それとなく聞いてみたことがある。
 ねえ、恋と愛の違いってなあに。
 鬼道はぽかんとした顔で参考書から顔を上げた。恋だとか、愛だとか、そんなの数学の参考書になんか書いてるわけがない。いっそ、そんな風に簡単に答えがわかればいいのになぁ。何を何を足せば、恋になるとか、何を引けば愛になるとか、そんなの。
 恋の方より、愛の方がなんだか少し、大事なような気がする。鬼道は少し照れくさそうに、拗ねた声色で答える。どうして、と俺は再び問う。純粋に疑問だったからだ。
 恋をして、その先で愛に変わるんだろう。恋しているときは好きというのが、後に愛してるになるんだ。恋っていうのは誰かを慕うことで、きっとそれはまだ一方通行で、愛になればそれはきっとお互いがお互いを大事にすることなんだと思う。
 じゃあ、それっていつのこと。何を足せば、あるいは何を引けば恋は愛に換わるの。俺たちは恋人だけど、それよりもっと先があるっていうの。それっていったい、なあに。
 とは、流石に俺は追求しなかった。恋人同士のときでも感情は一方通行っていうわけではないだろうし、大切にしていないわけじゃない。でも、恋人って、きっと次の関係にシフトするまでの期間なんだ。次っていうのは、たぶん結婚して家族になることとか、そういうやつ。俺たちには無理だろうけど。だから俺たちはちょっと、宙ぶらりんだ。次にシフトできる段階がないから、のぼってのぼって、そのうちきっと失速してまっさかさまに落ちるんじゃないだろうか。俺たちは別に友達ってわけじゃないから、落ちてしまったらどんな関係にも戻れない。それはなんだかちょっとだけ寂しいような気もするけど、事実なのだろう。
 俺は鬼道の頬を撫でて、抓って、好きだよと言った。そうやって、楔を打ち込んで少しでも落ちないようにしがみつく。頬を抓られた鬼道は顔を顰めて、やめろ、と不細工な顔で言うものだから、俺は笑って手を離して、もう一度頬を撫でた。その手に鬼道が自分の手を重ねる。好きだ、と次に楔を打ち込んだのは誰だっけ。




 鬼道が浮気した。その表現はもしかしたら間違っているのかもしれない。だってきっとあっちから見れば俺は浮気相手なのかもしれないし。とにかく、携帯を覗いてみればいつの間にかメールフォルダに鍵がかかっていて、案の定パスワードは妹の誕生日だったので簡単に開けられたのだけれど、中身はぎっしり女からのメールだったわけだ。これを浮気と呼ばないで何と呼べばいいのやら。送信メールも覗いてみたけれど、目の滑るような言葉がたくさんあった。どんな顔で打ってるんだろうか想像して、ちょっとだけ笑った。俺たちのメールは基本的に用件のみ伝えるものばかりだから、無理に話題を捻りだして会話を長続きさせようという努力の見られるメールは、なんだか少し新鮮だ。
 案外ショックは少なかったな、と俺はメールを全部SDカードにこっそり保存した。別に浮気の証拠を保存だとか、そういう考えじゃなく、単純にただ面白かったからだった。この子は愛されているんだろうか、なんて想像してみたりして、メールをさかのぼろうかと考えたけれど、そろそろ鬼道がシャワーから帰ってきそうな予感がしたので、SDカードを抜き取り元の位置に携帯を戻す。ベッドでごろごろしながら鬼道の持ってきた雑誌を読んでいると、鬼道が首にタオルをひっかけて、部屋に戻ってきた。一人暮らしの俺の部屋の狭いシャワーにも鬼道はすっかり慣れきっている。鬼道がベッドに腰を下ろしたから、俺はドライヤーを手に取る。この季節に濡れたままだとすぐに風邪をひく。ぼろいアパートは隙間風が冷たい。俺は鬼道に、何も言わなかったし何も問わなかった。鬼道も、少し変わっている携帯の位置に気付いているのかいないのか、何も言わない。やましいものがあるなら、証拠たっぷりの携帯なんか置いていかなきゃいいのになぁと思って、あぁそうか、気づかれたかったのかと今更ながら考えが至った。そういうところが、鬼道の卑怯くさくて弱虫なとこだ。責めて欲しくても、別れて欲しくても、俺からは何もしないよ。だって俺、酷い男だから。
 すっかり乾いて、熱で温かくなった首筋に顔を埋める。鬼道の匂いがする。なんでも、鬼道は普段と違うシャンプーを使うと髪のくせがひどくなるらしいから、浴室には鬼道専用の高級なシャンプーがちゃんと置いてあるのだ。だから俺のアパートでシャワーを浴びても、きっと他の誰かのところでシャワーを浴びても、鬼道の匂いはなくならない。それだけはちょっと良かったなと思う。この厭味なくらい高級な匂いが俺は好きなのだ。
 不動、と呼ばれて顔をあげると、さっきとは反対に鬼道が首を捻って、俺の首筋に顔を埋めた。体重をかけられて、しょうがないなと後ろから抱きしめてやれば、そのままベッドに二人してぽすんと倒れ込む。重いし、と文句を言ってもすまないと謝るだけで退いてくれない。明らかに様子がおかしい鬼道を問いただすことはしない。頭を撫でてやって、抱きしめてやって、愛してると伝えてみたりして、この図体ばかりでかい子供を精いっぱいに甘やかしてみる。
 俺も。
 うん?
 俺も、あいしてる。
 ……うん。
 ぽつりぽつりとつぶやくその言葉のどこにも嘘はなかったから、俺はもっと、ぎゅうっとしてやる。それでぽんぽんって背中を叩いて、鬼道はわかりやすくてよかったなぁなんて安心する。鬼道の嘘が上手かったら、きっと俺はもうとっくの昔に怒って殴って別れてるよ。


 ぽちぽちとSDカードに移した鬼道のメールを遡る。案の定お相手はどっかの名家のお嬢様とやらで、やっぱり育ちが良いせいか柔和な人柄が感じられる文章でもある。それに対して鬼道はたどたどしく返信していて、可愛いなぁとやっぱりちょっと笑った。鬼道の浮気記録は初々しく甘酸っぱく、時に俺は相手の少女に感情移入しては、なかなか通じない気持ちに悶え、悲しみ、感動さえした。俺はいったいなにをやっているんだろうなぁ。ようするに俺は、自分の今まで抱いていた心情の追体験をしているのだった。ほとんど事務的に交流していたのが少しのきっかけで相手が好きになり、どうにかして振り向いてもらえないかという、そんなよくある話。問題だったのは俺が男で相手も男ということ。まさかこの子も、恋している相手が男と付き合っているとは、全く考えていないだろう。この子にとって俺は鬼道の浮気相手になるのだろうか。鬼道はどちらを選ぶのだろう。たぶん、きっと、どっちも選べない。あいつはそういうやつだ。正確には、どちらを捨てるか選べないから、ぐだぐだとどちらとも関係を続ける。
 卑怯で弱虫な鬼道のために自分から別れを言いだしてやるほど俺は優しくなどなかったが、すべてをわかっていて敢えてなにもしない俺だって卑怯で弱虫だ。ぜんぶわかったうえで、抱きしめてやる。鬼道にとってはどんな拷問だろう。
 浮気のメールは途中から好きだという簡素でけれど相手に好意を伝える魔法の言葉が混じるようになり、甘ったるい砂を吐くような内容に、けれど俺は少しだけ安心したのだ。メールの中のどこを探しても、愛しているという言葉は見当たらない。ここには確かに、初々しく甘酸っぱい、物語にして本にできそうな恋のかたちがあった。俺にとっては鬼道のしていることは浮気なのだろうけれど、家のことを考えればいつかは女の恋人は必要だったのだろうし、だったら気の合う相手のほうが、結婚するとしたら気も休まるっていうものだろう。二人は確かに恋人で、ならいつか、結婚するかもしれない。そうなったら俺は、どうなるのだろう。本当はずっと考えていたのだ。きっとその現実にぶち当ったら、俺は少し泣くくらいには、傷つくんじゃないかと想像はしていたのだけれど。別にそんなこともなく、愛しく愛しく浮気の証拠の詰まった携帯を抱きしめる。鬼道が卑怯で弱虫でなければ、きっと俺たちは別れていただろう。けれど鬼道は卑怯で弱虫だから、俺に別れを求められないし、俺も追及してやらない。もしこのまま鬼道が卑怯で弱虫な人間のままだったら、恋人でなくなった俺は、愛人になるのだ。鬼道が結婚して、子供ができても。
 恋人でなくなったら、友達ですらない俺たちはきっと、何の関係もなくなるものだと思っていた。けれど、鬼道が結婚したならば、俺は鬼道が卑怯で弱虫な人間である限り、ずっと愛人でいられる。恋よりも愛のほうがちょっと大事な気がすると言ったのは鬼道のほうだ。だったら、恋人の状態よりも、愛人の状態のほうが、きっとすごく、綺麗なかたちをしている。だから俺は、別に鬼道が浮気をしていようが、結婚していようが、傷つかない。鬼道が愛してると口にしてくれるのは、きっと愛人である俺だけだろうから。
 珍しく、俺から鬼道にメールしてみた。愛しているだなんて、たったそれだけを打ちこんだ短いメールだ。あいつはなんて返してくるだろう。なんだ急に、と言われるか、簡単に、俺もだ、と返ってくるか。電話の着信を知らせるメロディに俺は頬を緩めて、通話ボタンを押した。







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