられた箇所から消えていく。しゅうしゅうと鈍く音をたてて。消えていく。消えていくのだ。俺という俺を形成していたあらゆる要素を性に共通する単なる欲望へと。変えていく。


「リュウノスケくんは優しいね」


優しい?俺が?ばかげてる。そんなものは俺じゃない。溶かされた俺だったものが残したガス程度の、取るに足らない無知で無邪気な優しさだ。ちききと小さく音を立てて机の下で玩ぶカッターナイフが錆び付いた刃を露出する。親指を滑らせても食いつき方を忘れたように何も残らない。「先生いつも言ってるよー、リュウノスケは賢い、明るい、愛らしい、思慮深い、深遠、簡潔な理解?ずっと褒めてるの。私といる時も。やけちゃうなあ」

俺はまともな恋の仕方もわからない。恐らくリュウノスケ的なもの、大衆的なもののどちらかが本能的で。もう一つが本質的だということだろう。彼女が俺を呼ぶときの音運びにしくりと胸が痛む。嫉妬はどうして痛みを伴うのだろう、まるで俺が傷つくことを望んでいるようじゃないか。くだらない。消えてしまう。親指の肌は切れることなく、にぶくじんじんと切られた時の痛みだけを残している。

愚かだ。にこにこと笑う女の顔面が泣きたくなるほど美しい。切り開く刃より触れても傷がつかない羽が欲しくなる、程度に。吐き気がする。生温い衝動。嫌悪する脆弱。強者の矜持は儚く霧散し夢に帰す。だが俺は安心している。手に入らないこと、手を伸ばせないこと、触れ合ったが故に牙を持てなくなること等に。その時点で。既に。もう。俺は。


「優しくなんてないよ」


ばかじゃないの、と続けたかった言葉は俺の中へと落ちていく。馬鹿、じゃねーの。俺。今此処でなまえの身体ばらしてやったら旦那どんな顔するかな。まあ喜ぶだろうな。あの人いっちゃってるし。今の俺は、賢い、明るい、愛らしい、思慮深い、深遠、簡潔な理解全てから程遠い、あらゆる凶行になお輪をかけて浅ましい悪徳そのものだろう。それともあの人も俺と同じ自嘲を覆って笑ってるのかな。そう思うと喰われるべき大衆はみんなこういう桃色の魔香で弱体化した獣なのかもしれない。溶けてどこかへと消えていく脳の端で、はじめて俺は、駆ける狂気を噛み砕く


20110112 −神縁りて人に至る