保健委員会では二年生になると、備品の補充や整理だけでなく、簡単な診察や治療も徐々に覚えていくことになる。 傷の消毒の仕方や包帯の巻き方などの外科的な処置は一年の頃から散々見てきたので、見たようにやれば上手くいくのだが、内科のほうはなかなかそうもいかない。 特に左近は、脈を取るのが苦手だった。
「左近まだー?」 「煩いなぁ、わかんなくなるだろ」
名前は左手と両足をつまらなさそうにバタバタとさせた。右手はといえば、左近にがっしりと握られている。
「名前、血管通ってないんじゃないの?」 「言いがかりだ、負け惜しみだー! なんだよヘッポコ左近のくせにー」 「へ、ヘッポコってなぁ…!」 「脈の取れない保健委員がヘッポコがじゃなくて、なんなんですかー」 「うっ」 「しかも、ろじと久作としろちゃんには恥ずかしくて頼めないからって、わざわざ実験台になってあげてるのに、そんなこと言っちゃうんだ? いいんだよー、私はこの事みーんなにバラしちゃっても」 「うぅっ…」
左近には返す言葉もなかった。全て名前の言う通りだったからである。 新野先生のお手本だけでなく、伊作にもコーちゃんまで使って使って説明してもらったのに、何が悪いのか、左近は上手く脈を取ることができなかった。なんとか手首の律動を感じる部分を見つけられたとしても、かなり時間がかかってしまう。これでは急病人の応急手当には間に合わない。 ただでさえ日頃から『不運』『不運』と馬鹿にされているので(もちろん遊びの範疇ではあるが)、同じ二年生にはこれ以上情けない姿は見せたくなかった。 という訳で、白羽の矢が立ったのは、くのいち教室の名前だったのだが。 左近は早くも人選ミスだったのではないかと、深く後悔していた。
「ねーまだー?」 「食券一枚もらってるんだから、少しは黙って付き合えよ」 「そうだけど、こんなに時間かかるなんて思わなかったんだもん」
名前は唇を尖らせた。左近だって、もっと手早く終わらせられると思っていた。皮が薄そうだから、てっきり女の子のほうが脈が取りやすいのかと思ったが、そういうものでもないらしい。こうなると、どこか自分がおかしいのかと思ってしまう。 名前の手を放すと、左近は自分の掌をまじまじと触ってみた。手の皮が厚いから、感度が鈍いのだろうか。苦無や手裏剣の練習でできたたこが若干あるくらいで、どちらかといえばふにふにとした手触りである。 そうやって手を触りながら何が悪いのかと思案していると、いつのまにやら名前も「私もー」と左近の手をベタベタと触り始めた。 自分の手よりも一層柔らかい名前の手に、不覚にも一瞬どきりとしてしまう。
「左近、手おっきい! 身長そんなに変わんないのにズルいー」 「別に手の大きさなんてどうだっていいだろ」 「つかみ取りの時に大きいほうが有利じゃん」 「まあ、そうだけど…。ねぇ、僕の手、なんかおかしいところないか?」 「おかしいところ? んー、別にないっぽいけど」
と名前は、「触ってるのわかる?」と指に一本一本触れていく。名前の細く小さな指の感触がしっかりと伝わってきた。右左の手の触診をしてみたが、神経がどうかしているとかそういう訳ではなさそうだ。
「うーん、何でだ…?」 「触られてるのがわかるのと、触ってるのがわかるのって、違うんじゃないかな?」 「あ、それもそうかも」
今問題なのは、触ってるのがわからないことである。しかし、だからといってどうしたものか。 これ以上名前を付き合わせるのも悪いし、これはもう一度委員長に相談してみようと、左近の考えが落ち着いた時。
「左近、これわかる?」
名前が左近の腕を掴んだかと思うと、いつの間にやら大きくはだけさせ、前掛けだけになった胸元へ、その手を導いた。
「※&%$#@っ!!」
左近の口から、言語に置き換えられない叫び声があがった。 何故脈を取れないのか心底不思議になるほど、左近の手には鮮明に名前の胸の感触があった。こっそり見た春画のようなたわわな乳房ではないが、なだらかな丘陵は名前の手よりもずっとずっと柔らかい。ぽわんというかぽにょんというか。もっと手の感覚を研ぎ澄ますと、真ん中の辺りにちょんと固いものが当たるような気がした。
ん…?
「名前! お、おおまお前、さらしはっ?!」 「うん? してないよ?」 「しろよぉおぉおぉお!!」 「だって私の小さいし」 「お願いです頼みますからしてください本当」
父上、母上。 左近は今日、女子のほぼ生乳(前掛け越し)を、触らされてしまいました。 もうお婿に行けません。
「で、わかった? 心臓の音」 「へっ?」 「ドキドキしてるの、わかる?」 「えっ? あ、うん」 「じゃあ、手のせいじゃないんじゃないかなー」
名前は左近の手を放した。気が動転してしまった左近はそれに気づかず、名前の胸に触ったまま、硬直していた。
「左近、いつまでおっぱい触ってるの?」 「う、うわあぁああああああっ!!」
やっと意識が返ってきて、左近は自分の状況を気づいた。部屋でゴキブリが出た時よりも素早く後ずさって、名前と距離を取る。勢い余って壁に思いきり頭を打ちつけたが、痛いのか痛くないのかよくわからない。ダメだ、混乱してる。
「力強く触りすぎなんじゃないかな? もう一回やってみようよ」 「な、なんでだよっ! なんだよお前いきなり…そんなっ…!!」 「いきなりって…脈取る練習に付き合えって言ったのは、そっちでしょう? 忘れちゃったの?」 「え、脈?」
「ほら」と名前は白い手首を差し出した。ああそうだった、今は脈取り秘密特訓中だったんだ。手に異常がないとわかったんだから、頑張ってちゃんとできるようにしないと。 ともすれば奇声を上げて辺りをのたうち回りたくなる浮ついた気持ちを抑えるように、左近はパンと頬を叩いた。(若い)シナ先生や北石さんのような大人の女性ならともかく、同い年の女子の胸がなんだ。しかも、こんなちんちくりん名前の胸なんて! こんなの触ったうちに勘定したら、世のおっぱいに失礼だ!
「左近、手震えてるよ?」 「う、煩い!」
あんな胸、僕はおっぱいだって認めないぞ! あんなのちっぱいだ! ただの胸部じゃないか! あんなぽわんぽわん! すごい柔らかかったぞ! あれは干したての布団…うーん、豆腐? いやもっとかな。あ、あの固かったの、ちち乳首、だよね? うわ触っちゃった触っちゃったーって僕は何を考えてるんだー!! 湧き起こる劣情と戦っていると、指先にどくんどくんという名前の鼓動を感じた。早い。今まで最短記録だ。
「あ! あった! あったよ、名前!」 「お、早いじゃんー。おめでとう」 「あれ、なんか名前、さっきより脈速い…」 「んー?」
名前はぽりぽりと頭を掻いた。
「左近におっぱい触られてどきどきしちゃったのかなー」
左近は自分の中でぼんっ! と何かが爆発する音を聞いた。かぁーっと一気に顔と、下半身へ血液が集まるのがわかった。 異常に気づいた名前が、心配そうに左近の顔をのぞきこんできた。
「左近? どったの?」 「何も言うなぁ…」 「顔赤いよ、具合悪いの?」 「な、何でもないから」
急いで名前の手を放し、「今日はありがとう」と左近はその場を立ち去ろうとした。が、上手く立ち上がれない。 男の子は色々とデリケートなのである。
「ねえ、なんで左近、そんなくの字みたいになってるの?」 「うっせー!!」
それ以来、左近は他人の脈を取る度にこの日のことを思い出し、体が反応してしまうとかそうでないとか。
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