風介から、久しぶりに会えないかというメールが来た。随分と懐かしい名前だ。風介はあまりメールをすることはないし、お日さま園を出てからは、会う機会すらなかった。すぐに会えるというメールを送れば、暫くして、日時と場所の指定が書かれたメールが返ってくる。晴矢が迎えに来るらしい。風介がメールを送ってきたのに、晴矢が迎えにくるとは。そういえばあの二人は一緒に暮らしているのだった。久しぶりに会った晴矢はなんだか少しやつれたようだった。どうしたの、と聞いてみれば、最近風介が精神的に色々とやばいらしい。思い出してみれば風介は昔から、冷静でいるようで、思い通りにいかないことがあるとすぐに人に当たり散らす性格をしていた。それが悪化してしまったのかもしれない。大丈夫、今日は随分落ち着いているから。フォローにならないフォローをされて、俺は二人の住んでいるアパートにお邪魔した。鍵を回す晴矢の手には、赤黒い痣があった。


 茂人はとても病弱で、昔はそれこそ俺が傍にいないと、すぐに死んでしまいそうなほど気弱でもあった。げほげほと咽返る茂人の背中を撫でる。大丈夫、大丈夫だから。ねぇ、晴矢は俺のこと捨てたりしないよね、俺のこと一人にしないよね。俺たちはずっと二人だよね。茂人は病弱なのもあって、施設の連中とは仲良くできなかった。からかわれるたびに、俺が出ていって、茂人を苛めるなと逆にぼこぼこにしてやった。大丈夫、俺はお前を一人になんかしやしないからさ。


 ヒロト、久しぶり。そう言った風介の腕には、何本もの線が引かれていた。あぁ、どうやら精神的に芳しくないことは本当らしい。かつての姿を思い出して、目の奥がツンとした。晴矢も風介もおかしい。二人だけで抱え込んで、少しはこちらを頼ればいいのに、だから泥沼に嵌って動けなくなるんだ。俺と晴矢と風介は当たり障りのない話をした。何を話せば地雷になるのかわからない。せめて事前にもっと何か言ってくれればよかったのに、そう思ってちらりと恨みがましく晴矢の方を見る。冗談を言いながら風介と笑い合っている晴矢の目は、なのにぎょっとするほど何の感情も浮かんでいなかった。


 茂人を苛める奴らをぼこぼこにするたびに、茂人の居心地は悪くなった。施設の先生も、俺たちに手を焼いていたし、倒れてばかりいる茂人のことをあまり良いようには思ってなかったから、これで本当に俺たちはふたりきりになった。ほら、茂人、嬉しいだろ。おまえが望んだんだから。経営が上手くいっていない養護施設は潰れてしまって、子供たちは新しい別々の施設に引き取られることになった。俺と茂人は一番遠くの施設に引き取られるようだった。どうやら厄介払いらしい。それでも俺は茂人と一緒にいられるのが嬉しくてたまらなくて、咳き込む茂人の背中を撫でながら、ひっそりと笑った。


 どこかざわざわとして落ち着かない。何故なのだろう。ヒロト、飯食ってくだろ。知らない間に決定事項にされて、俺は胸の奥に何かもやもやとしたものを抱えながら、頷いた。晴矢が台所で夕食を作っている間、俺は風介と二人きりになった。風介はテレビのリモコンを神経質そうに回していた。その腕にははっきりと白い線が浮かんでいたが、どれもこれも薄いもので、逆に綺麗だな、とそんなことを俺は思った。死ぬ気のない、パフォーマンスとしてのリストカット。なんのためのパフォーマンスなんだろう。風介、話があるんだけど。リモコンを持つ手に触れれば、風介はちらりと台所を見て、あとで、とぽつりと言った。


 初めて会ったときそいつは既に、誰かのものであることを自分で決めてしまっているやつだった。どこにいても映えるような、明るい赤の髪をして、それよりも暗い赤を吐き出す幼馴染の背中を撫でていた。あまりにも自然で、壁がある。晴矢はわたしに比べると随分と社交的で、思いやりのある性格をしていたが、その実、ぞっと寒気のするような目を浮かべることがある。あいつは本当に幼馴染の男以外のことは心底どうでもいいと思っているのだ。きっと他の誰もそのことに気が付いていない。ヒロトには養父がいたし、他のやつだって、誰か仲の良いやつはいる。わたしだけだった。わたしだけがひとりだから、それに気がついたのだ。


 夕食はきのこのパスタだった。そういえば小さい頃、近くに生えているきのこを持ち帰っては、図鑑で毒キノコか食べられるキノコかを見比べていたことを思い出す。実はこのきのこ毒じゃないだろうかと一瞬疑うが、ゴミ箱からはみ出す袋は確かにしめじとでかでかと書かれていた。テレビでは漫才をやっていたが、テレビの笑い声とは裏腹に、寒々しい空気がリビングには流れた。もやもやとしたものはすでにもっと重苦しいものへと変化している。横目で風介の様子を窺う。風介は晴矢を見ていた。晴矢はテレビの漫才を見ていた。誰の目も笑ってはいなかった。


 わたしは晴矢とそれなりに仲良くなった。ひとりで行動するわたしは、茂人を苛める積極的な力を持ち合わせていないとわかったのだろう。晴矢と茂人と何度か話をした。わたしはどこかふたりが羨ましかった。お互いに依存しあって、求め合う姿が、眩しすぎた。晴矢が席を外せば、茂人はわたしを睨みつけてくる。わたしのことが邪魔なのだ。茂人は晴矢がどれだけ茂人に依存しているか、気がついていないのだ。ただ、茂人が、晴矢に依存していることを申し訳なく感じている。病弱な自分を捨てて、どこかに晴矢が行ってしまうことを恐れている。そのことに晴矢は気が付いていて、だからわたしを連れてくるのだ。嫉妬心を煽るためだけに。馬鹿くさい劇に付き合わされるたび、わたしは影で笑った。胸の奥が痛かった。


 そろそろ帰るよ。ちらりと風介に目配せすれば、風介は送っていくと立ちあがった。俺が行こうかと風介を心配した晴矢が名乗り出たが、たまには外に出ないとと耳打ちし、納得させる。ごはん美味しかったよ、ありがとう。お礼を言えば、別にいいってと晴矢は笑ったが、やはり目は笑っていなかった。居心地の悪さを感じて、口は会話の種を見つけるべく忙しなく動く。今度はみんなで会おう、玲名や緑川や砂木沼や、そうそう、きみが仲の良かった――そこまで言って、風介が服の袖を引っ張った。思わず振り返ると、風介がこちらを睨みつけていた。感情のある瞳。そのまま玄関へと腕を引っ張られる。最後にちらりと晴矢を振り返った。晴矢は部屋の真ん中で頭を抱えてしゃがみこんでいる。体調が悪くなったのだろうか。あのまま放っておいていいのかと風介を見たけれど、風介はそれを無視して扉に鍵を掛ける。リストカットのない右腕は、代わりにたくさんの引っ掻き傷が出来ていた。扉の向こうで、がしゃんと何か割れる音が響いた。


 初めて晴矢にわたし自身を見てもらえたと思ったのは、ジェネシスにグランが選ばれたときだった。そのときのわたしはガゼルで、晴矢はバーン。仲が悪いごっこ遊び。良いだろう、そういうのは得意だ。実際、色々なことが積み重なって、晴矢には苛々としていた。何故かはわからない。ただ、奴を見ていると苛々した気持ちが止まらなくなる。頭を掻きむしって、部屋にあるものすべてを破壊せんばかりに壁に投げつけた。そのときバーンが部屋に入ってきたのだ。入ってきたバーンは、わたしの頬を強く叩いた。それからいかにグランに目に物見せてやるかという計画を打ち明けてきた。ぼろぼろになったわたしを見て、ようやくバーンはわたしを見てくれたのだ。頭を撫で、傷ついたわたしの手を手当てしてくれた。扉の向こうで誰かが見ている気配がする。ざまぁみろ。ざまぁみろ。ざまぁみろ。


 コンビニで缶コーヒーを二本買って、風介に渡した。受け取った風介はお礼を言い、長くない爪を駆使してプルタブを起こす。コンビニ前に座り込んで、沈黙が支配する。先に口を開いたのは、俺だった。「あのさ、言っちゃ悪いかもしれないけどさ、おかしくなってるのって、晴矢のほうだよね」風介は苦々しい顔をして肯定する。その姿には部屋にいたときのどこか張り詰め、弱弱しい雰囲気はなくなり、本来の冷静な部分が見えていた。「なにがあったの」「……茂人が晴矢の前からいなくなった」茂人というのは晴矢の幼馴染だったはずだ。もともといた施設が潰れて、お日様園に二人でやってきた。すでに仲の良かった二人のことをよく覚えている。「茂人がいなくなってから、晴矢はおかしくなったんだ」


 いままでありがとう。晴矢はもう自由になるべきだ。さようなら。そんなことを言い残して茂人は晴矢の前からいなくなった。晴矢に極度に依存していた茂人は、エイリア学園、つまりはお日さま園を去っていった。あの事件があってから、それぞれ身の振り方を改めて考えた者が多い。きっと人はそれを成長と呼ぶのだろう。あの事件は決してマイナスばかりを残したわけではないのだ。去っていく茂人を、晴矢は笑って見送った。次の日から、晴矢は部屋から出なくなった。ご飯も食べない。トイレには行くけれど、それ以外はベッドの中でぼうっと壁を見詰めている。ときどき動いたかと思えば、目に入るものすべて投げつけ、破壊し、暴れまわった。わたしはそれをただ見つめていた。日々死んでいく晴矢に、なにをどう間違えたのか考えた。わたしは言っただけだ。もう晴矢を解放してやってはどうだ、あいつはおまえのために随分と苦しんだ、これが良い機会じゃないのか。そんなことを、茂人に言ってやったのだ。茂人は寂しそうな目をしながら、頷いた。茂人は自分が晴矢に依存していることに気がついていながらも、晴矢が自分に依存していることには気がついていなかった。それが茂人と晴矢の決定的な違いだった。だからあっさりと茂人は晴矢を捨てて、晴矢はそれにしがみつくことができなかったのだ。わたしはただ、晴矢にわたしを見てほしかっただけだ。なのに、晴矢は死んでいく。あんなに恋い焦がれた金色の瞳は、濁りきって、わたしどころか何も映そうとはしなかった。


 風介が精神的に弱っているのはパフォーマンスだ。手首を切るのも、髪を掻き毟るのも。風介が晴矢に依存することで、晴矢はなんとかバランスを保っている。必要とされている実感を得ることは、人生において必要なことだと俺は思う。けれどふたりの場合、あまりにも不安定だ。いつかそう遠くない未来、破綻がくる。「知っているけど、他になにもなかったんだ」そう、彼は誰よりも知っているのだ。こんなの、あまりに不毛すぎる。「どうすればいいと思う、ヒロト」俺はその疑問に答えることができなかった。


 晴矢、晴矢。こっちを見て、わたしを見て。きみがいないと駄目だ。きみじゃないと駄目だ。わたしをひとりにしないで。きみしかわたしを助けてくれるひとはいない。きみが好きだ。だからずっとそばにいて。わたしもきみをひとりになんかしやしないから。「嘘つき」


 ヒロトと別れて家に帰ると、部屋中がめちゃくちゃになってしまった。こうなってしまった晴矢は手がつけられない。正気ではないのだ。晴矢、晴矢、何度も名前を呼ぶが、返事はない。晴矢の部屋に行けば、暴れ疲れたのかベッドの上で眠っていた。その赤い髪を撫でてやる。晴矢の手は、あちこち殴りつけるから痣だらけだ。晴矢は自分の異常な行動を自覚してはいない。きっと起きたら、部屋を荒らしたのはわたしだと思うのだろう。それでいい、それでいいのだ。いつか破綻が来るのだとヒロトは言った。分かっていると、わたしはそれに頷いた。だったら、どうしようもないし、俺もどうにもできないよ、と悲しげにヒロトは首を振ったのだ。「だって本当は、きみだって今のままでいいと、思っているんだもの」まったくもって、その通りなのだから、わたしはわたしの愚かさに笑うしかない。ヒロトを呼んだのは、確かめたかっただけだ。わたしが晴矢をどうしたいのか。今のままでいい。それがわたしの出した結論だった。これでようやく、晴矢はわたしのものになった。わたしだけが、こんな晴矢を助けてやれる。例えこれが不毛と呼ばれようが、これでいい。ただ、あんなに羨ましかったあの太陽のような笑顔が、やはりわたしには決して向けられないということだけが、どうしようもなく、悲しいのだった。









人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -