違和感で、目が覚めた。
 軽い頭痛に頭を押さえる。カーテンから漏れる光は既に昼近くだと告げていた。寝すぎた、のだろうか。うまく昨日のことが思い出せない。酒でも飲んだのかもしれないと思ったが、記憶がなくなるほど飲んだことは今までなかったし、吐いた息も酒臭くない。よろよろとベッドから起き上がり、寝室を出る。水でも飲もう。今日は休みだから、一日中家でゆっくりと過ごしてもいいだろう。
 不動は、もう起きているだろうか。同居人の存在を思い出す。ああ見えて、生活習慣はしっかりしているので、彼が寝過ごした姿を見たことはあまりない。もう起きているなら、食欲があまりないから、胃に優しいものを作ってもらいたい。しかしリビングには彼の姿はなかった。外にでかけているのだろうか。玄関に確かめに行こうとした瞬間、後ろから声が掛る。

「あぁ、おはよ。なんか今日、頭痛いから、わりぃけど自分で飯作ってくんない」

 その声に振り向いたが、リビングのどこにも不動の姿は見えなかった。不動、どこにいるんだ、ときょろきょろとあたりを見回すと、ソファのあたりがぎしりと鳴る。そこを見ても、何もない。

「なに、なんか探し物?」

 声は、そこから聞こえた。けれどソファには不動の姿はなく、電話のようなものも、スピーカーのようなものもない。ぎしり、とソファが鳴る。まるでそこに誰かがいるように。不動、と呼びかける。おまえ、どこにいるんだ。違和感と頭痛が強くなる。

「風邪でもひいたのか。全然、声出てねぇじゃん。俺の頭痛も風邪かね。季節でもないのに」

 不動、おまえ、何を言っているんだ。さっきから俺はこんなに、お前を呼んでいるじゃないか。
 ひくり、と鳴った喉を、何かが触れた。思わず払いのける。ぱん、と部屋に大きな音が響いた。虫か何かではなかった。人の温度。目を見開く。

「不動、おまえ、ここにいるのか」
「痛いっつぅの。いきなり払いのけるなよ。あー、もう心配して損した。もう勝手に薬でも飲んで寝てろよ」

 会話が、成り立たない。まるで違う世界に放りだされてしまったようだった。




 どうやら、俺には鬼道の声が聞こえなくて、鬼道には俺の姿が見えないらしい。耳や目がおかしくなったわけではない。テレビをつけても、鬼道は俺以外の誰かを認識できるらしいし、俺だって鬼道以外の音や声は聞こえている。それがわかるだけでも随分とかかった。
 いつもお互いの予定を書き込むホワイトボードがある。俺が確認できたことを書きこむと、鬼道はそれを凝視した。俺が持っているペンは見えないが、俺の書きこんだ文字は読めるらしい。ますます奇妙なことだった。次に携帯を使ってみた。しかし携帯越しでも俺は鬼道の声を認識することはできなかった。いくつか方法を試してみたが、結局最初に考えついた筆談へ戻る。携帯のメールでもよかったがこちらのほうが早い。
 昨日までは何ともなかった。今日、朝起きてから、まるで世界が変わってしまったかのようだった。昨日、何かあっただろうか。昨日。きのう。頭が、痛い。俺は考えるのをやめた。考えたところでなんともならない。

『とりあえず、いつもどおりに生活をしよう。もしかしたら、明日には戻っているかもしれないしな』

 俺は頷いて同意するが、慌てて、あぁ、と口にする。俺の動作を鬼道は認識することができない。面倒な話だ。
 お互いには、お互い、生活がある。例え俺の姿が鬼道に見えなくても、鬼道の声が俺に届かなくても、何も変わらず玄関の扉を開ければ、いつもの世界が待っている。おかしいのは、ここだけだった。




 不動の姿が見えなくなって、10日経った。不動が思っていたよりも、口数があまり多くないのだと気づいたのは今さらの話かもしれない。話しかければ返す。必要事項があれば話しかける。それだけだった。それだけだったのに、今までそれを静かだと感じたことがないのは、何故だろう。
 不動、と呼ぶ。不動に俺の声が届かないのを知りながら。けれど不動は、反応する。適当に思いついた用事について聞けば、なんだ、と呆れたようだった。
 不動が何故俺の声が聞こえなくても、反応したのか。なんとなくわかる。不動は俺の動作で、俺が不動を呼んだのを察したのだ。それは今まで俺も、当たり前のようにできたことだったに違いない。でも、今の俺は不動の姿を認識することができないから、それも不可能になってしまった。この部屋で、俺はひとりきりのようで、落ちつかず、何度か不動の名を呼んだ。不動はいちいちそれに、返事をして、ここにいるとそんな風に答えた。一度、不動が返事をしなかったから、慌てて探したことがある。たまたま不動が自室に物を取りに行っているときだったと思う。後ろから、どうしたんだよ、と声がして、それに酷く安心した覚えがある。
 不動はこの状況になっても、いつも通りだ。俺の声が聞こえなくても、不動の生活は何も変わらない。それが少しだけ苦しかった。
 不動のことが、好きだった。けれど曖昧に不動はずっとその答えを誤魔化してきた。答えをくれない不動に、何度不安を感じていても、不動は変わらない。
 不動はいつか、本当にいなくなってしまうのではないかと恐ろしくて堪らない。不動が何かを話すのをやめたとき、俺はひとりになってしまう。それが、怖い。
 本当にそうなのか、と頭の中で笑う声がする。誤魔化しているから、答えを知らないで済む。都合の良い真実など、聞かなくて済む。あの目を見れば、もしかして口に出さないだけで俺を否定しているのかもしれないんだぞ。だから、俺はあのとき。
 やめろ、やめてくれと俺は頭を押さえる。
 頭が痛い。俺は思い出したくない。



 たぶん、俺は、鬼道の、何かを話す前のその一瞬が、好きだった。鬼道は何かを話すとき、一瞬、考える。自分が何を話すのか、その組み立てはどうか、簡潔であるかどうか。その一瞬が、好きだった。
 だから、鬼道を見ていればなんとなくわかる。何を話したいのか、何を求めているのか。俺はこの状況で困っていることはあまりない気がする。もし、俺に鬼道の姿が見えなくて、声だけ聞こえる状態になったら何かが違うのだろうか。
 
「俺、鬼道と話していると、まるで俺が幽霊になったみたいだなって思う。声だけしか聞こえないんだろ。もしかして、俺が外に出て、鬼道以外の声は聞こえていると思っていたのは気のせいで、実は俺は死んでいて、だから声だけしか聞こえないんじゃなくて、声だけしかないんだ。どう、この考え」

 じょうだんはやめろ。
 簡潔にひらがなで書かれた言葉。悪かったよと笑う。実際には、外に出ても周りは俺の存在を確認してくれる。この場所で、このふたりだけが、異常なのだ。他の誰かが俺を見ることができても、鬼道だけは、俺の姿を見ることができない。たったひとり、鬼道だけが。それだけで、俺は世界から見放されたのだと錯覚する。

「部屋に戻る。おやすみ」

 ソファから立ち上がれば、鬼道は不安げにこちらを見る。けれど決して目が合うことはない。俺がどんな顔をしているかも、わかるはずがない。鬼道が驚くから、俺は鬼道に触れられない。軋む、軋む、軋む。頭の中のどこかで軋む音がする。知ってる。これはこうなる前から、そうだったと。それがもっとわかりやすい形になっただけで。
 部屋の中は荒れていた。あの朝俺が起きたとき、既に部屋はこんな状態だった。自分がやったのだろうけれど、覚えがない。手当たり次第に、目についたものを投げつけたような、酷い有様。服は散乱し、雑誌も破かれている。俺はそれを片付けるのが、何故だか恐ろしくて堪らなかった。それでも、このままにしておけば、鬼道が気付いた時に面倒だった。溜息をついて、服を拾い上げ鞄に詰めていく。雑誌は纏めて落ちていたビニールテープで縛り上げる。ふと手を止めて、その自然な流れに気付いたとき、あの朝感じた頭痛が再発した。痛い、痛い、俺は今、何をしようとした?
 まるで部屋に在る物を全部ひっくり返したような部屋。何故か落ちている大きな鞄とビニールテープとゴミ袋。荷物をまとめていく自然な手。
 かたん、と音を立てて荷物の中からそれが滑り落ちたとき、俺は激しい頭痛と共に全て思い出した。


「出ていこうと、思うんだけど」

 まだソファに身を沈めていた俺に、そんな声が降ってきた。部屋に戻ったはずの不動の声。けれど言っている内容が理解できず、は、と間抜けな疑問が口から洩れる。

「荷物はまとめたし、今すぐにでも、出ていける。どうせ俺の姿が見えない生活にこの数日で慣れただろ。だから、後は声が無くなるだけだ。たった、それだけのことだ」

 笑っているかのような声。顔が見えなくてもわかる。目は笑っていない。冷たく俺を見下ろしている。
 ぎし、とソファの背もたれから音がする。不動が座っている俺の肩の横に、手を置いたのだ。後ろから不動の声は続く。

「残ってるものは、捨てていい。電話番号も、アドレスも。それでもう二度とお前には会わない」
「まて、何を言ってる。出ていく、までは事情があれば理解できる。でも二度と会わないと言うのはどういうことだ」

 口にしてから気づく。俺の声は不動に届かない。けれど、不動は俺の考えを読んだかのように、笑った。姿が見ることができないのに、会う理由なんてないだろう、と。

「なぁ、満足か。だって、これは、お前が望んだことだろう」

 その言葉で、思い出した。
 喧嘩をしたのだ。理由までは、思い出せない。くだらないことだったかもしれないし、重要なことだった気もする。けれどそれを思い出せないくらい、その喧嘩は酷いものになった。お互いがお互いに否定する言葉を使った。罵った。たぶん、あの時の俺も、不動も、醜かった。何をそんなに否定する必要があったのだろう。それがわからないほどには、あの時の俺たちは冷静さを欠いていた。
 決定的な言葉を口にしたのは、俺だった。

「もう二度と、お前の姿は見たくない。お前、そう言ったんだよ」



 鬼道が俺の姿を見ることができないというだけで、俺は世界から見放された気分になる。鬼道が自ら望んだのなら、尚更のことだった。
 もういい、出ていけ。もう二度と、お前の姿は見たくない。俺の世界から消えてくれ。
 それは最大限の否定の言葉だった。だから、耳を塞いだのだ。否定されたくはなかった。それまで自分も鬼道を罵ったことを忘れて、俺は耳を塞いだ。聞きたくない。否定されたくない。俺を否定する、お前の声なんか聞きたくない。
 これは鬼道が望んだことで、俺が望んだことだった。
 それでも、全部忘れてまだ傍にいたのだから笑うしかない。けれど与えられた猶予は数日で、もうお互いに思い出してしまったから、これでおしまい。今度こそ、俺は鬼道の前から本当に消えなければならない。あとは、声さえ消してしまえば、それでいい。
 鬼道がホワイトボードに手を伸ばす。

『ふどう、まだそこにいるか』

 俺は返事をしない。

『いるとおもってつづける』

 返事は、返さない。

『わるかった』
『おれがわるかった』

 違うよ、と俺は声に出さずにそれを否定する。
 たぶん、あの喧嘩を避けても、近いうちに同じことになった。
 恐ろしかった。鬼道に否定されることも、そして、肯定されることも。
 あの喧嘩は、本当に悪かったのは俺なのだ。
 曖昧に誤魔化してきた。言葉にするのは不安で、けれどもっと不安に感じていたのは鬼道の方だろう。俺を求める声を、俺は否定したのだ。本当は俺も手を伸ばしたかったのに。不安げに見る目に気づかないふりをして、そのままを望んで、軋む音は大きくなる。そしてあの日それは爆発したのだ。
 自分で曖昧に誤魔化しておきながら、否定されて後悔するだなんて、自分勝手にも程がある。でも、もう俺は鬼道が俺を否定する声を、聞きたくないのだ。だから出ていく。声を消して、そうしてもう二度と会わない。そう決めた。なのに。

『おまえがすなおじゃないことも本当はおくびょうなこともしっていたんだ』
『ゆっくりまつべきだったんだ』
『それなのにおまえに言ってはいけないことを言って』
『おれも、答えを聞くのがこわかった』
『だからお前にいなくなって欲しいだなんて言ったんだ』

 こうなって、思い知った。

『ふどう、目を見てちゃんと話したい』

 声が聞きたい。

「不動、もう俺はお前を否定しないから、だから、ここにいてほしい」

 俺はこんなにも、鬼道を求めている。


 
 ぱちん、とシャボン玉がはじけるように、その瞬間それまで歪んで映っていた向こう側がはっきりと見えるように。
 顔を上げれば、不動は確かに、ここにいた。泣きそうな顔で、俺を見下ろしている。

「――本当は、嬉しかったんだ、これ」
「あぁ」
「ごめん」
「俺も、悪かった」

 不動の薬指に光るそれを見ながら、俺たちは11日ぶりに仲直りをした。
 







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