久しぶりに会った鬼道ちゃんはあのゴーグルもマントもしていなくて、一見するとただの通りすがりのひとだったものだから、目が合ってその赤い目に覗き込まれた瞬間、酷く驚いた。そういえば俺は鬼道ちゃんの目を一度も見たことがなかったのだ。赤い目を見て、なんだか猫みてぇー、と言っても、鬼道ちゃんは何も言わなかった。昔だったら、一言目にそれか、くらいは言っていた気がするのに。なんだか鬼道ちゃんは俺が知っている鬼道ちゃんじゃなくて、何か別のものに見えた。
 性質の悪い客に引っかかったんだ。それは言い訳じみていたけれど事実なのだから他に言い様もない。あっちこっち破けた服は、もうほとんど服の機能を失くしていて、寒かった。冷たい風は傷に染みるし、最悪だ。寒いのは慣れているのに、惨めな気分になるのも慣れているのに、鬼道ちゃんが見ているのが、なんとなく悲しいと思った。
 鬼道ちゃんは何度か周りを見渡しながら、俺の服を脱がした。そんなに見なくても、こんなドブの匂いが籠った路地裏になんか誰も来やしない。鬼道ちゃんが来たのにびっくりしたくらいだ。何度か傷に引っかかって痛かったが、黙ってそのままされるがまま。脱がした瞬間に、鬼道ちゃんはその目を顰める。鬼道ちゃんは何も言わない。それに対して俺の口は止まらない。性質の悪い客に引っかかった。殴られて犯されて財布は盗られた。当たり前だけど警察には行けないし、傷が消えるまではまた性質の悪い客に引っかかるから身体売ることもできないし、腹は減ったしで散々だ。なぁ、鬼道ちゃん、なんか食うもの持ってない、聞いてみたけど鬼道ちゃんは無視した。なんだよ、昔より愛想悪くなっちゃって。鬼道ちゃんはなんだかちょっとだけ嫌な顔をしながら、タオルにペットボトルのミネラルウォーターを染み込ませて俺の身体を拭いた。当たり前だけど寒い。鳥肌が立つ俺の肌を、鬼道ちゃんは驚くほど優しく拭いた。傷には染みたけれど、嫌ではなかった。鬼道ちゃんはタオルをその場に捨てた。いいのかよ、ゴミのポイ捨てなんてと笑ったが、あんなタオル持ち帰りたくないだろう。鬼道ちゃんは鞄からジャージを取りだした。問答無用で俺に着せる。その汗臭さが懐かしい。初めてそこで少しだけ目頭が熱くなる感覚がした。
 鬼道ちゃんは携帯電話を取り出して、どこかに電話をかける。警察だったらどうしようと少し身構えたが、そうではないようで、誰かに迎えを頼んでいる。記憶の中よりも少しだけ声は低くなっていた。「立てるか」その声が俺に向く。「立てるけど、あんま長くは歩けねーかも。捻挫してるし」「そうか」鬼道ちゃんは荷物を抱えて、座っている俺の腕を引っ張り、そのまま肩に回した。「すぐそこまで迎えを呼んでいる。我慢しろ」「どこに連れてくんだよ」「家だ」「ほっときゃいーのに」「俺のジャージはお前が着ている。このままどこかに逃げられて帰ってこなかったら面倒だ」着せたのは鬼道ちゃんのくせに。身体のあちこちは痛かったし、頭は痛いしで、抵抗する気が失せてしまった。
 ちょっと広い道まで出て少し休んでいれば、黒い車が止まる。いかにも高級そうな感じだ。運転手がわざわざ車から出て後部座席の方の扉を開けるあたり、鬼道ちゃんは本当にお坊ちゃんだなぁと呆れた。後部座席に押し込まれ、鬼道ちゃんも隣に座る。運転手はちらっとこちらを見た後、そのまま車を出した。良い運転手じゃん。こんないかにも柄の悪そうな男に何も言わないなんて。車の中では誰も何も言わない。エンジンの音だけが聞こえる。なんつー気まずい車だよ。ぼけーっと流れる風景を見て過ごしていれば、しばらくして、車が止まった。どうやら着いたらしい。「荷物を頼む」「はい」一瞬俺のことかと思った。鬼道ちゃんはまた俺の腕を肩に回して、いかにも豪邸って感じの家に連れていく。足が痛い。骨まで痛んでなきゃいいけど。まぁ、もう、サッカーもできないしどうでもいいか。
 鬼道ちゃんの部屋に連れて行かれるのかと思ったら、浴室だった。「シャワーを浴びてろ。着替えは用意しておく」あー、俺、汚いからな。納得。鬼道ちゃんはタオルを押しつけると、浴室を出て行った。広い浴室だ。黴なんか生えてないし、なんだよこの浴槽、足延ばしてもまだ余裕ありそうだ。まぁ傷に染みるし身体はまだどろどろだし、入れないけど。シャワーはすぐお湯に変わる。頭から被る。ざーざー。まともにシャワー浴びるのなんか久しぶりだ。最近はホテルにも行かない。しばらくシャワーを浴びていれば、じんわり身体の芯からあったまる感じがする。全然曇らない魔法の鏡を覗けば、メッシュではない部分に白髪を見つけた。なんだっけ、若いころの白髪って金持ちになるとかそういうジンクスあったよな。じゃあ俺は将来金持ちになれるのか。金持ちの家でこんなこと考えてるのはなんだかすげぇ笑えた。あとで鬼道ちゃんに言ってやろう。今日の鬼道ちゃんはぴくりとも笑わないし。
 浴室を出れば、ご丁寧に畳まれた服が置いてある。しかもなんだかこれ、新品そう。パンツまで置かれてるとは思わなかった。そういや俺が来ていたジャージはどこ行ったんだろう。その前に着てた服はそのまま捨ててきたけど。とりあえず服を着て脱衣所を出れば、鬼道ちゃんが立っていた。ちょっとびびる。せめてあがったかーくらい声かけてくれよ。
 鬼道ちゃんはもう一度俺の腕を掴んだ。そんなことしなくても逃げないって。階段を上って、部屋に入れば、結構普通に高校生っぽい部屋だった。ちょっとでかいベッドの上には救急箱が置かれてあって、鬼道ちゃんは俺の服をもう一度脱がせて、手当を始めた。着たばっかなのにな。

「鬼道ちゃんは、まだサッカー続けてんだな。さすが天才」
「……不動は、サッカーは、」
「やめたよ。高校にも行ってない。馬鹿だからじゃねーからな。俺だって成績は割と良かったし。まぁ、単純に金がなかったっつーか」
「……そうか」
「監督がさァ、色々便宜図ってくれたんだけど。推薦とかあったし。でもさ、推薦で学費飛んでもさァ、雑費はどうにもなんねーし。サッカーやってるといろんなことに金使うもんな。まぁそんなこんなで今ニート」

 監督には結構酷いことをした。なんだかんだで、一番俺を世話してくれたのは監督だったし、うちに来るかとも言ってくれた。でもまさか年頃の娘と一緒に暮らすわけにいかねーだろ。監督は口をあまり出さない分、色々と俺のために動いてくれたが、それが重くなっていたことも事実だ。俺は最後に実際に会ってから、一度も監督に連絡を取っていない。
 そういえば母親ともここ数年顔を合わせていない。サッカーやめるから。そう言った瞬間見えるか見えないかのギリギリなところで口が安堵の笑みを浮かべていたことを俺は知っている。俺は家を出た。捜索願が出された様子は今のところない。

「まぁときどき稼ぐけど。おぼっちゃんには刺激の強すぎる世界かもなァ。今日みたいな性質の悪いのに引っかかることはあるけど、それだってたまにだからな。病院に罹る事態にならなかっただけマシっつーか。俺、保険証持ってねぇし」

 鬼道ちゃんは黙って俺の手当てをしてくれた。消毒薬が染みる。いてぇよ。なんだか久しぶりに喋ったから声が擦れる。最近ろくに声出してないし出したとしても気持ち悪い媚びるような喘ぎ声なわけだし。あー、喉渇いた。ふいに、腕に冷たい感触がした。消毒薬かと思ったが、違う。鬼道ちゃんは両手で俺の腕を掴んで、俯いていた。ちょっとだけショックだった。あの鬼道が、天才って呼ばれた男が、こんな小さいだなんて。

「なぁ、鬼道ちゃん。なんであんたが泣くんだよ」

 訳わかんねぇ。なぁ、鬼道ちゃん。泣くなよ。鬼道ちゃんには関係ねーだろ。なんなんだよ、なぁ。

「そうだ、鬼道ちゃん。俺を買えよ。一晩。格安にすっからさぁ。一晩経ったら、出ていくし。なぁ」

 鬼道ちゃんは何も言わなかった。ただ、ぼたぼたぼたぼた、腕に冷たいものが落ちてきて、誰かのために泣ける鬼道が酷く羨ましい気持ちになった。
 その晩何があったかって問われれば何もなかったし、けれど何もなかったかと問われれば何もないわけではなかった。目が覚めると、一万円札が三枚、枕元に置いてあった。高校生が札なんか持ってんなよ。こちとら財布盗られて一文無しなのに。
 時計を見ればまだ三時だったが、まぁいいかと扉に手を掛ける。が、動かない。がちゃがちゃ動かして、ようやく鍵がかかっていることを知った。おい外から鍵が掛けられんのかよこの客室。しょうがないから窓の鍵を開ける。木を伝って降りれば、難なく降りられそうだ。ちょっと冷や冷やしながら、下まで降りる。足は大丈夫か不安だったが、テーピングしたおかげか随分痛みは減っていた。
 庭を抜ければ、あの運転手が暇そうにゴルフをやる真似をしていた。どんだけ暇なんだよ。今、夜の三時だぞ。「なぁ」俺は声を掛ける。運転手は動じた風もなかった。「なんでしょうか」「これ鬼道ちゃんに渡しておいて」ズボンのポケットから一万円札を三枚取り出して、渡した。服代と治療代とクリーニング代。これより高かったら困るけど。「かしこまりました」「ねこばばすんなよ」まだ肌寒い中、俺は鬼道の家を出た。月が雲に隠れていて、もっと空気出せよこのやろうと思わないでもない。もう二度と会わないんだろうなぁ。鬼道ちゃん。もっとあの目、ちゃんと見てやればよかった。鬼道ちゃん。鬼道。

「俺はあんたが好きだったよ」

 他人のために泣ける酷いあんたが好きだったよ。








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