旅行に行こう、と鬼道が言い出した。夏に入る前の、じめっとした夜のことだった。鬼道はソファに腰掛けたまま、俺を見ることはなかった。最近はいつもそうだ。俺はこの数カ月まともに鬼道と目を合わせて会話していない。俺がいいよ、と言えば、鬼道は一瞬リモコンを持ったまま固まる。全然見もしないテレビ、回さないチャンネル。何かの言い訳のように持ったままのリモコン。よく鳴る携帯電話。あぁ、汗がうっとおしいなぁ。俺は後ろから鬼道の首に手を回し、いいよ、行こう、と再び耳に囁きかける。逃がさないぞ、と言わんばかりに。鬼道、鬼道、鬼道。声に出さずに拘束する。いいよ。
 手からリモコンが滑り落ちる。俺はそれを拾って再び鬼道に持たせる。テレビからは間抜けのバラエティが流れてくる。
 夏に入る前の、じめっとした夜のことだった。


 何も持たなくていい、と言われたから俺は本当に何も持たなかった。財布だとか、携帯だとか。家の鍵すら持たなかった。携帯電話は一時間前に浴槽に落とした。防水じゃないからきっとこれで壊れてる。拾い上げて、タオルで拭いて、テーブルの上に放り投げる。がちゃん。テーブルにも携帯にも傷がついたような気がするが、もう使わないからどうでもいいだろう。
 準備できたよ、と玄関で座って待っていた鬼道に言えば、あぁ、と頷いて鬼道はやはり俺の目を見ないで立ち上がった。それに関して寂しいだとか、悔しいだとか、思うことはなかった。鬼道も荷物は全然持っていなかった。唐突に言い出したことだったし、ここは鬼道の家ではないので。そういえば、鬼道が俺のおんぼろアパートに訪れるようになって数年が経つが、今改めて振り返ってみれば、鬼道のものはひとつ残らずなくなっていた。さっき洗面所を見たときも、いつの間にかあったはずの鬼道の歯ブラシがどこかへいってしまっていた。段々と少なくなっていく鬼道の荷物に気付いたのはいつのことだっただろう。俺はそれについて追及することはなかった。気付いた頃、俺も荷物の整理をし始めた。鬼道が忘れてるような、鬼道の痕跡を少しずつ消した。思ったよりも多かったなぁ、とゴミ袋に詰め込んだり燃やしたり。鬼道クン、捨てるくらいなら持って来なきゃよかったんだよ、なんて呟いてみたり。
 きっともうここへ帰ってくることはないから、一番お気に入りのスニーカーを履いた。随分前に鬼道と選んだものだった。ずいぶんぼろぼろで、きっと鬼道は俺と選んだスニーカーだということを覚えていないだろうなぁとぼんやり思う。鬼道は何も言わず鍵を手の中で弄りながら待っていた。お待たせ、とその手に自分の手を重ねれば、気にしていない、なんて言いながら自然にその手を逃がしてしまった。ちぇっ。最後だからいいじゃん。
 最後に部屋を振り返って、俺はばいばいと手を振った。もうあの日々は戻ってこない。ここにももう戻ってこない。
 おんぼろアパートの駐車場にある高級車には毎回笑ってしまう。あまりにも似つかわしくない。せっかくアパートから痕跡消したのに、これじゃ意味ないだろ。相変わらず詰めが甘い。助手席に乗り込んで息を吐いた。そういえば何処へいくのか全く聞いていない。まぁいいか。鬼道も乗り込んだ車は清々しいほどに沈黙に満ちている。
 何処に行ったって同じだ。俺はそこで鬼道に殺される。


 鬼道が俺に気づかれていないと思ってるのなら笑ってしまうのだが、鬼道はもうすぐ結婚するらしかった。別に、結婚するだけだったら俺はいつだって別れてやるし、もう二度と会わない覚悟くらいはある。けれど鬼道にとってはそれだけでは駄目なのだ。鬼道は普通の幸せを求めようとした。結婚という、誰でも望むそんな幸せを。けれどそれには俺が邪魔なのだ。別に、邪魔する気はないけど。元々惰性でだらだらと付き合ってこの年まできたのだから潮時ならこの関係を断ち切ってもよかった。だが鬼道は俺が鬼道の手に入れようとしている幸せを壊すのではないかと恐怖しているのだ。正直別れようと言われるよりもそっちのほうが個人的にショックだった。どれだけ信用がないのか、と呆れると同時に、仕方がないか、とも思う。俺は爆弾だ。俺ごと鬼道の身を破滅させることができる。
 いつだったか、夜に鬼道が俺の首を絞めてきた。そのとき俺は寝ていて、流石に首を触られて起きたが、寝ているふりをした。鬼道は明らかに俺を殺す気だった。口封じだ。鬼道を止めたのは良心ではなく、ここで殺したら自分が殺したことがばれると思ったからだろう。鬼道の家の力を使えば隠しとおせる気はするが、そうする度胸がなかったのかもしれない。人間でいたかったのかもしれない。誰にも知られないように、俺を殺さなければ。その頃から鬼道が俺と目を合わせることはなくなった。
 鬼道が望むなら殺されてやってもいい。それは惰性で続けていた関係の延長のようなものだった。鬼道のように望まれるような人間でもないし、なんだかそれは当然の成り行きのようにも思えたからだ。鬼道がいつもポケットにナイフを忍ばせていたのを知っているし、逆に俺が鬼道を殺すんじゃないかと疑って眠れずにいるのも知っている。それらを知るたびに、馬鹿だなぁと愛おしい気持ちと憎らしい気持ちが湧いてくるのだ。何が憎いのか、なんて決まっている。俺があいつのために死んでやってもいいという気持ちに、あいつが遂に気づくことがなかったことだ。


 どこに行きたい、と聞いてきたから、適当に海の近くと答えた。なんだかドラマチックでいいじゃん。こんな夜中でまだ夏にもなっていないなら、誰もいないだろう。最後に死に場所を選ばせてくれる鬼道に、笑ってしまう。殺して、どっかに埋めるつもりだろうか。トランクの中にビニールシートか何かあるかもしれない。おとなしく鬼道の家の力を使えばいいのに。どうせ鬼道は詰めが甘いからどっかでぼろが出る。そこを俺が誰より知っている。自慢してもいいくらい。旅行行くって言っておいてこんな時間じゃどこも急に泊まれないだろうし、そんなことにも気付かないくらいに疲れているのだろうか。俺がついてこなかったどうするつもりだったのやら。
 鬼道はどうやって俺を殺すだろう。ナイフで殺すかもしれないけど、返り血が怖いからまた首を絞めてくるかもしれない。あんまり痛くないといい、なんて。それで埋めるところはばれないところだけど、また来るのに困らない場所がいいなぁと思う。絶対鬼道は俺が本当に死んだのか確かめにくるだろうから。ゾンビじゃないからそんなにほいほい生き帰るわけねーだろ、と言ったところできっと信じやしないだろうし。一番確実なの、おまえんちの家に埋めることだと思うぜ、なんて言ったらたぶんショック受けるだろうなぁ。


「なぁ、鬼道」
「……なんだ」
「俺はさ、いいよって言ったから」
「なんの、話だ」
「そういう、話だよ」

 きっと気付かないだろう。だから馬鹿なんだ、おまえって。


 案の定海には誰もいなくて、そんな中にいる男ふたりと高級車はかなり浮いているだろう。人殺すなら、目立つ車はやめとけよ、なんてアドバイスしていても後学のためにもならない。きっと鬼道が殺したいと思うのは俺くらいだ。それを嬉しいと思うのは、おかしいのだろうけど。裸足になって砂浜を歩く。鬼道は靴のままだったけれど、歩きにくそうだった。きっと靴の中に砂が入っているのだ。なんで、砂浜を歩くと、気をつけてるつもりなのにいつの間にか砂が入りこんでいるんだろう。鬼道を見ると、ずっとポケットに手を突っ込んでいた。それを見て、俺はちょっぴり悲しい気持ちになってきて、波が足首まで来るところまで進んで、踊るように手を広げた。

「それで、俺を殺すんだろう」

 笑いかけてやれば、鬼道ははっとしてこっちを見た。あぁ、ようやく目が合った。やっと俺を見てくれた。なにを、と鬼道は絞り出すように声を出す。なにを、いっているんだ。相変わらず、隠し事が下手なのな、お前って。
 つ、と指で心臓の辺りをなぞる。

「そのナイフで、俺を刺せばいい」

 首と、どっちがいいんだろうかな、って考えて、やっぱり心臓だな、と俺はそこをなぞる。考えるのは脳なのに、どうしてか人間は心は心臓にあると考えるらしい。縫いとめられたい、なんて馬鹿馬鹿しいことを、言ってやれば何が変わる。
 鬼道は何も言わなかった。ただ、ポケットの中のそれを握りしめる手が、やっぱりちょっとだけ、悲しいのだった。だって、それは、俺を殺すよりも今は、俺に殺されないために握りしめてるのだから。

「俺が、お前を殺すと思ったか」

 気づいていないのならばお笑いだったのだけれど、俺が気づいていることに鬼道は気がついていたのだ。そして、俺が鬼道を殺すんだと、勝手に思い込んで、だから今日もずっと、車を運転する時すら、ナイフを握っていた。殺される前に殺すために。ここで全裸になってやろうか。なぁんにも、持ってきていないよ。

「俺、お前が憎いよ。なんでだか、わかる?」
「俺が浮気したからか。勝手にお前を捨てて結婚しようとしたからか」
「全然違う」

 お前が、最後までわからなかったことが、憎いんだ。
 俺がお前に殺されていいと、そう思っていたことに、遂に気付かなかったことが。

「俺、気づいて欲しかったんだ。そんだけお前のことが好きだって。気付いてくれたなら、殺されても良かった。なんだろう、成績表の、大変良く出来ました、ってあんな感じにさ。俺がお前に殺されても、そんくらいのもんだよ。ようするに評価ってやつ。お前に殺されるに足るだけの存在になれるならそれでよかった。言いかえれば、評価があればよかったんだ。俺はそんだけお前を愛せたんだっていうさ。なぁ、どっちが酷いと思う。俺とお前と。俺、お前じゃなくてもよかった。殺されてもいいくらいに、誰かを愛せたなら、それで良かったんだよ」

 俺、ただ愛して、褒めて欲しかっただけなんだ。
 一瞬、音が消えて。音が戻ったとき、最初に聞こえたのは鬼道の泣き声だった。いつの間にか俺は押し倒されていて、馬乗りになった鬼道はナイフを持つ手を振り被っていた。冷たいなぁ、と思った。水が冷たい。
 泣き虫。

「刺せよ」

 俺は、いいよ、って言ったぜ。
 けれど震える手は、降りてこない。
 断罪すればいいのに。こんな俺を。

「できない」

 鬼道の声は、震えていた。

「できない。お前が本当の意味で俺を愛していないのを知っているけど、俺はお前のことを愛しているんだ」

 俺、お前と心中したかった。そうすれば、お前の気持ちなんか関係なく、ずっと一緒にいられるから。お前が本当に俺を愛していないと知っているから、だから俺、せめてお前が俺を忘れないように、お前のことを殺そうと思ったんだ。他の女と結婚して、断ち切ろうとしたけれど駄目だった。俺がお前を忘れるなんて、どんなに頑張ってもできなかったから。俺はお前が憎い。どうせ俺がいなくなってしまったら、他の誰かを愛するんだろう。誰でもいいんだろう。なら、そうする前に俺がお前を殺したい。お前が、俺の愛する不動でいる間に。俺の不動でいる間に。
 震える鬼道の声が、無感動に耳からぬけていく。殺されるのはいいけど、心中はやだなぁ、って思った。心中なんかしたら、誰も俺を褒めてくれない。こんだけ愛したって、知っているの、鬼道だけなのに。鬼道も死んでしまったんじゃ、意味がないだろ。
 鬼道の手から滑り落ちたナイフは、俺の頬を切ったけれど、それだけだった。俺は、数時間前に鬼道の手にリモコンを握らせたように、ナイフを握らせたけれど、ちっとも上手くいかなかった。俺は諦めて、手の中でナイフを弄る。
 なぁ、俺、鬼道と同じように、人を愛せたらよかったのかな。笑ってしまう。これではただの、価値観の違いによる痴話喧嘩だ。恋人にありがちな。俺、褒めて欲しいから愛したかっただけなんだ。そうすれば、愛されなくっても生きていけるって、思っていたから。上辺だけの嘘のような言葉だけがあれば、本物かもわからない心なんて必要ないって、そう思っていたから。
 靴の中に砂が入りこむように、そんな風に自然と人を愛せたなら、きっと物語はハッピーエンドにもバッドエンドにもならず緩やかに始まりも終わりもなくゆるりと続いていくのだろうけど、結局仮初に書いて見せた砂の上の落書きのような気持ちなんて穏やかな波にでも簡単に消せてしまえるだけのものだろうから。








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