「おう、五のろー」
授業を終え、雷蔵と三郎と三人で歩いていると、向こうから軽く片手を上げて名前がやってきた。
「珍しいね、名前」 「明日の実習の火薬の手配頼まれちゃってさ、さっき兵助んとこ行ってきたの」
と、名前は雷蔵に兵助の署名の入った火薬使用許可証を見せた。
「とか言って、俺に会いたかったんだろ? ったく、お前って奴はホントに」 「はい三郎黙れー」
名前は爽やかな笑顔で、抱きつこうとする三郎の頭をがっしりと押さえた。「まぁまぁ」とそれを雷蔵が宥める。 でも行動と裏腹に、名前の頬は僅かに赤い。邪険にされているのに、三郎はどこか嬉しそうだ。
「あ、名前。髪になんか付いてる」 「えっ、どこ?」 「ここ」
と、俺は名前の髪に手を伸ばす。艶やかな髪に、小さな木の葉が引っかかっていた。髪を引っ張ってしまわないように気をつけながら、葉を取って「こんなん付いてた」と名前に見せる。
「わー、さっき近道するのに木の上飛んできたからかも…」 「葉っぱ付けたまま、ここまできたのかよ? 狐狸の変化じゃないんだから。名前ちゃん、恥ずかしいー」 「ねぇ、雷蔵、裁縫道具持ってない? 三郎の口、縫いたいんだけど」 「三郎ーいい加減にしろよー。名前も落ち着いて、ねっ?」
三郎の口を縫う代わりに、その後頭部に拳を振り下ろしてから、名前は「ハチ、ありがとね」と笑った。屈託のない笑顔。「どういたしまして」と、オレも笑う。
「これから皆、どうするの?」 「僕は委員会。今日は蔵書整理の日なんだ」 「八は?」 「俺は木下先生に呼び出しー」 「呼び出しって、ハチ、なんかしたの?」 「最近毒虫の脱走が多かったからさ、多分お説教」 「あらら、別にハチが悪いんじゃないんのにね」 「まぁ、これでも委員長代理だからな」 「お疲れ様」
ポンと名前に背中を叩かれ、オレは心から孫兵に感謝した。孫兵が毒虫を飼っていて脱走させなければ、お説教もない訳で、こうして名前に慰められることもなかったのだから。 オレのささやかな喜びの余韻を、三郎の「なあなあ」が掻き消した。
「ほら、名前。俺にも聞こうぜ」 「あ、なんかこの辺虫飛んでない? ブンブン煩いんだけど」 「名前ー」 「触るな変態! あんたも今日は委員会でしょうが!」 「そうだけどー」 「ちょっ! どさくさに紛れてどこ触ってんのかな?!」 「ふごっ?!」
鈍い音がしたかと思うと、三郎がその場に座り込んだ。男ならば見ているだけで縮み上がるような、見事な金的。股間を押さえて小さく震えている三郎に、名前は「自業自得」と吐き捨てた。
「なーんだ、みんな忙しいのか」
名前はつまらなそうに唇を尖らせた。木下先生は怖いが、大声で一瞬怒鳴るだけだから、きっとすぐに説教タイムは終わるだろう。そう言おうと思ったが、ふと目の端に三郎の姿が見えたので――やめた。
「遊んでないで少しは勉強しろよな」 「うわ、勉強しないで成績の良い人に言われると、本当ムカつくんですけど。 三郎って本当頭だけはいいよね、頭だけは。あ、あと要領」 「なんかそれ、頭良いっていうか小賢しいって言われてる気分なんだけど」 「実際言ってるし」 「頭と要領だけでも、悪いよりは良い方がいいだろ。なあ、雷蔵?」 「肝心の性格が悪いんだから、全部台無しじゃない。ねえ、雷蔵?」 「なんでそこで僕を巻き込むかなぁ」
――そう、これはいつもの光景。繰り返される日常の一頁。
「ハチ…?」
気がつくと、名前が心配そうにオレの顔をのぞきこんでいた。オレは名前を心配させるような表情をしていたらしい。慌てて笑顔を取り繕う。上手くできたかは、わからないけど。
「オレ、職員室行ってくるわ」
********
予想通り木下先生のお説教は一瞬で済んだ。しかしどういう訳か、「竹谷、青春してるか?」という突然の質問から、先生の学生時代の話、今のうちから女を見る目を養っておけという苦言、先生と奥さんとのなれそめ、子供の話と、遠回りに遠回りを重ね、「兎の様子がおかしかったから、気をつけて見てやれよ」と見送られた。
名前はもう部屋に戻ってしまっただろうか。もしかしたら、他の学年の暇そうな奴を捕まえようと、まだこの辺りをうろうろしているかもしれない。なんとなくそんな気がしたので、兎小屋に向かう道すがら、オレは名前を捜すことにした。
「竹谷、青春してるか?」という木下先生の問いに、オレは「はぁ」という曖昧な返事をしたけれど、実のところ多分青春真っ直中という奴なのだと思う。
オレは名前のことが好きだ。恋と呼べるのかどうかはわからないけど、それに近いような、何かドキドキするようなチクチクするような感情を抱いている。
でもそれよりも前に、三郎は自分が名前を好きだということを自覚し、行動に移していた。奴の起こした行動――好きな子ほどイジメたくなってしまうという、この時期の男子にありがちなアレだ(三郎の場合、単に素直な性格じゃないという部分が大半だろうけど)。あろうことか、この行動が功を奏した。名前は物凄いノリのいい子だったから、からかったり、からかわれたり、フザけたり、殴ったりしているうちに、すっかり三郎との距離を縮めてしまった。
一応のところ、オレ達(オレ、三郎、雷蔵、兵助、勘ちゃん)+名前の『仲良し六人組』という体になっているけれど、よく見ていれば、三郎だけが名前にとって特別なのだとわかる。
やけに暴言を吐く。やけに殴る。やけに突っかかる。
名前も三郎と同じ人種で、それが歪んだ愛情表現なのだと気付いたのはつい最近のことで。
そう話したら、雷蔵に「ハチはそういうの疎そうだもんね」と言われた。 雷蔵の言うとおり、オレは色恋沙汰に疎いし、鈍いのだと思う。だって、名前と三郎が両思いなのだと知って、傷つき、『なんで名前も三郎も大事な友達で、その二人が互いを大切に想い合っていることは、とても素晴らしいことなのに、オレはこんなに苦しいんだ』と思い悩み、『あれ、もしかしてオレ名前のこと好きなんじゃね?』に辿り着くのに、ずいぶんと時間がかかった。
今だってまだこの感情が恋なのかわからないでいる。名前と話すのが楽しい。名前と遊ぶのが楽しい。名前が嬉しければ、オレだって嬉しい。名前が悲しければ、オレも悲しい。
ああ、でも。
――三郎と一緒の時の、嬉しそうな名前だけは、少し苦手だ。
「あっ、ハチ」
今日はよく呼び止められる日だな、と思って振り向くと、勘ちゃんが煎餅をかじっていた。あーあーあーあー、掃除の後だっていうのに、辺りに食べかす落として。後で怒られても知らないぞ。
「勘ちゃん、委員会は?」 「もう終わったー。この煎餅、学園長からの差し入れなんだけど、超美味いよ、はい」 「んがっ」
いるかいらないかも確認せずに、勘ちゃんはオレの口に煎餅を押しつけた。確かに美味いけども。 ――ということは、名前はきっと。
「三郎は?」 「さあ。なんで?」 「ん…別に」
オレのはっきりしないに物言いに、勘ちゃんはしばらく不思議そうな顔をしていたが、もう一口煎餅を頬張ると普通の表情に戻った。勘ちゃんが単純で、本当よかった。
「煎餅ご馳走様」
オレは勘ちゃんにお礼を言って、学級委員長委員室を目指した。
予想通り、委員会活動は終わったというのに、学級委員長委員室からは人の気配がした。男の声と、女の声。動物が脱走した時に鳴き声や物音に耳を澄ますようになったから、オレは人一倍耳が良い。だから戸の向こうからでも、それが三郎と名前の声だとわかった。
もしその戸が固く閉ざされていたなら、オレはすぐに兎小屋へと行っただろう。けれどまるで神様の悪戯みたいに、戸はわずかに開いていた。中を覗き見るのに、ちょうどいいくらい。
オレは何かに吸い寄せられるように、その隙間を覗き込んだ。
三郎と名前の背中が隣り合っていた。さっきの暴言の応酬が嘘ように、ぽつりぽつりと他愛もない言葉を交わしている。その言葉の一語一句を聞き取ることもできたが、オレの意識は別のところに持っていかれていた。
繋ぐのでもなく、絡み合うのでもなく、互いの体温を確かめるように触れ合っている二人の指。
――その瞬間、オレの中で何かが終わったのを感じた。
それからどうやって部屋に戻ったのか覚えていない。夕飯も食べて、風呂にも入ったようなのだが、気がついた時には、オレは布団の中にいて、当たり前のように朝が訪れていた。
終わったのは、オレの中の未熟で稚拙な青い恋心だけじゃなかった。 兎小屋で、兎が一匹死んでいた。
小松田さんの出門表のサインをし、オレは裏山にいた。小松田さんが「お弁当?」と聞いた包みの中身は、冷たく固くなった兎の遺体だった。
いつもなら、生物委員が飼育している動物は、菜園の隅に埋める。けれど今日だけはどうしても、火葬をしてやりたいと思った。
適当な木を集め、薪をくべ、火の準備をする。火の様子を伺いながら、白い毛玉と化した兎を撫でてみる。見ただけなら眠ってるだけみたいに見えるのに、驚くほど冷たくて、固い。瞼は固く閉ざされていて、もうあのこいつの赤い瞳を見ることはできないんだ、と思った。
もし昨日、オレが小屋に行ってたら、こいつは助かったのだろうか。
ゆらりと揺れる炎に重なるのは、オレの腕の中の兎の目じゃなくて、三郎と名前の触れ合う指だった。
胸が引き裂かれるように痛い。なんならそのまま引き千切れてしまえばいいと思う。痛さなど、切なさなど、苦しさなど感じないくらい、全部全部粉々になってしまえ。
「ごめんな、お前のために泣いてやれなくて、ごめんな」
ぼたりぼたりとオレの目から雫が落ちて、兎を濡らした。
オレは生物委員なのに、兎を見殺しにした。もっと悔いて、もっと自分を責めなければならないのに、喪失感が刃を鈍らせる。
ひとしきり泣いた後、オレは兎にお別れを告げて、火の中へ入れた。しばらくすると白い兎は、小さな白い骨になった。骨を集めて、兎を運んできた包みにいれた。
オレが本当に荼毘に付したかったのは、終わってしまった淡い恋だったのだろうか。でも火にくべるまでもなく、オレの感情は燃やされてしまった。だけど残ったのは綺麗な小さな骨なんかじゃなくて、叶わないとわかって、ずたずたに傷ついて、だからってそんなすぐに嫌いになれる訳でもない、”恋だった何か”だけだ。
オレの淡い恋は、何かを残したのだろうか。
手を伸ばして、声を張り上げ、何処にも届かないのなら、 僕はどこへ行けばいい
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