不動は躁鬱の激しい人間だった。上昇志向が強い割には、それは誰よりも後ろ向きな意識で支えられている。利用することに何の抵抗もないが、自分自身がどう利用されようが興味がない。小さな頃から母親によって繰り返し繰り返し、呪詛のように上だけを見ることを強要され続けた不動は、本当の意味で平穏など知らないのだろう、ただ一息、気を抜くという単純なことを、不動は出来ない。それが当たり前だった。
 だから、もういいのだと俺は言った。もう頑張らなくてもいい。おまえが頑張ったことは、みんな知っているから。悪夢に魘され隈ができても、脅迫概念のように上へ上へと向かうことを止められない不動を抱きとめて、背中を撫でる。もう頑張らなくて、いいから。もう十分なんだ。
 初めて、俺の前で不動が泣いた。不器用すぎる泣き方は、過呼吸のようになっていたし、随分とみっともない顔をしていた。喉の奥から引き攣った声を出しては、押しつぶされ、それでも涙は何にも防ぎ止められずに流れていく。泣き方をすっかり忘れてしまっていた不動の泣き顔は、見ている方が辛かった。もういい、頑張った、頑張ったから。背中を撫でて、何度も何度も繰り返す。もういいんだ。
 泣き疲れて眠る不動の頭を、ゆっくり撫でる。伝わっていればいい。それで、少しでも今よりも気を抜いて生きていけたなら、それでいい。
 このときの俺はすっかり忘れていたことがある。不動は自我が強いようでいて、他人に合わせて容易にその形を変えられるのだ。だから母親の呪いに似た願いに応えてここまで生きてきたし、誰に利用されようと長いものにまかれることができた。そうやって少しずつ内側で変わってきた歪みは、表に出ないまま不動をゆっくりと蝕んでいった。
 次の日の朝から、不動は頑張ることを放棄してしまった。俺が望んだとおりに、もう何にも頑張ることができなくなってしまったのだ。

「不動、朝だ。起きろ」

 ベッドに沈む不動を揺さぶり、覚醒を促す。何度か続ければ、不動はゆっくりと目を開くが、その瞳がこちらを捕えることはない。腕を引っ張って、起き上がるように指示すれば、ようやくのろのろと不動は動き出した。リビングの椅子に座らせて、焼きたての食パンとハムエッグを出せば、もそもそと小さく咀嚼する。あまり豪勢とは言えない質素な食事に対しても、不動は何も文句を言わない。ここ最近、不動の声自体をあまり聞いていない。俺が不動に、もう頑張らなくていいと言った次の日の朝、いつまでも起きてこない不動に訝しみ、部屋を見てみれば、そこには抜け殻になった不動がいた。手を引っ張り指示すればちゃんとその通りに行動するが、自分からは何もしない。前のように挑発的な笑みを浮かべることも、憎まれ口を叩くこともない。動く死体と同じだ。病院に連れて行っても、何も異常はないという。どんな医者に診せても似たようなことしか言わない。必然的に不動を連れて外に出ることは少なくなり、軟禁とも言えなくはないような生活を送らせることだけが、俺が不動に対して出来ることだった。
 朝食を食べ終わった不動は、ソファに顔をうずめながら、ぶつぶつと何か意味のない声にならない声で小さく呟いている。その口に人差し指を突っ込み、口の中を犯せば、ようやくこちらを感情の籠らない目で見返してきた。「不動」名前を呼んでも何も言わない。「少しでも良いから、何か話してくれないか」人差し指を差し抜くと、垂れる唾液だけが妙に艶めかしかった。
 あまり期待もしないで願ったことは、潰れかけの細い声が叶えた。

「偽善者め」

 はっとして不動を見れば、不動は久しぶりに感情が滲んだ目でこちらを見下していた。呆れ、失望、軽蔑。それらが混ざり合い、沼の底よりも暗く沈んだ色をしている。不動は何度も繰り返した。偽善者。「結局お前も他のやつらと同じだな。わかったような口聞いて、全部否定して、そしてこのざまだ」
 不動を最終的に壊してしまったのは、間違いなく自分だった。周りに望まれるままに形を変えてきた不動を、俺が全部否定したのだ。悪意のない言葉。だからこそ濁りなく、不動はそれさえ受け入れた。それに対してまで文句を言われては、確かに軽蔑の眼を向けたくもなるだろう。

「わかるだろ。俺みたいなのに優しくしちゃいけないんだよ。俺みたいなのが必要なのは、優しい言葉なんかじゃないんだ」

 もういい、と不動は潰れかけた声で言った。俺が不動に対して言った言葉と同じだが、ニュアンスは随分と異なる。もういい。もういい。もういやだ。もうどうでもいい。もういい、もうなにもいらないから、はやくおわってしまいたい。

「俺みたいなのが必要なのは、優しい言葉なんかじゃないんだ」

 不動の力のない手が、俺の手を掴む。唾液に濡れた指を、自分の首に添えさせる。不動が望むのは生易しい言葉なんかじゃない。一瞬で全部を奪い去る、無慈悲な手。
 不動が初めて自分自身のために望んだことを叶えてやるために力を込める。虚ろにこちらを見ている不動の瞳を見て、ここ最近のことを思い出した。医者に診せることすらあきらめて、二人で家に引きこもりがちになったこと。源田や佐久間から不動の所在について聞かれ、知らないと返したときのこと。同じベッドで眠って、体温を感じ合ったときのこと。それらに幽かに薄暗い喜びを感じたときのことを。
 このまま力を加え続ければ、確実に不動は死ぬ。誰からも忘れられたまま、俺だけが覚えている。俺だけのものになる。あぁ、それは悪くない気がする。俺は確かにおまえが言うように偽善者だったな、不動。ぱくぱくと金魚のように空気を求める唇を、自分の唇で塞ぐ。このふたりきりの小さな世界で、空気も理性も明日も全部飲み込んで、消えた。







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