「あたし、猫の言葉がわかるのよ」

 小鳥遊はときどきそんなことを口にした。小鳥遊がそんなことを言うのは決まって、埠頭にいる猫に会いに行った時だ。その白い野良猫が、小鳥遊はいたくお気に入りらしく、外に出たときには必ず猫缶を持って会いに行った。小鳥遊が猫の頭を撫でるのを、俺は少し離れたところで観察している。どうやら俺は猫アレルギーだったようで、猫に近づくとくしゃみや鼻水が止まらないのだ。本当は小鳥遊なんか置いてさっさと戻りたいが、奈何せん帰る場所は潜水艦なわけで、その性質上、あまり露出させるのは好ましくない。面倒な話だった。「んで、その猫はなんて言っているわけ」俺の言葉に小鳥遊はちらりと振り返り、再び視線を猫に戻す。「あたしたちが幸せになれればいいのにって、さ」俺は鼻で笑いたくなった。幸せに、だって。俺たちが。そんなこと無理だろう。俺たちは帰る場所も行く場所もないからここにいる。ここは掃き溜めだ。どこにも行くところがない奴らの集まり。ゴミよりも腐っている連中しかいない。この猫のように誰かに愛でられることもない。そんな俺たちが幸せになることなんかできないこと、俺たちが一番よく知っているはずだろう? そう言ってやれば、小鳥遊は、そうね、と小さく笑った。

「でもこの子はそう言ってるのよ」

 何故こんなことを思い出したのだろうか。久々に小鳥遊に誘われて二人で来た埠頭には、あの猫の姿はどこにもなかった。「何処行ったのかしらね」「さてな。誰かに拾われたんじゃね」「……そうね。そのほうがあの子にとって、幸せなことだわ」小鳥遊が買ってきた猫缶の入ったビニール袋が、虚しく風に揺れていた。
 俺はどうしても小鳥遊に言えないことがある。三日前、一人でこの埠頭を訪れたときのこと。あの白猫が、がりがりになって、冷たくなっていたこと。猫はここ数日の寒さに、耐えきれなかったのだ。俺は初めて、その猫の頭を撫でてやった。ちくしょう、と俺は呻く。ちくしょう、ちくしょう。苛立ちに似た感情が頭を支配する。もっと早く頭を撫でてやればよかったな、そんなことが頭を過ぎった。初めて触れた猫の身体はかたくて冷たかった。いつも小鳥遊が触れている感触など、まったく欠片も存在しないのだろう。猫は死んだのだ。もう二度と力が宿らない身体を抱きかかえて、木の下に埋めてやる。目が熱くなるのも、鼻水が出てくるのも、全部アレルギーのせいだ、ちくしょう。最後に墓の上にみかんをみっつ、乗せてやる。これでお終い。さっさと天国にでも逝ってしまえ。

「あたし、猫の墓を見たの」

 白い息混じりに呟く小鳥遊の声は、落ち着いていた。ビニール袋から猫缶をいくつか取り出し、いつもの場所に置く。今にもあの猫が寄ってきそうだな、とそんなことを思った。そんなことあるはずもないのに。あぁ、なんだ。小鳥遊は気づいていたのか。だったら、墓なんか作らず、海にでも放りこんだ方が良かったのかもしれない。中途半端な情を掛けてやるから、こうなるのだ。

「なんで猫の墓だって、分かったと思う。こどもがね、掘り出してたの。そこから猫の死体が出てきたの。それで、きったねぇ、って言ってた。ガキって残酷ね。でも、あたしたちだって、あの子に優しくなんか、してあげられなかったわ」

 本当にあの猫を可愛がっていたのなら、さっさと飼い主を捜せばよかったのだ。歩くひとに頼みこむなり、ビラを配るなり、ネットでそういうサイトに載せるなり、方法はあった。俺たちはそのどれもしなかった。毎日猫を見に来ることも、この寒さに耐えられるように毛布を掛けてやることもしなかった。野良猫の寿命は四年が良いところらしい。だから俺たちが何をしたところできっと寿命なんかは伸びなかったと思うし、俺たちはどうしようもなかったのではなく、どうする気にもなれなかったのだ。
 ただときどき、俺たちはどこかで願っていたに違いない。あの猫が誰かに拾われることを。愛でられて、大切にされることを。どっかのババァでも、親父でも、ガキでも、誰でもいいからあの猫が拾われて、大切にされれば良いと思っていたのだ。俺たちには無理だから。猫を飼ってやることも、誰かに大切にされることも。

「不動、あたし、死にたくない。死にたくない……」

 小鳥遊にとって、死にたくないという恐怖は、愛されたいという渇望と同じだ。願っても叶わないとわかってるのに、願わずにいられないとは、なんと哀れなことだろう。小鳥遊は泣くだろうか。そう思って近づいてみたものの、唇を噛んで耐えるだけで、泣きはしなかった。縋るものがないなら、涙なんて意味がないのだ。小鳥遊が俯いて触れる空き缶を掴んで、ビニール袋に戻す。猫缶は、結構美味しいのだとどこかで聞いたことがある。そんなくだらないことを思い出したが、今ここで言う気には流石になれなかった。

「帰るぞ」
「……うん」
「今日の夕食は、何か美味いもん作ってやるから」
「……うん」
「ほら、手」
「……うん」
「俺たち、二人いるだろ。二人いれば、くっつけば寒くなくなるだろ。あの猫みたいに、凍え死ぬこともないだろ」
「……うん」

 傷を舐めあうことしかできない関係でも、舐めあえるだけ幸せなのだと、どこかの誰かが言っていた。一人でいる分には舐めあうこともできないからだ。でも、舐めあっただけで何も解決しないし、救いにもならないことを、俺たちはよく知っていた。ぎゅうっと掴まれる手を、握り返す。

「あたし、猫の言葉がわかるの」

 小鳥遊がそれから先、その言葉を口にすることはなくなったが、どこかであれは、小鳥遊の願望だったのではないかと、ふと思ったのだ。

「あの子、あたしたちが幸せになればいいのにって、言ったのよ」








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