「これが任務だったら、どうなってたと思う?」
赤く腫れた私の手を取って、若いシナ先生が問うた。その声は氷のように冷たく、厳しい。
「命を、落としていたと思います」 「そうね。授業だから次があるけれど、任務に次はないの。心得ておきなさい」
そう言うと、先生の表情からさっと険しさが消えた。そっと私の手の甲を撫でて、心配そうに「早く保健室に行ってらっしゃい」と促してくれる。
「はい」
実技を続けるくのたま達に恨めしげな視線を送り、私は一人保健室へと向かった。
「捻っただけだから、湿布しておけば数日でよくなりますよ」と、新野先生はパパッと包帯を巻いてくれた。その慣れた手つきは、まるで手妻のようだった。 綺麗に巻かれた包帯に触れながら、私は嘆息した。保健室から戻った後は、実技の授業は見学。その後の座学も、聞き手を負傷してしまったものだから、蚯蚓がのたくったような字しか書けず、自分の字ながら見直しても判読は難解だった。 授業中に怪我を負ってしまったこと、先生に心配させてしまったこと、自分がこうやっている間にも同級生は成長していること…。 色んな要因が重なって、言い表せないモヤモヤしたものが胸に広がる。 う〜ん…こんなよくわからない感情に振り回されてちゃ駄目だ! とりあえず、今できることを頑張って、みんなに置いてかれないようにしないと! 本なら読めるだろうと、私は図書館へ向かおうと方向転換して数歩進んだところで。
「っ?!」
ずぼっ。 どんっ。
私の視界は暗闇に染まった。 思いきり打ちつけたお尻を撫でながら、上を見上げる。ここ一週間で一番の深さじゃないだろうか。何故よりによってこんな日に、あいつはこんな大層な穴なんて掘るのだろう!
「おやまぁ」
頭上から腹が立つくらい呑気な声がしたかと思うと、案の定喜八郎がひょっこりと私の落ちた深い深い穴をのぞき込んでいた。
「名前が落っこちてる」
喜八郎はあろうことか他人事のように、そう呟いた。
「今週に入って……ひぃ、ふぅ」 「数えてないで助けなさいよ!」 「聞こえない」
私が穴に落ちた回数を指折り数えるのをやめたかと思うと、喜八郎は壁を滑るように穴に飛び込んできた。砂埃を舞上げながら、喜八郎が私の目の前にやってくる。
「なんであんたまでここに来てんの?」 「さっきなんて言ったの?」 「…もういい!」
いつものことながら、こいつとは会話が噛み合わない。 泣き面に蜂。弱り目に祟り目。踏んだり蹴ったり。 詰まるところ、不運の重ね技を意味する言葉がいくつも頭に浮かんだ。 もはや苛々を通り越して、呆れてしまう。 ーーなんにせよ、今日は厄日だ。
「いつも目印ちゃんと置いてって言ってるでしょう」 「置いてたよ。なのに、保健委員と名前はいつも気づかない」
不運委員会と名前を並べられて、私は思わず「うぅっ」と唸ってしまう。私、そんな不幸キャラじゃないと思うんだけど。第一、委員会だって保健委員じゃないし。あ、でも今日の怪我も不運って言ったら不運かな? いやでもこれは単なるうっかりのような気もするし。うーん…。
私の葛藤など露知らず様子で、喜八郎はきょとんとした表情―っていっても、喜八郎はたいがいそんな顔をしているけど―をしていた。黙ってれば端正な顔は、泥で汚れていた。
「ちょっとじっとしてて」
懐から手ぬぐいを取り出し、泥を拭ってやる。泥は結構な力でごしごしとやらないと、泥は落ちてくれなかった。普通そんなことされたら嫌がりそうなものだが、喜八郎は人形のようにされるがままだ。ついでに髪についた土汚れを払ってやる。うん、綺麗になった。見てくれだけは。 と、今まで意思などないようにされるがままされていた喜八郎が、突然私の包帯に巻かれた手を掴んだ。
「どうしたの?」
喜八郎が真っ直ぐ私を見据えた。猫のような大きな瞳。読めない表情。 こんな喜八郎だけど、成績はまあまあなんだよなぁ。何より『四年い組の穴掘り小僧』と学園中に知られているほど、一芸に秀でているし。後輩の子は、天才トラパーとか言ってたっけ。 それに比べて私は……。
「名前?」
何もないのは、よくわかってる。だから努力だけは人一倍頑張ってきたつもり。 だけど怪我はするし、穴には落ちるし、本当はくのいちなんて向いてないんじゃないだろうか。
「怪我、痛い?」
包帯の上に、私より一回り大きい喜八郎の掌が重ねられた。 あれ、なんでだろう。喜八郎の顔が滲んで見えない。 まばたきをすると、ぼたりと雫が落ちて袴の桃色を濃くした。それで、私は自分が泣いているのだと気づく。 手を捻った時だって、痛かった。けど私は泣かなかった。 今はどこが痛いんだろう。
「見ないでよ、馬鹿っ」
拭っても拭っても涙は止まらない。 馬鹿はどちらだ。なんでこんなタイミングで泣き出すんだ。しかも喜八郎の前で。こんな人の弱さとかに、無関係そうな奴の前で。 だからこそ、私は喜八郎が羨ましいんだ。他の人にない才能、何にも振り回されない心。私など及ばないくらい、立派な忍になれる素質を持ち合わせている。
「うん。見てない」
乾いた土の匂いが私を包み込んだ。一瞬、何が起こったのかわからなかった。
「見てないよ」
耳元で喜八郎の声がして、私は抱きしめられているのだとわかった。とんとんと、母親が赤ん坊を寝かしつけるように背中を叩かれる。その律動に私の最後の理性は、崩れ去ってしまう。 ――悔しい。情けない。もっと、もっと強くなりたい。 そんな感情があふれ出す。
「っ…」
嗚咽が泣きじゃくる声へと変わるのに、そう時間はかからなかった。
二人で穴から出た時には、既に日が暮れかけていた。 結構な時間泣いていたんだと思うと、途端に恥ずかしさがこみ上げてきた。しかも喜八郎に抱きしめられて! 隣を歩く喜八郎は、相変わらず何を考えているのかわからない。
「喜八郎」 「何?」 「あんた、案外いいとこあるんだね。見直した」 「何が?」 「何がって…」
言い淀む私に、喜八郎は小首を傾げた。
「だって僕は何も見てない」
一瞬でもこいつに優しさとか感じた私が馬鹿だったのだろうか。あれって、単なる気まぐれ? そう思わざるを得ないような、けろりとした喜八郎。 もう何を言っても無駄だ。「はいはい、そうでしたね」と話題を切り上げる。
「蛸壺、いつでも使っていいから」 「え?」
喜八郎の言う意味がわからず、聞き返す。けれど、喜八郎はそれ以上答えようとはしなかった。 えーっと……。 それは、泣きたくなったら穴に落ちればいいよ、ってことなのだろうか。
「…ありがと」
よくわからなかったけど、とりあえずお礼を言うと、どことなく喜八郎が嬉しそうな顔をしたように見えたので、多分間違ってはいないんだと思う。
非定型温情
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