狐が走る
2013.06.18.Tuesday
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空間の歪みの中、仄暗い十字路で生徒達がたむろしている。
彼らは後々目印となるよう、壁に何と書き残すか話し合って丁度今、その内容が決定したところであった。
「よーし、それじゃ書くぜー!」
「待て壱鬼、お前が書くとお前以外の人が読めなくなる…」
「それって字が下手って事ですかね?」
竜彦の言葉に、ニムロットがにまにまと悪戯な笑みを浮かべて訊ねる。
「ああ、解読不可能レベルだ」
「ちょっと…バカなだけじゃなくて字も下手となると、いよいよもって取り得が無いわね」
「ンだとコラァ!ちゃんと読めるっての!!」
沙羅の容赦ない言葉に、壱鬼がまたしても声を荒げる。
この様子に周囲はけらけらと笑ったり、或いは困った様に苦笑いしたりする者もいた。
そんなほのぼのとした空間へと変わりつつある中で、狐乃衛はある一つの通路の方へはっと顔を向けた。
「…銃声?」
聴覚が他の者達よりもやや優れている狐乃衛は、遠方からした微かなその音を聞いた、気がした。
あくまで「気がした」だけだったので、空耳だろうと思ったのだが。
彼の頭には、銃を扱う人物が一人浮かんでいた。
(まさかあいつが、ねぇ…?)
その人物の強さならば十分知っている。
そこらの男よりも気丈で、銃の扱いも確かな人だ。
まさかそんな事、あるはずないない。
そう頭で考えていても、足は自然とその音が聞こえた気がした方の通路へ、向かおうとしていた。
ふらふらと歩き出す狐乃衛に気付いた建が、不思議そうに彼に声を掛ける。
「おい狐乃衛、何処行くんだ?そっちからは別に、誰の匂いもしなかったが」
「…ちょーっと気になる事があるから見てくるだけ。大丈夫、すぐ戻るからって皆に言っといて」
建の方へ振り返った狐乃衛は、いつも通りの飄々とした態度で彼にそう言った。
そして再びその通路の方へと向き直ると、薄暗い闇の中へと融けて行った。
歩を進める足は、次第に速くなって行った。
最初は普通の歩み、次第に早足、駆け足、気付けば歩みを止め、息を弾ませながら走っていた。
(距離的には、そろそろこの辺りが音の発生源だと思うんだけど…)
先程、黒い悪夢達を相手にしていたおかげで随分と体力が減っていた。
額に汗を滲ませながら、狐乃衛はきょろきょろと周囲を見回しながら、走るスピードを緩めたときだった。
廊下も十分に広かったが、突然さらに開けた場所へと出た。
学校の講堂ほどの広さはあるだろうか。
天井も高い円形のその漆黒のフロアは、銃声を響かせるには十分の環境であった。
そして、その音を発したであろう人物が、そのフロアの中心でへたり込んでいた。
狐乃衛も見覚えがあるその人物は、クラスメイトでもある狼 絢藍だった。
彼女は座り込んだ状態で項垂れており、ひどく落ち込んだ様子である。
(…何か、相当へこんでるみたいだな)
一体彼女に何があったのだろうか、と考えながら、狐乃衛はふうっと息を吐きながらすたすたと近付いて行く。
狼の後ろから近付いて行った狐乃衛は、何気なく声を掛けようとしたのだが。
その時、彼女の手に握られている物と、その手の位置にぎょっとした。
銃口は自身のこめかみに、確かに向けられていた。
それを見た瞬間、焦りと怒りが狐乃衛の心に同時に込み上げた。
気付けば彼は、狼の背後から軌道を逸らす様に、その銃を掴み挙げていた。
「おいっ、一体何考えてんだよお前!?」
「…こ、狐乃衛!?」
驚いた声と様子で見上げた狼の顔に、狐乃衛はまたしてもぎょっとする。
驚き見開かれた目からは、とめどない涙が溢れていた。
「女の涙は最強の武器」とは、よく言ったものである。
事実、それを目の当たりにした狐乃衛は次の言葉が紡げずただ、唖然とした表情で見つめ返すしかなかった。
今さっきまで湧き上っていた怒りの感情は消えうせ、現在はただ焦りの感情が残るばかりである。
―こんな時、一体何と声を掛けてやればいいんだろうか。
これがあと十年経っていればまた扱いが変わっていたかもしれないが、彼も一応まだ高校生、思春期真っ盛りの青年である。
女性の扱いにはある程度長けている狐乃衛だったが、涙の扱いにはまだ、十分な人生経験を積んではいなかった。
そうしてフリーズする狐乃衛を尻目に、狼はふい、と顔を背けてしまった。
そしてぽつりと小さく呟く。
「…情けない所を見られたな」
「…い、一体何があったんだよ…?」
戸惑う狐乃衛が辛うじて搾り出した返答が、それだった。
すると狼は、静かにこれまでの経緯を話し出した。
―クラスメイトの女子が、この空間に引き摺りこまれそうになっていた事、それを助けようとしたが叶わず、それどころか自身までもがこの空間に巻き込まれてしまった事。
更には、その女子の救出はおろか、行方すら分からなくなってしまったという事。
「私の弱さが全ての原因だ…」
「いや…十分に強いと思うけどねぇ…」
狐乃衛はフロアの遠方に山となって気絶している、黒い悪夢達の残骸を見ながら答える。
あの人数を一人で倒したとすれば、十分に強い。いや、下手したら自分より上回っているかもしれない。女子に腕っ節で負けるのは、さすがに男のメンツ丸つぶれである。
狐乃衛がそんな別の方の心配をしていると、狼は悔しげに言う。
「助けられなかったあの子がもし、帰ってこれなかったりしたら…私はっ…!」
「あ…待った待った、その事についてなんだけどさ」
「…?」
「どうやらこの空間に巻き込まれた、一部を除く女の子達みんな、無事脱出したらしいよ」
「…は…?」
狐乃衛の言葉に、狼は涙を拭いもせずにただ、ぽかんとした表情で彼を見上げる。
黒い悪夢の一人である“ミライ”の力により、再び空間を繋げて女子を逃がしたという話をすると、狼は唖然とした様子で固まっていた。
「…ということで、狼が助けようとしたその子も多分無事ですよっと」
「そ…それは本当か…?」
「そ。おかげでさ、俺と壱鬼の秘密の花園計画もパァに…」
「花園?」
「あ…いやいやいや何でもない、こっちの話!あははー…!」
思わず本音をこぼした狐乃衛だったが、狼にはその意味がいまひとつ分からなかったらしい。
ただ不思議そうな顔で狐乃衛を見ていたが、自身が助けられなかったその女子が無事だと知ると、ほっと安堵した様子で表情を緩めた。
「良かった…その子は無事なんだな」
「そうそう!ってことで、俺達もさっさとこの空間から出よう!ほらほら立って!」
「え?わっ、と…!?」
狐乃衛は座り込んでいた狼の両方の手を取ると、勢い良く引っ張り上げた。
彼に助けられて立ち上がった狼は、呆気に取られながらも目の前の人物を見つめる。
「狐乃衛…その、」
「ん?どうした?」
「…ありがとう」
今度は狐乃衛がぽかんとした表情になる。が、彼は直ぐに困った様な笑顔を浮かべた。
「何礼なんか言ってんだよ、俺は別に助けるようなことしてねーし」
「ふふ…優しいな、お前は」
「ま、女子限定だけどね」
狐乃衛がそう答えると、狼はくすくすと笑う。そんな彼女の様子を見て、狐乃衛もまたつられて笑っていた。
しかし狐乃衛の背後から、一つの声が聞こえた。
「先輩、浮気ですか…?」
「ギャァァァァーッ!?!?」
薄暗い空間に恨めしげな声。
状況が状況なだけに、狐乃衛は思わず悲鳴を上げた。
咄嗟に振り返ると其処には、一人の少女が立っていた。
「す、すばる!?何でお前まで此処に!?」
「おれも巻き込まれたんですよぅ…でも、先輩の気配がしたので、此処まで全力疾走で来ました」
「気配って何!?ってか足音とかもしなかったし、お前は忍者か何かなのか!?」
冷や汗をだらだら流す狐乃衛を尻目に、すばるは彼と話していた狼を見つけると、ぱっと表情を明るくして彼女の方に駆け寄った。
「狼先輩っ!先輩も巻き込まれてたんですね、無事でしたか!?」
「ああ、私なら大丈夫だ」
抱きついてきたすばるを狼は、懐でぽす、と受け止める。
にこやかな笑みで狼を見上げるすばるだったが、ふとその表情が消えうせた。
狼は穏やかに微笑んでいるが、その目は赤く、泣いた後だったというのは誰が見ても明らかであった。
それを見た瞬間、すばるはまたしても恨めしげな声に加えて無表情で、この空間よりも更に黒いオーラを放ちながら狐乃衛の方を向く。
「先輩、一体狼先輩に何したんですか…?」
「違う違う!俺が泣かした訳じゃないってば、信じて!!」
「すばる、狐乃衛の言っている事は本当だ」
「…ほんとに?じゃあ何で狼先輩は…」
「それは…私の不甲斐無さに、ちょっとだけ悔し涙を流しただけだ。今はもうほら、この通り元気だから心配ない」
「そっか…よかったー…」
狼の言葉に安心したのか、すばるはまた彼女にしがみついたまま懐に顔を埋める。
そしてしばらくじっとしているかと思うと、声もしなくなり身動きも無くなった。
「…おい、すばる?どうした?」
狼は心配そうに彼女の肩を掴むが、何かに気付いた様子で動かす手を止めた。
その様子を見ていた狐乃衛が、二人に近付きながら話しかける。
「狼、すばるの奴どうしたんだ?急に静かになったけど…」
すると狼は、片手てすばるを支えながら、もう片方の手で人差し指を唇に近づける。
“静かに”の合図を送る狼の懐で、すばるは彼女に寄りかかったまま眠ってしまっていた。
「…立ったまま寝るとは、恐ろしい子!」
「この子も一人で此処まで来たんだ、きっと緊張の糸が緩んだんだろう…」
立ち寝をするすばるに狐乃衛は小声でツッコミを入れるが、狼はそんな彼女をいたわる様に優しく背中を撫でてやった。
「…ま、起きるまで此処でこうしてもいられないし…しゃーない。ほら狼、こっちに乗っけて」
「狐乃衛…お前、背負って行くつもりか?」
二人の前でかがむ狐乃衛に、狼は感心した様子で返す。
「すばるみたいにちっこい奴なら、へーきへーき。…さすがに壱鬼とかの野郎なら無理。ってか、背負う前に断固拒否るけど」
その言葉に、狼はまたくすりと笑いを洩らしていた。
すやすやと眠るすばるを背負い、狐乃衛は皆がいる十字路がある方へと歩く。
その隣を狼が歩き、三人は黒く薄暗い廊下を緩々と進んでいた。
「それにしても狐乃衛、お前よくこれだけの距離がありながら、私の銃声が聞こえたな」
「んー…最初は気のせいだと思ったけど、何となく気になったから来てみた」
「何となく…か」
―それは、お前の頭に私の事が一瞬でも浮かんだからじゃないのだろうか。
「そうだと良いんだがな…」
「ん、何か言った?」
「いいや、何でもない」
「?そっか、なら良いんだけど」
狼に顔を向けていた狐乃衛だったが、また前方の方へと戻す。
狼も彼の方を向いていたが、少し遅れて彼女も前方を見る。
薄暗い廊下を歩く二人の後ろ姿で、狼の尾だけが上機嫌に左右へゆらゆらと揺れていた。
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