(今日は新刊が届く日だったけ)
図書室の貸し出し当番に、未返却リストの確認、それに新刊図書の確認。 今日の委員会活動も、なかなか忙しそうだ。 宿題も出ていることだし、何か効率的にこなす方法はないかと思いを巡らせていると、教室から図書室までの道のりはあっという間だった。
「あれ、名前」
図書室と書かれた看板の随分下のほうで、ちょこんと体育座りをしていたのは、同じ五年のくのたまの名前だった。
「どうしたの、こんなところで。あー、装束汚れちゃってるよ」
雷蔵は名前を立たせ、ぱんぱんと装束の汚れを払ってやった。一番汚れているのは当然臀部であったが、さすがにそこには触れられない。雷蔵が世話を焼いている様子といい、名前の小柄な体躯といい、傍から見るととても同級生には見えないだろう。 当の本人はそんなことなどお構いなしに「雷蔵、待ってた」と短く答えた。
「これ、シナ先生のおつかいしたら貰ったの」
名前の懐から、緋色の紐で結ばれた小さな包みが出てきた。紐を解くと、中に色とりどりの金平糖が見えた。ふわりと香る甘い匂いに、思わず雷蔵も顔がほころぶ。
「よかったね、名前」
名前は甘い物には目がない。さぞや嬉しくて、誰かに自慢したくて仕方なかったんだろうなと思っていると、名前の細い指が「どれにしようかな」と金平糖の上を彷徨った。「な」で桃色の金平糖を指さしたかと思うと、それをつまむ。
「あーん」 「えぇ?!」
雷蔵は一瞬にして、自分の顔が赤くなるのを感じた。名前のご褒美なのだから自分なんかが貰うのは…という遠慮と、断って名前の好意を無碍にするのも悪いという気持ちが、ほんの少しの間に堂々巡りした。不破雷蔵が不破雷蔵たる、迷い癖の発動である。 しかし貰うか否かという選択以上に、廊下で、女子に、「あーん」をしてもらうのはいかがなものか、ということが重要な問題だった。
「しゃがんで。届かない」 「あ、ごめん。…じゃなくて!」
反射的にかがんでしまった雷蔵に、名前はぽいとその口へ金平糖を放り込んだ。危うく飲み込みそうになるところを堪える。とげとげした形が、丸く溶けていくのを感じながら、「ありがとう」と名前の頭に手を置く。
「美味しい?」 「うん、とっても甘い」
答えると、名前は青い金平糖を食べて「本当だ」と、嬉しそうに呟いた。
「あ、図書室入るなら、それ食べてからにしなよ。中在家先輩に見つかったら大変だから。袋も隠しておいたほうがいいかも」
図書室は飲食禁止である。持ち込みもあまり喜ばれないだろう。そう思って忠告すると、名前は「ううん」と首を横に振った。
「雷蔵に会えたからもういい」
名前は「ばいばい」と手を振って、廊下を駆けていった。
「三郎、どうしたのその手」
夕餉の時間、食堂で向かいに座った三郎の手が赤く腫れていた。よく見ると歯形のように見えなくもない。
「噛まれたんだよ」 「噛まれたって…生物委員会がまた何か逃がしたの?」 「またってどういう意味だよ!」
苦虫を噛み潰したような表情の三郎の横で、八左ヱ門が声を荒げた。ヘビやらカメ虫やら、生物委員の元から逃亡を試みる生物達は数知れない。今年になってもう何回だっけとカウントしようとして、両手の指では足りないことに気づく。
「お前さ、今日名前に会った?」 「会ったけど…」
雷蔵の答えを聞くなり、「何だよ同じ顔してるのにこの扱いの違いは!」と三郎は何故か八左ヱ門に食ってかかった。
「あれはお前も悪いと思う」と言う八左ヱ門を見ていると、三郎と名前の間で何かあったらしい。聞いてみると「いやさ」と八左ヱ門が説明を始めた。
「教室の掃除してたら、名前が来たんだよ。で、『雷蔵どこ?』って言うから、確か委員会のはずだって教えたんだ。その時に通りかかった三郎が、名前が手になんか持ってるのに気づいて、それを取りあげたんだよ」 「何持ってんのかなーと思って、ちょっと拝借しただけだってのに」
『返して』とも『やめて』とも言わず、名前はいきなり三郎の手に噛みついた、らしい。それから三郎が驚いて落とした包みを拾い上げると、八左ヱ門に礼も言わず、図書室へ向かったという。
「名前が? それ、三郎の変装じゃなくて?」 「だから俺は被害者なんだって!」 「あ、そっか」
思わず頓珍漢なことを口走ってしまうほど、二人の口から聞く名前と、雷蔵の知る名前には隔たりがあった。
「確かに名前って変わってるよな、あんまり喋らないし、何考えてんのかよくわかんないし。 あ、でもおれ前に威嚇されたことあったな」 「威嚇?」
名前が、威嚇…。
「うん。中庭で昼寝してる時に声かけたら、猫みたいに、こう」
八左ヱ門は四肢を強張らせ、「しゃー」とやってみせた。それが本当だと言うなら、猫みたいに、というより猫そのものだ。
「喜怒哀楽の『怒』以外がないんだよ、あいつ」
依然不満そうな三郎が呟くと、「そうそう、そんな感じ」と八左ヱ門が相づちを打った。
「大きさだけなら小動物だけど、中身が猛獣だぜ。生物委員で面倒見ろよ」 「うちはもう手一杯ですー」 「あ、今いるのでも面倒見きれてないもんな」 「うるさい!」
二人の話す名前が、益々雷蔵の知る名前から遠ざかっていくのを感じていると、「お、いたいた」と今日も今日とて盆に豆腐定食を載せた兵助が、雷蔵の隣へ腰を下ろした。
「雷蔵〜見たぞ〜」
座るなり、兵助にしては珍しく悪戯っぽい表情で雷蔵の脇を突いてきた。
「見たって…」 「図書室の前で、名前といたろ?」
「名前と?!」と声をハモらせた三郎と八左ヱ門がこちらを見た。
「そうだ! 名前、お前に何の用だったんだよ?!」 「噛まれたか?! 吠えられたか?! 引っ掻かれたか?!」 「ちょっと、二人とも落ち着いてよ…」
必死で二人を宥める雷蔵を見ながら、兵助は「ふふふ」と嫌な笑みを浮かべながら、冷や奴に醤油を垂らしている。
「雷蔵、名前に『あーん』されたんだよなー」
「よく見えなかったけど、菓子かなんかだろ?」という兵助の付け足しは、三郎と八左ヱ門の驚きの声にかき消された。
「へ、兵助!」 「名前って、ちゃんと嬉しそうな顔するのな。俺、初めて見たよ。 他人の恋路にどうこう言う気はないけど、人目は気にしたほうがいいと思うな。面白かったけど」 「そんなんじゃなくて、あれは」 「いただきまーす。…あぁ、今日も豆腐が旨い!」
兵助の耳に、雷蔵の弁明は届いていないようだった。げんなりとした気分で、再びおかずに手を伸ばそうとすると、目の前の三郎と目があった。 ……三郎が半眼の時は、大抵ロクなことを考えていない。
「ちゃんと躾してくれよな、飼育係」 「なっ…」
言葉に窮していると、「そういえば」と三郎が他の二人と新たな話題で盛り上がり始めた。
(飼育係って)
半ばヤケになりながら、食事を進める。 本当の名前を知りもしないで、皆よくもまあ好き勝手に言ってくれるものだ。挙げ句の果てに、猛獣扱いとは。
(そういえば、名前が他の誰かと一緒にいるところってあんまり見たことないな)
棟が違うのでくのいち教室ではどうだかわからないが、少なくとも放課後や休み時間に、忍たま学舎で他の忍たまと一緒にいるところは目撃したことがない。 自分に信頼を寄せてくれるのは嬉しい限りだが、他の人とももっと交流すべきなのではないだろうか。本当の名前を知ってもらえれば、きっと皆と上手くできるはずだ。
(どうすればいいかなぁ…)
とりあえずは、ここの五年生ズ(+勘右衛門)と顔を合わせる機会でも作ってみようか。しかし、改めた場を設けると名前が身構えてしまうかもしれない。ここは学園長の思いつきで、何か良いイベントでもあればいいのだが……。しかし、あれは思いつきなので、期待をするだけ無駄だろう。
そこではっとする。これじゃ三郎の言うとおり飼育係――とまではいかないが、まるで保護者のようではないか。ただ名前が懐いてくれるというだけで、自分が彼女の対人関係にそこまで首を突っ込んでしまっていいのだろうか。
「うーん…」 「雷蔵、唐揚げもーっらい!」 「あ、八!」
雷蔵の皿から唐揚げが消え、八左ヱ門の口への消えた。「忍者たるもの、いつでも隙を見せてはいけませーん」と八左ヱ門は誇らしげに飯をかき込んだ。 例えばここに名前がいたら、どうなるんだろう。おかずの取り合い、他愛のない会話、今日の授業のこと。名前はどんな顔で、皆に話すのだろうか。 もっと色んな名前を見てみたい。雷蔵はそう思った。 例えば今はとげとげの金平糖かもしれないけど、いつかその棘が溶けて、甘く丸い球体になれるのではないか。 そんなことを考えていると、食堂の入り口に名前の姿が見えた。その瞬間、雷蔵にあるまじきことに、「名前」と気づいた時には声をかけていた。
「雷蔵…?」 「その、よかったら一緒に食べない?」
「席も空いてるし」と指さすと、名前は一瞬考えて込んで「うん」とそこへ腰を下ろした。 痛い目に遭った八左ヱ門と三郎が、警戒の色を強くしたのがわかった。
(大丈夫、話せばちゃんとわかるはず)
そう思い、雷蔵は「名前はB定食にしたんだ」と何とか会話の糸口を探す。
「うん。でもA定食の筍の煮付けも食べたかった」 「じゃあ、俺の食うか? 俺、そんなに好きじゃないんだよなー」 「いいの…?」 「うん」
八左ヱ門が自分の小鉢から筍を数切れ、名前の皿へと盛った。名前はしばらく筍と八左ヱ門の顔を見比べていたが、筍を頬張ると、
「竹谷、好き」
ぽそりと呟いた。途端、「えぇっ!」と八左ヱ門は狼狽えたように叫ぶと共に、顔を真っ赤にした。
「な、なんだよ、お前! 態度変わりすぎだぞ」 「よし、俺のもやろう」
更に三郎が筍を載せた。名前は目をキラキラと輝かせ、リスのように口いっぱいに筍をもぐもぐとしている。
「鉢屋も好き」 (あれ…これって…)
困惑している雷蔵の横で、兵助が「豆腐は体に良いんだぞ」とほんの少しだけ名前に豆腐を分けた。
「豆腐、好き。豆腐くれた久々知も好き」
さっきから「好き」を連発している名前を見ながら、三郎が再び半眼になった。あぁ、嫌な予感がする。
「雷蔵さー、名前に初めて会った時、何かあげたんじゃないのか?」 「え? そういえば……中在家先輩が焼いてくれたボーロをあげたような……」
そこまで言って雷蔵ははっとした。硬直している雷蔵を尻目に、三郎は「なぁ」と名前に声を掛ける。
「お前、雷蔵好きか?」 「うん」 「何で?」 「ボーロくれたから。美味しいものくれる人は、良い人」
ガーンという文字が石になって、雷蔵の頭に直撃したようだった。名前が自分に好感を持ってくれていたのは、そんな理由だったのか。明らかになった真相に、雷蔵の心は半ば折れかけていた。
「だから、皆も今好きになった」 「名前…」
幸せそうに筍を食べる名前を、雷蔵は複雑な心境で見つめていた。自分の思惑通り、名前が皆と打ち解けたことを喜ぶべきか。それとも、ボーロをあげたから名前に好感を持たれていたことに落胆するべきか。 前者はとりあえず喜んでおくとして、後者は大きな問題だ。てっきり名前が自分に好意を持っていると思い、自分が架け橋になってもっと皆と仲良くしてもらいたいだなんて、大層なことを考えてしまった。勘違いも甚だしい。名前からすれば、雷蔵なんてただの『ボーロをくれた良い人』なのに! 面白がっておかずをあげる級友と、それと心底嬉しそうに食べる名前を見ながら、雷蔵は『お願いだから、食べ物をもらっても知らない人についてっちゃダメだよ』と願った。
美味しいものをくれる人は好き。
だけど、美味しいものをあげたくなる人は、もっともっと好き。
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