ナマエが海に出たとき、世界には地面と海があって、人間はその両方にしか行き来できないと思っていた。ナマエは彼女の持ってる四角い機械で、その景色を写すことに一生懸命で、その中に納められる風景を自分の意思で切り取るんだ、と思っていた。

「だめだ、酸素薄い……」
腕を上げるのも辛くなるほど、高高度な場所はとうとうナマエの体に馴染むことはなかった。カメラを構える重い腕を、ゆっくりと下げた。
熱帯の植物が、異常なほど高く多い茂っている。タオルが湿るほど汗をかいても、カメラが手から離れないのは、この景色とは二度と会えないと心のどこかで思っているからだ、とナマエは思う。
『空島に行く』とルフィが言った時、ノックアップストリームをメリーの手すりにしがみついて駆け上がったとき、空にも道があることを知った。それは、とてもカメラに収まりきるようなものではなくて、「ああ」と、ナマエはようやく理解していた。
ルフィという男には、世間一般の、ナマエの中にある常識の「海賊」とは随分一線を駕しているようだった。それがずっと不思議でもあり、でも、海賊でなければいけなかった理由のようなものを、雲の上に到達して知った。
(こんなものは、どうしたって「普通」には身に余る)
ただ、生きるだけでは駄目なんだろう。ただ、見たことがあるものばかりでは、ルフィにとって不十分なのかもしれない。
(しかしまぁ、一般人には慣れるまで時間がかかるっつの……)
せっかくの空島にやってきたのに、カメラをまともに構えられたのは、空島について直後。クライマーズハイ、とでもいう現状にも似た興奮で、吐き気と頭痛を忘れていられた少しの間だけだった。
なんとか頭痛と吐き気に慣れた頃には、周りでめくるめく多くのことが終わってしまった後で、ナマエがようやくカメラに納められたのはフィルムたった数個分の景色だった。
もうすぐキャンプファイヤーを囲んで、宴会が始まる。
そうすれば、多分、ルフィはすぐに下に戻りたがるだろう。なんとなく、来たときの様に怒涛の帰省になるような気がしていた。
アラバスタで出会って、ナマエからすれば半ば無理矢理始めることになった海賊一家だけど、短い付き合いの中で分ってきたことも沢山あった。彼女自身があの船を下りることは、死ぬまであり得ないほどには決意も固まっていた。
だからその腕はなお更、未だに手に入りづらいフィルムが必要な、決して軽くないカメラで写真を撮り続ける。ナマエがこの船でできることは、まだ、これだけだから。

「お。ここにいたのか」
がさがさ、と獣が近付くような音にナマエが驚いたのは一瞬で、背の高い草花の間から覗いた麦藁帽子が姿を見る前からちゃんと見えていた。
「船長。もう体大丈夫なの?」
「チョッパーが診てくれたからな!」
ずんずん、としっかりとした足取りをナマエが見る限り、あながち嘘ではない。けれど彼女は、いくらゴムだからといって雷と戦うなんていう胆の冷えるようなことをしたのを知っていて、それを鵜呑みにするほど楽観者でもない。
「ま、君の言葉はともかく、チョッパー先生のことは信用してる」
「おい、なんでだよ」
おれのことだぞ!ルフィがナマエに、ぎゃんぎゃん、と歯をむき出して怒る。彼女はそれを、さらりとかわす様に謝って、もう一度腕を上げた。尽かさず、シャッターを下ろす。
怒るルフィの頭の上に、大きな蝶が止まったからだった。
「なに撮ったんだ?」
「出来上がってからのお楽しみってこと」
あはは、と笑ってナマエは先を進む。
そうする必要もないのに、ルフィもその後を付いていくように動き出した。ぱしゅぱしゅ、とカメラ独特のシャッタ音が、ジャングルの中の虫だとか鳥だとか、歯の擦れ合う音と他にもたくさんの何か騒がしい音と混じりあう。
けれど、不思議なことに、一番に煩くなりそうなルフィは、静かにナマエの後を追うだけで喋りだす様子がない。時々、道端に落ちている木を、ああでもない、こうでもない、と吟味することはあっても、カメラを構えるのを邪魔だけはしなかった。
だから、ナマエが疲れきった腕を再び下ろすまで、随分と時間が過ぎていた。
「そろそろ戻るぞ」
ルフィが乱暴に、カメラの肩紐を引っ張る。その方向はやっぱりトンチンカンだったので、すぐにナマエがその手を引きなおした。
「こっちから来たよ」
「そうか?」
「まぁ、ただでさえ森の中って道を見失いやすいからね」
ナマエがそうならないのは、染み付くようにできた癖で、いろいろな物を見回しては覚えているからで。シャッターを下ろした風景を頼るように、もう一度来た道を引き返していく。
最初から、ルフィが「戻ろう」といえば、そうするつもりでいたように。
「意外と好きにさせてくれたね」
ナマエはルフィの手を一度離したが、今度はルフィがその手を掴んで進んでいく。次こそ、その方向は正しかったから、彼女はあえて別の話題を出してみた。
理由はそれだけじゃなく。単純に、驚いてもいた。ルフィという男は、まだまだナマエには読めないところが多くて、どうしてだか、それが妙に彼女にとって嬉しくもあった。ただし、この場合に読めてなかったのは、ルフィが静かにできるというところだけだった。
「そうか?でも、お前が撮ってるところ見とくと、あとで写真見たとき面白れぇんだよ」
「へぇ。なんだ、結構分ってきてるんだ」
ルフィが、ナマエも感じている写真の面白さに気付くことも、同じように彼女を幸せにさせた。
ところが、ナマエが感心してルフィの顔をのぞけば、その顔にはあからさまな違和感がある。けれどそんな顔をしてることは、彼女にだって何となく想像できた。本当に言いたいことを我慢するとき、ルフィは嘘をつけずに顔に出てしまう。
ナマエは、そんな小さな我慢を笑うように付け足した。
「でも本当は、宴が終わったらすぐに下に帰るからでしょ?」
ルフィはその目をさらに大きくして、「なんで分ったんだ?!」と、声を荒げた。
「ちぇ。他のやつらと一緒にお前も驚かすつもりだったのによ」
「なに企んでんだか」
ナマエが呆れて肩を落とせば、ルフィはにっしっし、と大きく笑った。
「あいつらには黙っとけよ?」
「りょうかい」
やっぱり、想像通りの海への帰省になりそうで、つられてナマエも笑っていた。
本当なら、クルー全員が戻らなくなってもおかしくない道を通って、雲の上へ来た。それは、冷や汗をいくらかいても足りないような話だったが、同時に、言葉を失うほど高揚した気分にもなった。少なくとも、ナマエはその興奮で体調の悪さなど吹き飛んでしまったのだから。
「空島は、あったね」
ふと、ナマエが口にしてしまったのは、そんなことを考えていたせいかもしれない。
「だな」
ルフィは、頷いた。
その腕で、まさか本当に黄金の鐘まで響かせた。ナマエは、あの音をカメラに収められなかったことを、どれほど悔しく思ったか分らない。せめて、その瞬間にとった写真が、耳の奥に残る音を引き出してくれると信じている。
空島を降りたら、もう二度と元の島に引き返すことはできない。確かめようのないことだけど、ナマエも、当然ルフィも、他のクルーだって、あの音が届くべき人に届いたと信じている。
「ねぇ、ルフィ」
きっと、色々な理由が重なったんだろう。ナマエは、思いついた言葉に、そんな理由をつけた。それを伝えるのなら、それは今、この瞬間しかあり得ないと思った。
『ん?』と、声を表した顔で、ルフィがナマエに続きを誘う。
「言っておきたいことが、あるんだよね」
「なんだ?」
今度こそ、しっかりと続きを聞きたがるルフィに、ナマエはぽそりとした声で言った。
もう一度考え直してみれば、随分と恥ずかしく感じたせいでもあるし、聞こえなければそれでも良かった。
「仲間だって、呼んでくれてありがとう」
その声は、ナマエが思っている以上に、しっかりとルフィに届いたらしい。
ルフィは、それを聞いて「バカだな」と言った。「変なこと言うな」とも「どういう意味だ?」とも、言った。でも彼女は、ナマエは、あえて何も付け足さないで、少し泣きそうな顔を隠すように先を進んだ。しつこく言っていたルフィも、いつの間にか何も言わなくなった。
こんなに進んでたかと思うほど歩いてやっと、宴の準備が進む賑やかな声が聞こえ始めた頃。ジャングルの奥は、赤い夕日が差していた。
「君、お腹空いてるでしょ。はやく行こう」
ナマエがもう一度その手を引くと、けれどルフィは少しもその場から動かない。
「おれも」
代わりに、お前に言いたいことあるんだ、とその口が開く。
「なに?」
ナマエは、振り返って見えた景色に息を呑んだ。ルフィの後ろでちらつく、そのオレンジ色や赤色に染まった森ばかりに目がいって仕方がない。ルフィさえ手を掴んでいなければ、疲れきった腕の最後の力を振り絞って、シャッターを切っただろう。
けれど、そんなことを考えられたのは、その一瞬だけだった。

「おれ、ナマエに呼ばれんの好きだ」

それだけ言い捨てて、ルフィは大股でその横を通り過ぎていく。
ナマエがその意味を考えながら、なんとなく、意識を目の前の深いジャングルに戻す。視界に広がる緑の景色が、陽光で鮮烈に染まっていた筈だった。それなのに、気付けばそこには鬱蒼とした暗さが滲んでいる。不思議ともう、重い腕を上げるだけの気持ちは湧き上がらない。
ナマエが横切ったルフィを追って振り返れば、その後姿と一緒に高く積んだキャンプファイヤー用の木組みが見えた。
誰が付けたのだろう炎で、すぐに木が燃え始める。ナマエは今度こそ、カメラを構えた。日が沈み始める広場で、沢山の人の影を伸ばしてみせる光炎が、確かにとても鮮やかだった。



囁くように美しい

Monkey・D・Luffy / writer by Penco
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