最近よく、夢を見るんだ。
 場所は、どこだっただろう。帝国に似ている気がするし、うちの庭だったような気もする。よくわからない。夢の中で俺は、あのひとと話している。内容はわからない。けれどあのひとは、小さく笑っていて、それを見て俺も笑っていたことだけは、はっきりと覚えている。そこで、俺は、あぁこれは夢なのだなと気づく。だってあのひとは、あんな顔で笑ってくれることはあまりなかったから。だとしたらこれは、夢なのだ。そう認識した瞬間、あんなにおぼろげだった景色が一瞬だけはっきりとして、意識が覚醒していくのがわかる。俺は願うんだ。覚めるな、覚めないでくれ。けれどやはり夢だから、気がつくとベッドの上だったんだ。なんだか違和感があって、顔を触ると、濡れている。まただ、俺はまたあの夢を見て、泣いたんだ。その事実に悲しくなって、俺はさらに涙を流す。夢の中で俺は、確かに幸せだった。満たされていた。そう感じてしまった。なぜなら、現実ではもうあのひとには会えないから。あんな笑顔を見ることなんて、夢の中でしかもう、できないから。だから、あの世界がとても美しく感じて、たまらなく幸せで、目が覚めないように願ってしまう。それを、俺が弱いからだと、おまえは笑うだろうか。

 泣きそうな顔で笑いながら、鬼道はそう告白した。
 少しずつ、鬼道の睡眠時間は長くなっていった。元々は酷い不眠症だったのだが、あるときを境に、逆によく眠るようになった。それを皆が良い兆候だと捉えていたが、俺はそうは思えなかった。目の下の隈は消えても、ぼんやりとどこかを見ている。気がついた時には、机に突っ伏して寝ているときもある。病院へ行っても原因はわからないのだと鬼道は笑っていたが、それは嘘だと俺は気づいた。病院へは行っていない。しかし、原因を本人は知っている。只の勘ではあったが、当たっていたわけだ。鬼道がそれを告白したのは、もう睡眠時間の方が、起きている時間よりも圧倒的に長くなってしまってからだった。
 俺は笑わなかった。




 一日に数時間だけ、鬼道は覚醒する。段々と短くなっていく時間に合わせて、俺は鬼道と散歩した。行き先は考えていなかったけれど、道もよく覚えていなかったけれど、ふらふら歩いて、鬼道がまた眠くなってきたころに、何故かちょうどよくぐるりと元の場所に戻ってくる。そうしてベッドに横になる鬼道の胸のあたりを叩いて、おやすみと声を掛ければ、すぐに鬼道は瞼を閉じて寝息を立てた。少しだけ鬼道の寝顔を見た後、俺は窓際のロッキングチェアに腰掛けて本を開く。そうして、鬼道がまた目覚めるまで待つのだ。部屋の本棚にある本は、まだ不眠症だった頃の鬼道が、夜の暇つぶしに用意したものだった。堅苦しい哲学だったり、歴史の本であったり、兵法書であったり。本棚を見れば持ち主の人となりがわかる。この部屋に来て数カ月経つが、俺は未だに小説の類を見つけたことがない。あくまで知識だけを蓄積する本棚。娯楽になりそうな、気を抜いて読めるような本は全くなかった。鬼道は自分の中に作り上げた世界の中にしか、気の休まる場所はないらしい。へたくそな翻訳の文章の癖を考えたり、腹が減ったから食事を作ったり、花壇をいじったりしながら、俺は鬼道が目を覚ますのを待ち続ける。たまに外に出ているときに鬼道が起きたときは、ベッドの傍のロープを引っ張れば、外のベルが鳴る仕組みになっている。敷地は広いが、道路も遠いため少し離れていても余裕で聞こえるようになっている。
 鬼道が俺に夢の中身を打ち明けてからしばらくして、俺たちはひっそりと山の中にある鬼道家の小さな別荘に隠れ住んだ。時々誰かが掃除をしていたのか痛みこそはなかったが、人が本格的に住むようにするのには苦労した。少しずつ荷物を持ち出して、大きなベッドひとつ、それだけは新しく用意した。
 俺たちはここを永住の地と決めた。

 元々、鬼道は酷い不眠症であったが、それは俺も同じだった。何度も繰り返し同じ夢を見る。目の奥がちりちりと痛む。残念ながら俺は、鬼道とは違って夢に逃避などできなかった。夢よりも現実の方が心地よく、夢の中身は俺を苛むばかりだった。だから鬼道が夢に理想郷を作り逃避して少しずつその理想郷に溺れる時間が長くなると共に、俺はさらに眠らなくなった。不思議なことに、鬼道が俺にあの心情を吐露したあの日から、眠れないことによる疲れなどはまったく感じないようになったのだ。まるで鬼道が、俺の分も寝ているかのように。
 ここに住むようになってから、鬼道は少しずつ夢の中身を現実に持ち帰るようになった。あのひととこんな話をした。あのひととこんな場所にいた。へぇ、と俺は適当に頷きながら、風景だけは、それを再現できないものかと考えた。鬼道の話を整理して、スケッチブックにイメージを描き込んで、ああだこうだとやりとりしては笑った。夢の中に俺の理想郷はないけれど、おそらく現実のどこにも俺の理想郷はないけれど、鬼道の理想郷を少しでも再現できれば、そこに近づける気がしたのだ。きっとそれは恐ろしいほどに美しく、眩い場所なのだろう。
 絵本に出てきそうな小さなログハウス。キッチンとリビングと、トイレとお風呂、寝室くらいしかない。寝室にあるのは、本のぎっしり詰まった天上まで届くような大きな本棚。俺専用のロッキングチェア。鬼道専用の天蓋付きベッド。段々と現実感がなくなっていく。まるでずっと昔から、ふたりがこうして生きてきたかのように。
 もしかしたらあのとき俺は、笑ってやるべきだったのかもしれない。そうすれば、鬼道は現実に生きようとしたのかもしれない。俺にあのとき夢の中身を話したのは、俺に否定してほしかったのだろう。でも俺は笑いも否定もしなかった。ただ黙って、俺は鬼道の手を引いた。それは現実に呼び戻すためのものではない。さらに深い夢へと誘うものだ。
 理想郷があるのが羨ましかったのかもしれない。あるいは、どこかで鬼道の破滅を願っていたのかもしれない。真実は俺にもわからない。ただ、俺たちはこの、どこか世界から切り離された場所を、安息の地と決めた。ここで鬼道はもうすぐ終わらない夢を見続ける。鬼道が起きていられる時間は、もう一日でもごくわずかだ。きっとそのときがもうすぐ来る。俺はそれを見届けて、その後は、現実の鬼道の世話をする。点滴を用意したり、風呂に入れたり。そうやって、自分自身の命が朽ち果てるまで待つのだ。




「おはよう、鬼道」

 鳴らされたベルに、急いで家まで戻る。なにせ、ゆっくりと移動したらその分、鬼道と過ごせる時間が減るのだ。鬼道はベッドから起き上がり、目を擦りながら、おはよう、と返した。厚手のコートを鬼道に羽織らせる。暖かくなってきたとはいえ、まだ外は冷える。このあたりは雪こそは降らないが、朝になれば水たまりに氷が張った。
 鬼道が目覚めてから散歩に行くのは、日課だった。あまり動かしていない身体は鈍りきっていて、外のでこぼこ道では危ないから、俺は必ず鬼道の手を引いて歩く。先ほどまで眠っていた鬼道の身体は、ぽかぽかと暖かかった。

「今日も、今日の夢も、幸せだった」
「よかったじゃん」
「……でも、」

 その続きを俺は聞かず、黙ってそのまま強く手を握るだけに留めた。何かを察したのか、鬼道はその先を続けなかった。山の中の沈黙は沈黙にならない。虫や動物の鳴き声だったり、葉の揺れる音だったり。けれど中途半端に途切れた会話で、それらも静まってしまったようだった。

「おまえは、最近夢を見ないのか」
「そもそも眠ってないし。眠くならないし、いいかなって」

 眠るのが怖かった頃もあったが、慣れてしまった今となっては、寝られないなら寝なくてもいいのではないかと開き直っている。それで不思議と身体は疲れないのだから、やはり鬼道は俺の分の睡眠欲を奪っているに違いない。

「前はよく夢を見た。そのたびに、俺は、これは夢だ、早く覚めろって願う。おまえと正反対に。起きたら背中はぐっしょり汗で濡れていて、それが冷たくて、あぁよかったこれが現実なんだって、ほっとする」

 夢の中で俺はひとりきりだった。他の誰もいないから、声を出しても誰にも届かなくて、何かを触ろうとしても冷たい壁だらけで、それがたまらなく怖かった。こんなのは嘘だ、夢だ、覚めろ覚めろ覚めろ、けれど夢の中での時間は長くて、起きた頃には俺の頬は冷たいもので濡れていた。たった数時間だけの眠りなのに、何年もあの空間にいたようで、またあの夢を見るのが恐ろしくて、俺は眠るのが嫌になった。現実だ。目を閉じればそれが消えてしまいそうだったけれど、ここが確かに俺の生きる現実で、こうして手を繋いで歩いて行けるひとがいる。それも、もうすぐ終わるのだろうけれど。
 
「俺の分も、おまえが夢を見ればいい。現実のどこにもない、幸せな夢を」

 目を瞑ればそこには鬼道の理想郷がある。あのひとがいて、鬼道がいて、何にも邪魔されず、楽園のような生ぬるい場所で、笑っている。鬼道が現実を生きるのに疲れてしまったのを責められやしないし、それを引きとめるだけの何かを俺が持っているはずもなかった。この世界が素晴らしくて完全無欠なものだと胸を張って言えるなら、違ったのかもしれない。けれどここに鬼道にとって本当の意味で心の休まる場所なんかないのだ。日々、些細なことに傷つけられ続けた鬼道は、現実に生きるのをやめた。夢の向こうに理想郷を作った。そこでは誰も鬼道を傷つけない。日々長くなってくる睡眠時間。鬼道はもうすぐ、本当に向こうへ行ってしまう。そうすれば鬼道はもう、戻ってこられやしないだろう。だって向こうでは誰も鬼道を傷つけないんだから。
 俺は幸せがどんなものなのか知らなかった。夢の中ですら俺の理想郷は描けなかった。四角くて狭くて暗くて冷たい、あんな場所しか生まれない。現実はあくまで夢よりもましなだけで、生きていくにはやはり、人並みに苦しいことがある。俺はそれに耐えきれるけれど、繊細な鬼道はそれに耐えきれなかった。それを救ってやれるだけの場所を、俺は知らないから作ってやることなどできないのだ。
 だから、おやすみ。俺は今日も鬼道を楽園へ突き落す。




 あぁ、今日だ。
 それは直感だった。今日がその日なのだ。
 鬼道もそれを感じたらしい。あの日のように、泣きそうな顔で笑っていた。もう起きていられるのは一日に三十分もなかった。俺はずっと起きていたから、知っている。
 鬼道、と名前を呼んだ。何度も読んだ。そのたびに、鬼道は頷いた。これが最後だ。きっと明日からは、呼んでももう、返事を返してくれない。

「不動」

 名前を呼ばれるのも、きっとこれでおしまい。
 また、泣きそうな顔で、ベッドの上の鬼道は、震える手を俺に伸ばした。それは未練のようにも思えた。
 おまえは笑うだろうか。
 あのか細い声を思い出す。
 いいや、笑わないよ。けどね。駄目だよ。

「目を瞑って」

 呪文を唱えるように俺が言えば、鬼道は、大人しく、目を閉じた。目尻から何かが滑り落ちていく。鬼道の手を握った。まるで、母親が子どもを寝かしつけるように。やさしく声をかける。

「夢の中の理想郷は、もう一度眠れば、それは、鬼道にとっての現実だ。あのひともみんなもいる。寂しくなんてないだろ」
「でも、おまえがいない」

 鬼道の声は、震えている。俺は鬼道の手を、少しだけ力を込めて握った。
 鬼道の理想郷は、日々より明確な形となった。メインは鬼道とあのひとで間違いはないのだけれど、そこには彼の友人が多くいるらしい。たくさんの名前を聞いた。ほとんど、知っている名前だった。けれどそこに、俺の名前はない。
 俺は鬼道の理想郷に存在できない。なぜなら俺は、夢に逃避できないから。俺は鬼道の中で、現実の擬人化なのだ。だから、最後に、俺を求める。あの日も、今日も。俺が手放せば、鬼道はもう、現実には戻ってこられない。
 でも、だから、だめだ。
 だって俺は、おまえを幸せになんかしてやれない。


「俺は、ここにいるだろ」
「でもあっちにはいない」
「でも、あっちにいかないとおまえは、幸せになれないんだ」

 現実のどこにも、もうおまえを幸せにできる場所はない。俺はおまえを幸せにできない。だから、あぁ、そうかやっとわかった。だから俺は、おまえの幸せを守りたかったんだ。俺は、おまえを幸せになんかできないけど、こうやっておまえの幸せを守ることくらいならできる。

「もし俺に会いたくなったら、そうだな、あっちで夢でも見ればいい。そうしたらきっと、俺に会える」
「夢の、夢」

 きっとそこは現実ではないだろうけど。その夢を、俺は見ることはできないだろうけど。

「ほら、なにもこわくないだろ。だからほら、」

 おやすみ、と耳元で囁けば、答えのように、もう一度、目尻から滑り落ちていくものがあった。その目尻に、そっとキスをする。
 きっともう、おはようは来ない。







 鬼道が眠り続けて数年が経って、ようやくイメージ通りの花壇を作ることができた。何度も麓から肥料を往復するのは大変だったが、こうして花が咲き誇っている姿を見ると、なかなか感慨深い。裏の方には畑があって、これも形となるまで結構かかった。本棚にはガーデニングの本の類はまったくないし、こんな場所ではインターネットも使えない。自分で道具から何から揃えるしかなかった。そうやって日中は畑や花壇を弄っているから、寂しさも紛れる。
 前までは鬼道が起きるまでを耐えればよかった。けれど鬼道はあのベッドの中で、幸せそうに眠っている。もう目覚めない眠りについて、俺のいない世界を現実として生きている。相変わらず、俺は、眠ることができなかった。畑仕事でくたくたになりはするけれど、瞼を閉じても眠りに入ることはできない。ロッキングチェアをゆらゆらとゆらして数時間も経てば、不思議と疲れは取れた。俺の眠りは鬼道に奪われたままだ。
 せめて、俺が夢を見られたら、夢の中で鬼道と会えたのに。
 名前を呼んで、触って、その一々に、返して貰って。けれど現実はそうじゃない。ここにいる鬼道は、名前を呼んでももう返事はないし、触っても、寝返りを打つだけだ。それを覚悟していたはずなのに、どこかが苦しい。
 用意したベンチに座って、庭を眺める。鬼道のイメージしたものに近づいたのか正解は俺にはわからない。こうしていることで、俺も鬼道の理想郷に溶け込めたのだろうか。俺も幸せになれるのだろうか。
 その答えを俺はもう出している。そしてそれに打ちのめされている。
 俺にとっての理想郷は、確かにここにあったのだ。ふたりでここを終わりの地と決めて、そうして鬼道が覚めない眠りにつくまで。あのとき俺は確かに幸せだった。満たされていた。鬼道が目を覚ますのを待って、それに合わせて食事を作って、散歩をして、暗い道に騒ぎながらも、手を繋いで、触れあって、たったそれだけと笑ってしまえそうだけれど、たったそれだけが幸せだった。そんなことに今さら気がつくだなんて、俺は馬鹿だ。
 引きとめればよかった。おまえの幸せなんてどうでもいいから、俺といっしょにいてくれと、泣きながら、喚きながら、見苦しい姿を晒しても懇願すればよかった。あいつもそれを、すこしでも望んでいたのに。その手を否定したのは他の誰でもない、自分だった。
 会いたい、と俺は泣いて叫んだ。夢のどこか深く、理想郷の中の小さな存在に、届くように。会いたい、会いたい、名前を呼んで手を握って、触れて、それだけでいい。これ以上の贅沢はないかもしれないけれど。お願いだからもう一度俺の、
 叫び続けた声は枯れて、俺はもう諦めた。水筒の中の水を飲んで、それでも声は出せそうにない。どうせ、鬼道に話しかけることもできないこの声などいらないのだ。俺が現実じゃない存在だったら、俺もあいつの理想郷に行けたのだろうか、と意味のないことを考えてみたりして。だったら試してみようか、なんて思ったりして。
 久しぶりに泣いたらなんだか疲れてしまった。今だったら眠れそうな気がする。そうして夢を見たい。夢の中で、鬼道を探そう。あのときのように悪夢を見ても、その向こうにあいつの姿を探そう。そうして今度はあいつに手を引っ張って欲しい。夢の中の、ここではない現実の向こうへ。あいつがいる、世界へ。そこが俺の、理想郷だ。














 どこかで、ベルが鳴った気がした。






 唇に何かが触れる感触がして、俺はゆっくりと目を開けた。眩しくて、何も見えない。でも誰かが俺の頬を撫でているのだけはわかった。ねぇ、これは夢なの、と俺は尋ねる。夢の夢。それとも現実。そのどれでもないどこかなの。もしかしたらこれは夢で目覚めたらまたひとりきりなのかもしれない。夢の中で彼が手を引いて、彼の世界へと連れ帰ってくれたのかもしれない。疲れた俺は夢を見るために睡眠薬を飲みすぎて死んじゃって、ここは天国なのかもしれない。わからないけれど、まぁどうでもいいか。いいかもね。だってここに彼がいて俺がいて、それだけでいいんだ。
 彼の唇と眩しい世界が俺におはようと告げる。
 







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