「三郎、風呂行かないの?」 「うん、今キリ悪いんだ。後から行く」
机から顔を上げて言うと、雷蔵は「そう」とだけ言った。大した課題も出ていないし、委員会も暇な時期だし、てっきり怪しまれるかと思ったが、雷蔵は気にすることなく風呂の準備を再開していた。 紙に文字を書き付ける振りをしている三郎の背中に「三郎」と雷蔵の声がかかる。
「いいよ、先行けって。私、いつ終わるかわかんないぞ?」
そう言っても、雷蔵は部屋を出て行く様子がなかった。その顔は、何か言いたげである。また迷い癖が発動したのかと思っていると、神妙な面持ちで雷蔵は口を開いた。
「…名前ちゃん、早く見つかるといいね」 「……」
雷蔵の真剣な様子に、三郎も思わず閉口した。 「じゃ、お先」と雷蔵が風呂へ向かうと、一人になった三郎は糸の切れた操り人形のように、床に倒れこんだ。
――今朝から、名前がいない。
同室のくのたまが言うには、寝る時までは部屋にいたという。 授業が嫌になって脱走を試みる生徒は時折いるらしいが、真面目な名前に限ってそれはないだろう。ならば事件にでも巻き込まれたのではないか、というのが有力な説になっている。 無闇に大事にする必要もないと、名前の失踪についてはごくわずかな生徒にしか知らされていない。三郎、雷蔵を筆頭に、五年生五人組は日頃名前と仲が良いため、何か心当たりがないかと聞き込まれたのだ。
その相手が小松田さんだったからよかったものの、誰か先生だったら、何か気取られていたに違いない。
(…名前)
思い浮かんだのは、皆と楽しそうに笑っている名前の姿だった。手を伸ばしてみても、奪い去るどころか触れもできず、虚しく空を掴んだだけだった。
『名前がいない』と聞いた後の皆の動揺のしようは、凄まじかった。 雷蔵は、名前を心配するあまり委員会に出るのを忘れた。 八は「捜索なら私にまかせろ! 生物委員会をなめるな!」と学園中の捜索に乗り出し、くのたま長屋に侵入したために『変態』の汚名と幾多の外傷を負った。 兵助は昼食の時に豆腐に誤ってソースをかけ、夕食時には「名前ちゃんのこと考えると、とても飯どころじゃないよ」と豆腐を食べなかった(正確に数える気にもならないが、いつもは数丁食べている)。 勘衛右門は唯一平静を保っているように見えたが、実は気が気でなくぼーっとしていただけで、綾部の穴に落ちてそのまま数時間、穴から出るのを忘れ、物思いに耽っていた。
名前がいない。 たったそれだけなのに、面白いくらい、歯車が狂っていた。
名前と一番距離が近いのは、間違いなく三郎だ。二人は所謂お付き合いをしていて、簡単に言ってしまえば恋仲同士だ。 でも、それだけだ。二人が互いを想っているからといって、二人の以外の世界はなくならない。三郎は三郎の世界を生き、名前は名前の世界を生きている。体は一つに重ね合わせられても、存在は重ならない。三郎は名前ではないし、名前は三郎になれないのだ。
自分と違って屈託なく他人と接することのできる名前。誰にでも好かれる、明るい名前。 そんな名前だからこそ好きな筈なのに、時々無性に苛々する。
例えば雷蔵に図書室の新刊について尋ねている時。 例えば八のぼさぼさの頭を整えてやってる時。 例えば兵助の長い睫毛を褒めている時。 例えば勘右衛門に委員会からくすねてきたお菓子をもらっている時。 例えば……。
挙げればキリがない。同学年や上級生ならまだしも、この鬱積とした感情は、あどけない下級生まで標的となる。それがまた三郎を苛立たせる。 これは世間では嫉妬と呼ばれる感情なのだろう。どんな人間であれ、嫉妬の一つや二つ抱くのが当然なのかもしれない。まして、恋人のこととあらば。 だがそう言い切ってしまうのに、三郎は抵抗を感じていた。 しばらく自分の掌を眺めていた三郎だったが、反動をつけて起き上がると、そっと部屋を出た。
向かったのは風呂場ではない。 学園の庭の隅、雑草に覆われるようにして、その朽ち果てたあばら屋はあった。学園の敷地内にあるのだから、家屋ということはないだろうが、物置というほど物もなく、何か作業をするには雑然としていた。 三郎がここを見つけたのは、偶然だった。確か名前をからかい、追いかけられ、無我夢中で逃げ回った時だ。五年もいる学園に未知の場所があったことに、少なからず驚いた。 木を隠すなら森の中とはよく言ったもので、まさか生徒が学園の中で失踪しているとは、誰も思わないようだ。 人目がないことを確認して、三郎は廃屋に踏み入れた。ギィと床板が軋む。窓から降り注ぐ月光の元、埃がきらきらと舞っている様は、どこか幻想的ですらあった。 薄明かりの中、名前は一畳ほどの蓙の上で、体を丸くしていた。瞼は閉じられているが、呼吸に合わせ肩が上下しているのを確認し、三郎は安堵した。いくらただの睡眠薬とはいえ、丸一日眠り続けるという強力なものだ。万が一の事態が、ずっと脳裏についてまわっていた。 名前のそばでしゃがみこむ。その顔は安らかそのものだ。が、寝返りを打とうとし、体が思うように動かないせいか、「うーん…」と小さく唸った。両手は後ろ手に、両足は揃えて縛ってあるのだから、体勢を変えようというのはなかなかキツいだろう。これも万が一、名前が目を覚まして脱走しないように、念のための処置であった。 名前の肌を傷つけないように細心の注意を払いながら、縄を苦無で切り裂く。四肢を解放したところで、「三郎…?」と名前の擦れた声がした。
「おはよ」 「おはよ…なの?」 「嘘、夜だよ」 「夜…?」
目覚めたばかりでぼーっとしているのか、名前はしばらく考え込んでいたが、突然「授業!」と叫んで起き上がった。 今にも飛び出していきそうな名前を、三郎は乱暴に抱き締めた。 ――行くな。 言葉の代わりに、抱き締める腕に力を込める。
「三郎…」
理解したのだろう。名前は三郎の背中に腕を回し、胸に顔を埋めた。
「ごめん」 「なんでお前が謝るんだよ。おかしいだろ。こんなことされたのに」 「私が授業嫌だって言ったからでしょ?」 「それは…」
その通りだが、それを肯定してしまったら悪いのは名前になってしまう。饒舌な三郎が珍しく二の句が継げないでいると、名前は三郎の頬に触れた。化粧で塗り固められた皮膚に、冷えた指先の温度が伝わる。
「駄目だね、私」
名前は自嘲するように、笑った。ぎこちない笑みに心が痛む。そうしてやっと、三郎は自分のした事の重大さに気づいた。
「これじゃ、くのいち失格だね」 名前にそんな風に思わせてしまったのは、自分だ。 名前をそんな風に笑わせてしまったのは、自分だ。
「…ごめん」
後悔も、謝罪も、今更だ。もう遅い。
数日後にくのいち教室で房術の実技試験がある――そんなことを風の噂で聞いたのは、二週間ほど前のことだった。 房術とは、男女間の交わりを前提とする忍法だ。女の魅力を使い、相手を籠絡することはくのいちの重要な仕事の一つである。学園でも、中学年から座学、高学年からは実技の授業が行われる、と名前から聞いた。
「房術の実技試験って、何するんだ?」 「な、何って」
名前は盛大にお茶を吹き出した。目の前にいた三郎は、顔面に思いきり飛沫を受けた。
「何っていうか、どこまでって言うか…。 それに相手は? まさか教師の誰かじゃないだろ?」 「…もちろん、本番はなしだよ。相手は、そういうプロの人を呼ぶんだって」
三郎の顔を拭きながら、名前は淡々と答えた。名前の性格からして、てっきり「変なこと聞かないでよ!」と平手の一つでも飛んでくるかと思ったので、正直ちょっと拍子抜けだった。というか、そんな風に言われたら”そういうプロの人”と交わっている名前をありありと想像してしまうではないか。 他の男が名前を見つめているだけでも嫌なのに。他の男が名前に話しているだけでも苛々するのに。他の男が名前に触れようものなら殺意にも近い敵意が生まれるというのに。 ぞわり、と背筋を悪寒が走った。吐き気がする。頭が痛い。骨が軋むようだ。ありとあらゆる症状が、体を襲ってくるような気がした。 至極不機嫌そうな三郎に気づいているのか否か、名前は目を合わさず、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ぽつりと呟いた。
「三郎以外の人に、抱かれたくないな」
その言葉を打ち消すように、名前はにかっとつとめて明るく笑った。
「一人前のくのいちになるためだもん、頑張らなきゃね」
しかしその言葉は、三郎の耳には届いていなかった。三郎に聞こえていたのは、名前の何気ない本音の残響だけだった。
例えば、お前を檻に閉じ込めて、自分だけの物にしてしまえたら、どれだけいいだろう。 例えば、世界に私とお前しかいなくなってしまえば、どれだけいいだろう。
――そんな絵空事が叶うはずのはわかりきっている。
ならば、 叶わないならば、 力付くで叶えるだけだ。
気付いたら、そんな幻想に取り憑かれていた。
「私ね、三郎が助けてくれるんじゃないかって思ってた。それを期待して、あんなこと言ったの。 三郎の優しさを、利用したんだ」
ひどい女だね、と。 名前はまた笑う。
「私…」 「なんで三郎がそんな顔するの? 三郎、私を助けてくれたんだよ?」 「助けてなんかない」
私はただ名前を自分だけの物にしておきたかっただけだ。嫉妬と独占欲に塗れた、醜い人間でしかない。そんな英雄みたいに言うのはやめてくれ。
「私は、名前が思ってるみたいな高潔な人間じゃない」 「私も、三郎が思ってるよりずっとずっと卑怯だよ、きっと」
「それでもいい」と三郎は名前に抱きついた。まるで縋りつくように。 利用してくれるのなら、必要としてくれるのなら、卑怯だってなんだっていい。それが三郎にしか見せない一面なのならば、むしろ喜びですらある。 名前がいなくなって動揺する級友達や心配する大人達の姿は、三郎の願いが砂上の楼閣であることを如実に語っていた。名前は三郎とだけ繋がっている訳ではない。友達、先生、家族…そんなたくさんの人に支えられて、白石名前という人間は成り立っている。 ――二人だけの世界なんて、どこにもない。 名前が自分だけの物にならないのなら、せめて名前の特別でいたかった。 そう思いながら、名前の夢を奪ってまでも、手元に置いておきたい自分がいる。花畑に咲いている花の一つを、その生命力が失われることを知っていて、自分の物にしたいがために乱暴に摘んでしまうような、そんな気持ち。自己満足にしか過ぎない、自己陶酔的で非生産的な行為。 矛盾した思いがどろどろと胸の中を取り巻き、ただ苦しくて、三郎の目尻には涙が滲んでいた。
「好きだ、名前」
苦しくて辛くて泣き顔を見られたくなくて。 三郎は名前を強く強く抱きしめた。「知ってるよ」と名前の体温に包まれる。あぁ、違う。抱きしめられているんだ。 ――手折られているのは、自分かもしれない。 そうやってしばらく体を寄せ合っていると、ぐうぅという場違いな音が辺りに響き渡った。途端、名前の顔が真っ赤になる。
「何、今の?」 「私の…お腹の虫」
名前はやっと顔を綻ばせた。それをきっかけに緊張の糸がふっと切れて、三郎はくたりと脱力した。 「体痛いー」と名前は大きく伸びをした。
「あー、一日何も食べてないから、さすがに腹ペコ…」 「そうだ、おにぎり持ってきたんだ。食べるか?」 「うん!」
三郎が懐から取り出したおにぎりを、名前は半ば奪い取るようにして頬張った。数口で平らげると、米粒のついた指先を舐めながら、「このまま三郎に飼われるのも悪くないかな」と冗談めかした。
「ばーか」 「だよねー」
鎖で繋いで檻に入れたら、名前を自分の物にすることができるのかもしれない。でも、それは自分が思いを寄せる名前なのだろうか。自分が好きなのは、野を駆け回る獣ではなく、いつもそこで美しく咲いている花だ。鎖も檻もいらない。 ただあるがまま、その姿を一番近くで見つめられていられれば、それでいい。
「普通に戻ったら怒られるよね…?」 「盗賊にでも拐かされたことにするか?」 「えー、そんな大きな嘘ついたら引っ込みつかなくなるよ」 「そうだな……じゃ、裏山で迷ってたとか」 「裏山で迷ってたら裏々山まで行っちゃった、とか。あ、でも七松先輩が裏々山まで行ってたら、バレるよね? うーん…」
他の人間がその花を美しいと思うことを、制限する権利など誰にもない。ただ誰かが名前を摘もうというのなら、黙っている気はない。
「三郎、聞いてる?」 「ん? あぁ」 「嘘、今ぼーっとしてた」
生けた花よりも、そこにある花が美しい。
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