昼餉の時間を告げる鐘の音に重なって、たったったと足音が響く。間もなくして桃色の忍装束が食堂に飛び込んできた。
「おばちゃん! 同室の子が風邪ひいちゃったんですけど、おかゆ作ってもらえませんか?!」 「何言ってんの、あなた、朝頼んでったじゃない」
「ちゃんとできてるわよ」と竈から土鍋を上げると、くのたまは「あはは」と恥ずかしそうに頭を掻いた。
「やだ、すっかり忘れてました〜」 「うっかりさんだねぇ。あ、これ生姜湯。あったまるから、飲ませてあげてね」 「ありがとうございます」
土鍋と湯飲みの載っかった盆を受け取ると、くのたまはお礼も早々に、急ぎ足で自室へと戻っていった。あんなに急ぐなんて友達思いなのかしら、とその背中を見送りながら、おばちゃんははたと違和感を抱いた。
「あの子、あんなに背高かったかしら?」
いくら成長期とはいえ、朝から昼の間に数寸も身長が伸びるはずがない。 少し考え込んでから、あぁと一つの答えに辿り着く。
「おばちゃーん、Aランチ一つ!」 「おれ、Bランチ!!」
おばちゃんを現実に引き戻したのは、威勢の良い声だった。気づくと、食堂のカウンターには授業を終えて腹ぺこの忍たま達が群がっていた。
「はいはーい」
ご飯を茶碗によそいながら、少し背の高いくのたまのことを思い出す。
(まぁ悪いことしてるんじゃないんだし、いいわよねぇ)
土鍋のバランスを崩さないように注意を払いながら、そっと戸を開くと、部屋の中央に布団が引かれていた。名前は掛け布団に埋もれるようにして、赤い顔で眠っている。 眠っているところを起こすのも悪いが、覚めないうちに粥を食べてほしいし……と思案していると、床に盆を置く音で名前が目を覚ました。
「おかえり…」
いつもとは違う覇気のない声が気がかりだったが、潤んだ瞳を向けられーそれが熱のせいだとわかっていてもーどきりとしてしまう。名前は起き上がろうとしたが、ふらふらして上手くいかない。上半身を起こすのを手伝ってやりながら「お粥、食べられる?」と聞くと、「喉、渇いた」と枕元に置いてある竹筒を指さした。結構な汗のせいで、前髪は額に張り付き、寝衣は湿っていた。そりゃ喉も渇くだろう。 溢すのではないかと不安だったので、竹筒を持つ名前の手に自分の手を添えてやる。こくこくと喉を鳴らしながら、名前は中身を一気に飲み干した。
「ありがと」
久しぶりの水分に、名前は顔を綻ばせた。熱を出して寝込んでいると聞いたからどんなものかと思ったが、そこまで重篤なものではないらしい。ほっとすると同時に、釈然としない思いが生じる。 ーーどうしたらこの病人は気づいてくれるだろうか。 とりあえず、抱きついてみる。
「え、何、どうしたの…?」
驚いたのか力が抜けたのか、ころんと音を立てて竹筒が転がった。他人相手だからなのか、風邪のせいなのかわからないが、いつも自分が突然抱きつこうものなら手やら足やらが飛んでくるというのに、この違いは何なのだろう。 ふてくされながら、力いっぱい名前を抱き締め、その耳元に囁く。
「気付けよ馬鹿」 「さ、さぶろっ?!」
ただでさえ赤い顔が、これ以上はないだろうというくらい、更に赤味を増した。途端暴れ出した名前を解放してやり、同室のくのたまの変装を解く。といっても、いつもの雷蔵の姿であるが。
「何でいるの?! っていうか帰れ!」 「二言目にそれかよ」 「近寄らないで!」 「安心しろ。私はお前みたいに柔じゃないから、風邪なんて移らない」 「それだけじゃなくて…」
三郎に向けて手を突き出して距離を取ったまま、名前はくんくんと自分の体を嗅いだ。
「一日風呂入ってないくらい、気にすんなよ。仕方ないだろ、具合悪いんだから」 「わかってるのになんで抱きつくかなぁ! ほんと馬鹿!」 「確かにいつもより名前臭したかも」
名前はさっと枕を取って投げーーようとしたが、よろめいたので未遂に終わる。くったりとする名前を受け止めながら、今日はあまり調子に乗らないようにしよう、と心に決めた。
(こいつ、いじると全力で返してくるんだもんなぁ) 「飯、どうする? 食えそう?」 「うーん…」 「つか食え」
この様子だと、昨日の夕食をちゃんと食べられたどうかも不安だ。粥だったら多少無理をして食べさせても、変なことにはならないだろう、と思う。 片手で名前を支え、空いた手で匙を持ち粥を掬う。ふうふうと息を吹きかけ、少し冷ましてから、口元に運んでやると、名前は恥ずかしそうに口を開いた。
(気持ち悪いくらい素直だな、そんくらい辛いのか)
数口粥を食べると、名前は盆の湯飲みに気づいて「それ何?」と尋ねた。
「生姜湯だって。おばちゃんが『あったまるから』って。飲むか?」 「うん。…あのさ、いちいち手伝わなくていいよ? いくら病人でもこれくらい…」 「はいはい」
湯飲みを渡すと、確かに名前はちゃんと受け取って自分で飲んだ。
「あちっ」 「ほぉら、言わんこっちゃない」
犬のように舌を出す名前に、三郎はそれみたことかと半眼を向けた。湯飲みを取り上げ、粥と同じように息を吹きかけてやる。
「これで大丈夫か?」 「…うん」
適温になったらしく、名前はこくりと生姜湯を飲んだ。「美味しい」と呟く名前の額に手を伸ばしてみる。汗に濡れた前髪がくっついていたせいか、よく温度がわからない。
(そんなに高くはないんだろうけど)
名前の頬を両手で包み、自分の額と名前の額をくっつけてみると、若干名前のほうが熱いような気がした。 ふと名前がどんな表情をしているのかと伺い見ると、固く瞼を閉じていた。ただの条件反射なのだろうけど、見ようによっては、接吻を待つかのように見えなくもない。 ……なんだろう。 調子が狂う。
「あと一寝入りもすれば元気になるだろう」
と解放してやると、名前は「うん」と小さく頷くだけだった。 いきなり額に触れても怒らないし、額同士をくっつけても殴られないし。 いつもの意地っ張りで素直じゃない名前と接している時は、あんなに「大人しくしてくれ」と思うのに、いざこんな従順にされると萎えるものなのかと、三郎は自分の捻くれた性根を痛感した。
「同室の奴戻ってきたら、体拭いてもらえよ」 「うん」 「大人しく寝てるんだぞ」 「うん」 「私、授業行くからな」 「うん」
こんなに素直な名前なんて名前じゃない! 一刻も早くいつもの調子に戻ってもらわないと、こっちまでおかしくなってしまいそうだ。 そのためにも長居しないほうがいいだろうと、三郎が腰を上げると、名前が「ねえ」と装束の裾を掴んだ。
「なんだよ」 「…来てくれて、ありがとう」 「っ」
普段の名前だって、強情とはいえ礼儀は正しいほうだから礼はちゃんと言う。しかし、それは目を合わせてなかったり真っ赤な顔だったりと、とても「無理をして言っている感」が拭えないものだ。それはそれで可愛いのだが、こうストレートに、嬉しそうな顔をされると、あんなに素直な名前に違和感を覚えていた三郎も、心の中心がぐわっと鷲掴みにされた。
「頼むから早く戻ってくれ…」 (病人相手に変な気を起こす前に!)
そんな捨て台詞を残して、後ろ髪を引かれる思いで、三郎は部屋を後にした。
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