ぐだぐだ | ナノ






時折、遠い場所の夢を見る。こんな風に彼女と添って、柔らかい香りを肺腑に入れ、小さな手を握り、微振動に身を任せながら緩やかに流れていく風景を沈み行く太陽の色に溶かして眼に映していると。今、何もかも忘れて、忠義を噛むことも無く生きている、今までもこの先にも何も残さない宵のような安らかな日常の中ではまこと役立たない、夢である。

耳にかけた機械から異国の言葉が流れ出す。俺の国の歌だと彼女が選んでくれた、歌。祖国の憧憬が異国に聴こえる程度の、生きている時間の差を噛み締める。『在る』時の差を―思い出してしまう。此処に座っていると。この歌を聴いていると。この手を握ったまま、ゆっくりと自分の瞼を重くする何かと戦うことに夢中になっていると。

ディルムッド・オディナは臆病な男だ。

自分は恐れている。非日常を生きることを恐れている。泣きたくなるほど優しく、温かく、甘く、柔らかく、半永久的に浸ることを保障された現在の生を恐れている。脅かすものは何もない。皆、この平穏を楽しんでいる。いつか終わる夢をせめて永く味わっておこうと静かに目を閉じる。俺は、俺だけが目を閉じられない。俺はもう目覚められないような気がするから、この湯に身を浸した瞬間何もかも流れ出して蕩けてなくなってしまうのではないかと不安で仕方ないから。俺だけが目を閉じられない

なまえが俺の肩に鼻を寄せる。

自分が惰弱な存在であることを、愛する女の手を握りながら思い知ることは、俺にとっては天罰と言っても差し支えなかろう。死を飛び越えた俺達に、幸福の名を借りて懲罰を与えているようにしか、思えないのだ。何もかもが。この優しさすら。彼女さえ。ああ、俺は怯えているのだろう、昼も夜も夢が覚めないかどうかを確かめていたいのだろう、自分がどのような存在であったかに言い訳をしていたいのだろう、自虐、自戒、自粛、自傷。そうして自己完結。


「ディルムッド」

「起きたのか」

「起きてたよ」

「それは残念だ」

「なんで?」

「キスでもしてやろうかと、今」

「ば」


ばか。と彼女は優しく言う。ああ、ああ。何処ぞの中空に座す神よ。これは罰か。己の忠義にさえ蓋をしようとしている俺への、罰か。この幸福は。この優しさは。この、生は。俺が顔を傾けて微笑むと彼女は眉を上げて、目を細めて、息を吐く。

おきたら、しないの。と小さい声。俺は握っていた手を解くと、腰を引き寄せて額に額を押し付ける。情欲を絡めた視線を緩んだ彼女の瞳に投げかけ、吐息を吸える程度まで唇を寄せ、僅かに開き、彼女があわせて傾けたところで「ああ、しない」と低く囁いた。なまえがばっと目を見開いて真っ赤な顔で俺から遠ざかる。後ろに手をついて、ば、ばかむっどーーーなどと叫びながら、顔を伏せる。俺は笑う。笑う。押し出すように。


「怒るな、そんなに期待していたとは」

「してません!!!」

「素直になったら気が変わるかもしれんぞ」

「………そう言ってまたからかうくせに」

「心外だ。からかってはいない」

「からかってる」


俺は真剣だよ、と笑いながら。いつだって真剣に生きているさ。今この時だって。真剣に夢を見ようと、愚かなくらいに必死だとも。しないのではなく、できなかっただけかもしれない。臆病者は幸福を喰らうことさえ躊躇い、死ぬ。彼女がずっと近づいて俺の頬を掴む。忌々しそうに親指で俺の黒子に爪を立てる。「ばか」「ばかむっど」

ぶつかるように唇が触れる。それだけでも俺が、霧散することはなく、彼女が血を流して崩れ落ちることもなく。微振動が止むこともなく。太陽が堕ちたまま戻ってこないことも、ない。「どこにもいかない」の声を受ける前に、俺の目は閉じて、日常は未だ続いていく



20111229 −そうして僕らは目を閉じる