ぺしん、と高い音がして、すぐに頬が熱を持つ。叩かれたのだと気付いたのは間抜けにも一拍置いてからで、そのときには鬼道は次の行動に出ていた。首に手が回され、一気に絞めつけられる。空気を吸い込もうとしてもそれが出来ずに変な声が出た。腕を振りほどこうと暴れるが、絞めつける力はそれより上回るし、ほとんど同じ体型で後ろが壁な分、先手を取られれば動きにくくもなる。鬼道の目は相変わらずゴーグルに覆われていたが、何を考え何を見ているか想像するのは容易であった。悟った瞬間にもうそれ以上考えるのも面倒になり、擽るように腕を引っ掻いた後、抵抗するのを止める。あぁ、もう好きにしやがれ、そうして力を抜けば、あんなに抵抗したときは解けなかった腕があっさり首から離れた。死んだと思ったのかもしれない。一気に空気が肺へと送られ咽返る。

「お前を見ていると、あのひとを思い出すんだ」

 忌々しげに鬼道が吐き捨てる。ばればれだ、なんてことを言ったらまた俺の首を絞めてくるだろうか。黙ってやられてばかりなのも癪だったから、ゴーグルをはぎ取ってその目を見てやる。赤い瞳は今にも泣き出しそうに潤んでいた。鬼道は俺からゴーグルを奪い返すと、何か言いたそうに口を開いたり閉じたりしたが、しかし何も言わずにゴーグルを掛け直して立ち去る。鬼道に叩かれたのも首を絞められたのもその一度きり。随分と前の話だ。



『あなたを見ていると、あのひとを思い出すのよ』

 母の手は嫌いではなかった。白くて長い指は、よく遊ぶように俺の髪を絡め、俺の好きなものを作ってくれもした。だからその指が俺の首に添えられても、そういったことの一環のように思えたし、息ができなくなっても、仕方がないことのようにも思えた。これは俺のための行動なのだ。俺のことを愛してくれているから、こういうことをするのだ。そう思わなければやってられない。母はぱっと離すと、そのまま俺を抱きしめてごめんなさいと泣く。どうしよう、何をすればいい。考えてもわからなくて、動かない身体は結局そのままで、四肢を投げ出して黙って腕に抱かれた。どんな顔をしているのだろう。不思議と母の顔も父の顔も、霞がかかるように思いだせない。今も。
 母に父の面影を重ねられて首を絞められ、鬼道に影山の面影を重ねられて首を絞められる。誰かの代わりになるのなんか簡単だ。そもそも相手は俺のことを見ちゃいないんだから。影山の奴だって佐久間や源田たちだってそうだ。誰にもまったく似ていないし誰かによく似ている、喋るサンドバック。別にそれでもよかった。どうでもよかった。



 騒がしいのは嫌いだから、いつも入浴時間を人とは外している。脱衣所はびちょびちょになっていて不快だったが、先に入って誰かが入ってくるよりだったらずっと良い。浴場には誰もいないと思っていたのだが、先客がいたらしい。嫌な気分になりながらも着替えは一人分しかなかったし、出直すのも面倒だったからそのまま服を脱ぎタオルを持って浴場へと入る。中にいたのは鬼道だった。珍しい、と思うと同時に面倒だとも思った。また癇癪を起されても困る。嫌、その心配はないか。だってあの人は死んでしまったのだから。
 鬼道はぺたりとタイルに座り、頭からシャワーを浴びていた。もうずっとそうしていたのか、肌が赤くなっている。俺が入ってきたのに気付いたのかどうかも怪しい。ざぁざぁとシャワーを浴びる鬼道が、口元に手をやった瞬間に、嫌な予感がしてその手を引っ張った。口元にタオルを当て、シャワーはそのままに、手を引っ張って浴場を出る。脱衣所のトイレに押し込み、便器に手を添わせると、鬼道はタオルを口から離して、吐いた。あまり食べていないのか、出たのはほとんど胃液のみで、それでも独特の匂いに眉間に皺を寄せる。何度も嘔吐く鬼道の背から手を離す。自分から吐けるくらいになったのならひとまず安心だ。備え付けの給水器から水を汲み、無理やり飲ませて口を濯がせる。まだ気持ち悪そうな顔をしていたが、吐き気は止まったのか、ぐったりと壁に背を預け座り込む。汚いとは思ったが俺もその場に座った。狭い個室に二人きりだ。ずっとシャワーを浴びていたのだから逆上せたのかもしれないが、恐らくは違うだろう。手を伸ばして張り付いた髪の毛を払ってやろうと思ったが、その腕を掴まれる。力がまったく籠ってなかったが、振り払う気もない。どんな顔をしているかなど簡単に想像がつく。

「吐くくらい泣くならキャプテンとかのとこ、いきゃいいだろ」
「……泣いてなんかない。泣く権利なんか、ないんだ」

 あのひとは酷いことばかりした。死んだかもしれない人だっているし、怪我をした人だっていっぱいいる。だからあの人の手から離れたのに。泣いてもらう権利なんてあの人にはないし、泣く権利も俺にはない。
 ぐだぐだと理由をつけて吐き捨てる鬼道は、膝に顔を押し付けた。面倒くさい男。単純に感情に身を任せて泣き叫んでしまえばいいのに。ぐい、と髪を引っ張って顔を無理やり上げさせる。そら見てみろ、これを泣くと言わずになんというのだ。

「キャプテンのとこに行け。あいつのことだ、話くらい聞いて貰えんだろ」
「円堂大介のことがある。あの人のことなど、話せるわけがない」
「豪炎寺は」
「妹が、怪我をして長い間目を覚まさなかったのはあの人のせいだ」
「佐久間もいるだろ。あいつは」
「一度はあの人のせいで二度とサッカーができなくなるかもしれないところだったのに」

 このお人よしめ。そんなこと、あいつらはまったく気にしないだろうに。むしろ話してもらうのを待っているのかもしれないのに、お前がそうやって理由をつけてうだうだしているから、何もできないに違いないのだ。監督だって影山のせいでロクな目に遭ってないし、妹には性格上話さない。こうして一人で泣いて吐いて、面倒くさいやつだ。
 珍しく焦っていた。何にだろう。焦燥感は消えず、頭だけがフル回転している。誰かの代わりになるのなんて簡単なのに、どうすればいいのかがわからない。俺は誰になればいい。誰の代わりになればこいつは――そこまで考えて、やめた。酷くばかばかしい気になった。鬼道の頬を思い切り叩く。高い音。何も言わずに叩かれる鬼道にまた怒りが湧いてくる。

「服着て誰にでも良いから泣きついてこい。俺に殴られたからって、泣くくらい痛いんだって、そう言ってこい」

 派手に叩いたから、さぞ赤くなるだろう。バスタオルを持ってきて拭いてやる。あとは自分でやればいいと、服を押し付けて立ちあがった。もともと風呂に入る予定だったから、自分も何も着ていなくていい加減寒い。トイレを出ようとしたところで、ぐい、と強く足を掴まれた。二人しかいないから当たり前だが、鬼道の手だった。足を引っ張ったが外れず、仕方がないからしゃがみこんで手を外そうとすれば、ぽすりと鬼道の頭が胸に押し付けられる。

「……お前に叩かれた頬が痛いんだ」
「他の奴んとこ行けよ」
「……お前でいい」

 わずかにしゃくりあげる気配がする。換気扇の音はそれでも嗚咽よりも小さく、それを押し殺すように鬼道は唇を噛み胸に頭を押し付ける。
 初めて自分のことが可哀そうだと心底思った。いつだって誰かの代わりにされていたのに、こういうときに限って誰にもなれない俺は、結局何になればいい。なぁ、俺のことを影山だと思って、前みたいに殴って首締めればいいだろう。でもできないか。だってお前、結局なんだかんだ言って、吐くほど泣いてしまうくらいには、影山のこと。
 ごめんなさいと泣く声がする。頭の中で何度も響く嫌な声だ。俺にしか聞こえない女の声。何故こんなことを思い出すのだろう。誰かに抱きしめられるのは、今でも怖い。鬼道に触られた部分から、ぞわぞわと嫌な気配が漂ってくるのがわかる。そうやって縋られるのが、俺は本当に怖かった。頭が痛い。鬼道がずっと影山に囚われているというのなら、俺はずっとあの人に巣食われているのだろう。頭の中を声が反響する。俺以外の、誰かのフリさえしていれば、平気でいられたのに。俺でいいだなんて言うなよ。縋られるのがどんなに恐ろしいか、お前は知っているはずだろう。「すまない、不動」謝るなっつってんだろ。ごめんなさいごめんなさいと何度も繰り返される声は、もはや幻想なのか現実なのかも区別がつかない。がんがんと痛む頭とぞわぞわと這いあがってくる寒気に、叫び出しそうになる。全部、何もかも振り払いたくなって、鬼道の肩に手を掛ける。触れた肩は泣きたくなるくらいに小さかった。震える身体に、狭い個室に収まっている二つの塊は本当にちっぽけなのだと思い知る。
 笑えてくる。振り払えるだけのスペースすら、ここにはないのだ。どうして、振り払えるなどと、思ったのだろう。この小さな身体を。
 小さく息を吐いて、止めて、鬼道の背中に手を回す。首筋に顔をうずめて、なんだか無性に俺まで泣きたくなってきた。もしあのときこうして手を回して触れていたのなら、あの人のことを少しでも救えたのだろうか。呪いの言葉ばかり吐く、可哀そうな女。裸でいるせいじゃない寒気が、身体を支配する。大丈夫、大丈夫だと頭の中で言い聞かせて、触れる。言い聞かせる相手は誰だっただろう。ぴくりと少しだけ鬼道が動いた気がしたが、結局変わらず俺の胸に頭を押し付けているままだ。その震える背中を撫でて、らしくないと小さく笑った。背中を撫でる手は震えていたけれど、それに気がつかないふりをして、頭の中で耳を塞ぐ。もう何も聞こえない。相変わらず頭は酷く痛むし、背中を冷たい汗は流れるし、恐怖心に叫び出したくもなるけれど、それでいい。今はまだ。
 震える身体を寄せ合って、他の誰にもなれなくなった不動明王は、どこにもいけなくなった泣き虫の鬼道有人を許してやることにした。








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