その日の不動は酷く苛々した様子だった。こんなにあからさまに態度に出すのも久しぶりで、俺は首を捻った。喉が乾いたと訴えれば、勝手になんか淹れれば、とぞんざいな返事を返される。寮の部屋にはコンロがない。冷蔵庫もないから、仕方がなく部屋の隅にある電気ケトルを使ってお湯を沸かし、コーヒーを二人分、淹れる。インスタントのコーヒーなんて不動の家にきて初めて飲んだから、最初はどう淹れればいいのかわからなかったのは良い思い出だ。これだからお坊ちゃんは、と不動には呆れられたのだが。
 不動は相変わらず苛々した様子で窓の外を見ていた。時々髪の毛をぐしゃぐしゃしたり、舌打ちを繰り返したりしている。朝は普通だった。昼間、一緒に円堂たちとサッカーをして、それから夕食を食べて、そのあと、そうだ、不動は暫く考え込んだ様子で、寮に帰ってきてから機嫌が悪くなったのだ。
 コーヒーカップを渡すと、不動は乱暴に受け取った。流石にそれを咎めようとしたが、不動が苛立っている原因にはどうやら自分は関係ないようなので、下手につつくとどう転ぶかわからないから放っておくことにした。それでもコーヒーを飲み終わって、そろそろ帰らなければならない時間になっても機嫌が悪いようだったので、俺はやれやれとため息を吐きつつ聞いてみることにした。

「なんでそんなに機嫌が悪いんだ」
「別に」
「別にじゃないだろう。そうやって不機嫌を撒き散らされて、こっちだって気分が悪くなる」

 不動は一度舌打ちして、寝転がっていたベッドから起き上がった。

「別に。ただ単に、自己嫌悪ってやつ」
「自己嫌悪?」
「胸くそ悪い事実に気づいたってだけさ」

 それから、不動は長く息を吐いて、こちらをじぃっと見上げた。今日一日中寄っていた眉間の皺は今も刻まれている。あのさ、と不動は少し悩んだ顔をして、口を噤み、また開いた。

「別れよっか」




**********




「俺、精神的に浮気性だと思うんだわ」
「はぁ?」
「なんてーの、誰でもよかったんだよ。女だろうが男だろうが。たぶんたまたま最初に言ってきたのが鬼道クンなだけで、これが源田でも佐久間でもそうなったと思うし」
「やめろよ気持ち悪い」

 だよなー、とずずずとストローからジュースを啜る。がやがやした店内には他の帝国の学生はいないようだった。そりゃあ校則で学校帰りの買い食い寄り道は禁じられているから、大真面目なお坊ちゃんはこんなコイン一つでハンバーガーが食えるような店になど来ないだろう。

「でも、お前たち、割とうまくいってただろ」
「まぁね」
「それに何度目だよ。いい加減呼び出されるのも面倒だし」

 ため息を吐く佐久間の顔は昨日の鬼道と全く同じだった。というのも、俺が別れ話を切り出すのはこれが初めてではないので。前は、そうだ、確か好き嫌いのことで揉めてそうなったんだった。付き合い始めて付き合う前より喧嘩が増えた気がする。そのたびに周りを巻き込んで揉めて、まぁなんとか仲直りして、また喧嘩して。そんなことの繰り返し。

「お前も鬼道に似て結構変なとこで悩むよな」
「……。なぁ、俺って鬼道に似てる?」
「はぁ? まぁ、性格は全く似てないけど。何だか、そういうところじゃなくてもっと根っこの部分がさ、似てる気がする」
「そこ」
「どこだよ」

 円堂たちにも言われたのだ。俺と鬼道は似ている。性格とかの表面的なところじゃなくて、もっと根の部分が。生まれも育ちもまるっきり違うというのに。
 ざわざわと胸の奥が落ち着かなくて、その理由を考えた。考えたから気づいてしまった。自分の頭の良さを恨みもした。けれど気づいてしまったからには、もうその疑問を捨てることができなかった。
 俺は本当に鬼道が好きなのだろうか。



**********




 さて、と俺はポケットの中で携帯を撫でた。どうしようか。それとも、何もしないほうがいいのだろうか。いまいちその加減がわからないのだ。
 別れる、と不動が言いだすのは初めてのことではなかった。不動の奴は、何かあるたびにすぐ別れると口にする。大抵は盛大に喧嘩した後である。この間なんかは不動がトマトを残したのを咎めたら喧嘩になって、別れると言いだしたのだ。けれど毎回周りを巻き込んでは何とか仲直りしている。昨日だって、別れようと言いだした不動に、とりあえず今日は門限があるからと言って帰ってきた。不動も、じゃあ気をつけて帰ってねと手を振ったのだ。だからどうにも、どのくらい突いて聞いてみればいいのかがいまいちよくわからない。冗談なのかもしれないし、深刻な悩みを抱えているのかもしれない。昨日も、不動は自己嫌悪だと言っていた。
 不動明王は思っていたよりはるかに面倒くさい人物であるということがわかったのは、付き合い始めて割とすぐのことである。というよりも、付き合い始めてから面倒くさい部分が露呈した、もしくは自ら出してきた、というのだろうか。少しメールの返信が遅れたくらいで、何してるのと催促の電話が来たり、俺のことどう思ってるの、とこちらを睨みつけて聞いてきたり。思うに、そうやって少しずつ確認しているのだろう。どこまで踏み込んでいいか距離が取れない。だからこそ少しずつ確認して、近寄ろうとする。やっていること聞いていることは、面倒な人間のテンプレートだ。けれどそれも付き合う前ではなかったことで、そうして少しずつ今よりも親密になろうと距離の取り方を考えている今までは見えてこなかった臆病さに微笑ましさを感じるのも確かなだった。
 距離を取るのに臆病になっているのは自分もか、と苦笑をして、電話をかける。相手は不動ではない。それでも何年もの付き合いとなっている友人である。今回もきっと力になってくれるだろう。



**********




 あの馬鹿喋りやがったな、と一度舌打ちをする。けれどわかっていたことだ。自分が愚痴る相手は佐久間か源田しかいない。今までだって喧嘩した俺たちの仲を取り持ったのは二人なのだ。その二人に鬼道も連絡することなどわかっていた。
 会いたい、とだけ書かれたメールはつまり、俺から連絡していつ会うのかどこで会うのか、そもそも会わないのか提案しろというものだ。たった四文字に何故か感じる高圧的な態度に、鬼道らしさを感じるといえばそうなのだろうか。
 別に嫌いになったわけではなかった。そもそも、今回の悩み事に恐らく鬼道自身はさほど関係がない。なんだかんだで、喧嘩を何度繰り返しても、嫌いな部分が増えても、逆に好きになる部分があるのだ。悔しいことに。だから、何度別れると言ったところで、結局磁石のように再びくっつくのだろう。俺たちが磁石みたいだと例えたのは音無の奴だっただろうか。甘えだな、と吐き捨てる。何を言ったって何をしたって、そう簡単に離れることができないことをもう知っている。だから簡単に別れると口にできるのだ。
 自分が少々、いや、かなり面倒な性格をしていることは自覚している。何をしたって、疑う癖が抜けないのだ。それでも少しずつ距離を確かめて、ちょうどいいところに収まろうとして試行錯誤を繰り返している。べたべたするには向いていない、でも遠くにいすぎると簡単に手から離れていきそうでそれが怖い。あとちょっと、で満足な距離に収まりそうで、そのあとちょっと、がまだ見つからない。たぶん、そこに収まってしまったら、たぶん戻れないのではないかとも思う。俺と鬼道は2ピースしかないジグソーパズルのようなものだ。欠けた部分を相手に求めている。それがぴったりと当てはまることを知っているから時に喧嘩するし時に寄り添うのだろう。依存というのには少し違う。知らなければよかった、と思った。たぶん知らないほうがよかった。もう離れることができない関係だと知っているのは、なんとなく落ち着かない。だから、きっとこのタイミングを逃したらもう離れられない、気がする。
 鬼道じゃなければよかった。鬼道だからこんなに悩んでいるのだ。
 溜息を吐いて、携帯のメールを作成する。明日の放課後うちに来い。それだけを打ちこんで、机の上に携帯を放り投げて、眠った。


**********




「俺って本当に鬼道クンのことが好きなのかね」

 開口一番にそう聞かれて、どう答えれば良いのか。好きに決まってるだろう、というにはあまりに自意識過剰過ぎるし、かといって嫌いなんじゃないかとは言えるはずもない。わからないという無難な答えはたぶん機嫌を損なうだろうし、きっと正解は沈黙だ。
 そんなわけで俺は持ってきたお茶を飲みながら、不動が話し始めるのを待つことにした。不動の思考は飛躍しすぎて今でもわからないことがある。ベッドに座って黙って待っていると、隣で不動がようやく口を開いた。

「俺さぁ。鬼道クンが楽しそうにしているのが好きだし、嬉しそうにしてるとこっちも嬉しいし、まぁ昔はこんなこと想像もしてなかったけどさ、今では鬼道クンといるとすごい満たされてるって思う」

 不動は俺が持ってきたお茶のペットボトルをくるくると回しながら、少しずつ言葉を選んでいるようだった。
 不動の言葉からは、特に嫌いになったというような類のものは感じられない。むしろ、素直になることがない不動がこんなに正直に自分の気持ちを打ち明けることはめったにないから、その慣れなさに少しだけ顔が熱くなる。それに気がついた不動がこちらを睨みつけたが、不動の耳も少しだけ色付いたのもわかっていたので、怖くはなかった。

「でもそれって、お前が好きだからかよくわからなくなった」
「どういうことだ」
「円堂たちにこの間会っただろ。そんときに言われたわけ。俺とお前がよく似ているって」

 そうだ、確か佐久間も電話でそのことを聞かれたと言っていた。性格も育ちもまるっきり違う。なのによく似ている。自分ではあまり自覚はなかったが、他人から見ればそうなのだろうか。きっと不動自身もそのことに気が付いていなかったに違いない。だから円堂からそう言われて、動揺したのだろう。

「俺、お前のこと大事だって思ってる。冷やかすなよ。真面目にな。でも、それって本当にお前のことが大事なのかって、わからなくなってきた。お前を大事にすることで俺を大事にしたかった気がしてきたんだよ」

 本当にお前のこと好きじゃないのに付き合ってるとか、あんま良くないじゃん、と不動はペットボトルを傾けてお茶を飲む。
 よくわからなくなってきた。つまり俺は不動本人の代わりとされていたのだろうか。それに気付いて、俺が好きなのかわからなくなって、そんな状態で付き合っているのは悪いから、別れると言いだした、ということか。
 俺は溜息を吐いて、額を押さえた。相変わらず思考が飛躍しすぎている。

「お前、馬鹿だろう」
「知ってる。悪かったって思ってるけどさ。気付かなかったんだから仕方ないじゃん」
「そうじゃない。別に、悪いことじゃないだろう」
「はぁ?」

 自分を大事にしたいと考えることがどこがいけないのだろう。そんなの誰だってそう思うに決まっている。不動はそれが自分でできないと思ったから、代わりに俺を大事にしようと無意識で考えたのだ。

「不動、お前、今まで俺以外に恋したことないだろう」
「……なんで」
「誰かに何かをして、それで自分も嬉しくなるっていうのは特別なことじゃないってことだ。誰だってそうなんだ。俺も」

 友達もあまり多くいないから知らなかっただろうと笑えば、不動は拗ねて顔を逸らす。確かに俺と不動は似ているのだろう。でも、だからといって相手を代わりにしているというよりは、相手が好きだから大事にしたいと思うのが普通だ。不動は変なところで後ろ向きで、だから俺を大事に感じたのは俺を自分自身の代わりにしたいと考えてしまったのだ。それでも最初に俺を大事にしたいと思った気持ちはきっと嘘ではないだろうし、今だってそうだろう。そこがごちゃごちゃとわからなくなって、今回の騒動へと至ったというわけだ。なんだ、意外にも自分は大事にされていたのか、と頬が緩む。その気配を感じて、不動がペットボトルを振り被った。

「痛っ!」
「悪かったな、初恋で。悪いかよ!」

 まだ中身が多いペットボトルは重くて痛い。頭を押さえてベッドに転がれば、真っ赤になった不動がまたペットボトルを振り被って何度も叩く。照れ隠しにしては一撃が痛い。絶対これは明日痣になる。悔し紛れに頭を腕でガードして、もう片方の手で不動の腕を掴んだ。

「恋だってことは自覚しているじゃないか」
「うっせ!」
「どうせ俺から離れられないくせに」

 ぼすんと胸元に倒れ込んできた不動は、まだうるさいうるさいと騒いでいる。密着しているせいで暑くてたまらないが、真っ赤になる不動は珍しくて、このまま離してしまうのは惜しい気がしたから、手の力は緩めなかった。

「……鬼道クンはどうなのさ。初恋」
「お前だって言ってほしいか」
「べっつに」
「ちなみにファーストキスは春奈だったが」

 はぁぁあ? 鬼道クンさいってい! シスコン! と怒ったのか拗ねたのか引いたのかよくわからない声が聞こえる。その頭を掴んで、痛いと声をあげる暇もなくキスしてやった。残念ながら俺の妹はファーストキスにとても幻想を抱いていたので、悔しいことに頬にもキスをしてくれたことはない。その唇が誰かに奪われるところを想像してぞっとするが、おかげで俺も今まで誰ともキスをしたことはなかった事実を、面白いから秘密にしておくことにする。
 自分が大事にできないから俺を大事にするというのもいいだろう。ならば俺はこいつを思い切り甘やかして大事にしてやればいいだけの話だ。まぁ、今も残る頭の痛さから、本当に大事にされているのかは少し疑問ではあるが、俺も未だ暴れる不動を力づくで離さないので、おあいこということで。










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