五感のうち、嗅覚が最も正確で情動的な記憶を呼び起こす感覚であるらしい。嗅覚だけは視覚や聴覚とは異なり、大脳辺縁系に直接情報が送られる。大脳辺縁系は感情を司る部位であるので、匂いを嗅げば、かつてその匂いを嗅いだときのことを鮮明に思い出すことが可能なのである。最近では科学的にはっきりとしていることだが、かつてまだこのことが解明されていない頃から、フランスの作家プルーストの著作の描写を引き合いに出し、この現象はプルースト効果と呼ばれていた。
 かつてテレビで流されていた内容ではあるが、そのことを思い出すようになったのは、ヒロトがこのお日さま園を発ってからだった。
 お日様園では、天気の良い日は決まって布団を干すようにしている。普段自分たちが使っているものはもちろん、しまっているような布団もだ。押入れなどにずっと入れておけば、すぐに面倒くさがる子などは、自分たちの玩具も適当にそこにしまってしまう。引き戸を開ければがらがらと物が出てきて余計な掃除する羽目になるのだ。だから、天気が良い日は布団を干すことにきっぱりと決めて、押入れを開けるときに物を押し込んでいないように、普段から整理整頓を促すことも含めてそのようなルールが敷かれている。
 最近は人の出入りが激しいため、自分が布団を上げ下げする仕事が増えた。ヒロトの布団を干すのは、決まって自分の役割だ。最近使っていない布団は、干したところで夜に誰かを温めることはない。ヒロトの布団を引っ張りだし、ベランダに干す。お日さま園は中学に上がれば個室になる。ヒロトの部屋は整理整頓され、余計なものはあまりなかった。そもそも、あまり余計に物を欲しがらないタイプなのだ。ひとつだけ、大きな天体望遠鏡があった。かつて、ずっと昔、クリスマスにヒロトが珍しく強請ったものである。お日さま園は親がいない子ばかりだし、誕生日もわからない子も多い。だからその代わり、クリスマスだけは盛大に祝うことになっている。ヒロトはよくそれを覗き込んでいた。その天体望遠鏡は合宿所に持っていったため、ベランダに出るために遮るものはなかった。ベランダに出て、ふとんを干す。普段だったら下で小さい子たちが遊んでいるが、今日は別のところに行ったらしい。遠くで子供特有の高い声が聞こえる。布団を干して、思い至って、そこに顔を埋めてみる。まだ干し始めの布団は、何の匂いもしなかった。
 そもそも、ヒロトは体臭というものを感じさせない人間である。人間、誰であれ、本人らしさ、というものを感じさせる匂いを持っている。不思議と、部屋に入ると、あぁここは誰の部屋だ、と改めて感じるものだ。花を育てていたり、古い本の匂いがしたり、それが本人らしいと感じさせるのだ。ヒロトの場合、それがない。部屋に入っても、こうして布団に顔を埋めても、ヒロトらしさの感じる匂いは全くしなかった。そもそも、あの男らしい匂いとは、何なのだろう。
 かつてテレビ番組で、嗅覚の不思議というテーマを取り上げた番組を見ていた。確かそのとき私たちは小学生で、自由研究の題材を探すために、教育テレビを付けていたのだ。番組を見終わった後、私たちは感心して、自分たちですんすんと腕の匂いを嗅いでみたりした。自分でわからなくても、他人のものの方がわかるのか、お前だけお菓子食べただろう、と喧嘩する子までいた。小さかった私は、その頃は今ほど険悪ではなかった関係だったヒロトの隣に座り、すごいねぇと感心するヒロトのことを眺めていたはずだ。そのとき、くん、とヒロトの匂いを嗅いでみた。「ヒロトって、なんの匂いもしない」「えぇ?」「なんだか、これじゃあ、しばらく会わなかったらヒロトのこと、忘れてしまいそう」
 そう言ったときのヒロトは、少しだけ寂しそうな顔をしていた気がする。
 無臭という空間で思い出すのは、決まってヒロトのことだった。
 今ならなんとなく、わかるような気もするのだ。あの、寂しそうな顔の理由。あの頃のヒロトはすでに、自分自身のことに違和感を感じていたのだ。何の匂いもしない、というのは何にも寄る辺がないということとある意味同等なことである。花が好きなら花の匂いがするし、本を読むのが好きなら本の匂い。はっきりとわかるわけではもちろんないが、誰かの匂いを嗅いだとき、これはあの匂いではないかと思うのは、やはり記憶と嗅覚は密接な関係を持っていて、その本人がそれらと関わっているというのをインプットしているからかもしれない。ヒロトにはそれがなかった。そして今も、それがない。だからこの部屋も、匂いがしない。
 これじゃあ、しばらく会わなかったらヒロトのこと、忘れてしまいそう。かつての自分の言葉を思い出す。思えば、こんなに離れることは、初めてだった。同じところに住んでいるのだから、嫌でも毎日顔を合わせていたのに。それなのに今、こんなにも遠い。いつから私はあの男の顔を見ていないのだろうか。あの顔も、声も、もしかしたら明日にでも、忘れてしまうかもしれない。そんなとき、ヒロトの部屋に入っても、何の匂いもしないこの部屋では、嗅覚が記憶を呼び覚ますのに優れた器官といえど、思い出すことなどできないのではないだろうか。
 早くしないと、本当に、忘れてしまいそうだ。


「ただいま」

 スポーツバッグを抱えたヒロトは、少し疲れたようだったが、嬉しそうに笑った。あぁ、なんだ、忘れていないじゃないか。と、そんなことを思いながらも、スポーツバッグの他にも両手に抱えられたお土産を受け取る。

「さっき、姉さんたちに会ったよ。少し話したけど、今はゆっくりやすみなさいってさ」
「お茶、淹れてくる」

 たぶんお土産はお菓子か何かだと思うから、日の当たらない涼しいところに置いて、お湯を沸かす。しまってあった急須などを取り出して準備をしていると、ヒロトはその様子をじいっと見ていた。

「座って待っていればいい」
「いいんだ。なんだか、この匂い嗅ぐと、玲名のところに帰ってきた感じがするから」

 その言葉に少し驚いて、まだ水蒸気を吐き出さない薬缶から、顔を上げてヒロトの方に視線を移す。

「いつも、お茶淹れるのって玲名の役目だったからね。お茶っ葉の匂い嗅ぐと、玲名のこと、あっちでも思い出したんだ。だから帰ってきたら、真っ先に玲名が淹れてくれたお茶を飲もうって思って」

 何を馬鹿なことを言っているんだ、と吐き捨てることをしなかったのは、ここ最近考えていることが原因なのだろう。食堂に二人で向かい合って座って、淹れたばかりのお茶を飲んだ。この季節に熱いお茶は、暑いところから帰ってきたばかりのヒロトにはきついのではないかと思ったが、そうでもないらしい。あっちだと日本っぽいものってそんなに多く食べれなかったし、飲めなかったし。材料的にね。そう言って笑うヒロトは記憶の中の、それだった。
 暫くの間、ヒロトはお土産話を聞かせていたが、疲れたのか、今度は玲名たちのことを教えてよ、と促されて口を開く。ヒロトがいなかった間の出来事を、ぽつりぽつりと話した。前、あの事件の最中では、こんな穏やかな空気は流れることはなかった。あの事件が終わってからも、何かと気まずい空気は流れ、ぎくしゃくとした関係を続けていたから、こうして考えてみると、離れていた数カ月の出来事は、少し私たちの関係を改善させるためには、良かったかもしれなかった。
 なんとなく、ここ最近ずっと考えていたことを、話してみた。先ほどのヒロトの言葉を聞いてみて、話してみたくなったのだ。ヒロトはふんふん、と相槌を打ちながら、ちょっと悪戯を思いついたかのような顔で、笑った。

「それで、俺のこと、忘れてた?」
「むかつく顔を、はっきり覚えていた」
「つまり、忘れてなかったんだね」

 ほんの、数か月だ。忘れるはずがない。そこまで記憶力が悪いわけない。何を、不安に思っていたのだろう。不安に、思っていたのか、私は。
 でも、数か月でこれだ。もし、これが一年だったら。二年だったら。そのとき私は、この満面には少し遠いような笑顔も、声も、忘れているのだろうか。

「ねぇ、玲名。こう考えなかったの。俺を鮮明に思い出せる匂いがなくても、数か月とはいえ離れていて、俺のことを覚えていたのは、」

 それからヒロトが浮かべた笑顔は、記憶の中にあるものより、少しだけ楽しそうではあった。やはり、記憶というものはあてにならないのかもしれない。それとも。
 すぅっとヒロトが手を伸ばして、頬に触れる。親指で、軽く撫でる。前の私だったら、間違いなく振りほどいて、馬鹿か、と吐き捨てていた。この私は、ヒロトが記憶していた私とは、違うのだろう。少しだけ驚いて、少しだけ嬉しそうに、それ以上に楽しそうに、ヒロトは笑う。

「きみが俺のこと、毎日考えていたから、俺のことを忘れてなかったんだって」

 触れる右手からは、少しだけ土の匂いと、汗の匂いがした。記憶の中にない、それでも記憶の中よりも随分と幸せそうに笑うこの男は、何か寄る辺を見つけたのだろうか。









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