スーパーの自動ドアが開き、舞い込んできた切り裂くような冷たい風を受けながら、こんな日に牛乳一本のために母親にパシられる自分はもしかして世界で一番不幸かもしれないと名前は肩をすくめた。寒い。しかも牛乳が冷たい。踏んだり蹴ったりだ。なんだよ地球温暖化じゃないのかよー全然寒いじゃんー。と文句が止まらないけれど、いったいそれは誰に向けて言えばいいんだろう。環境保全うんちゃら的な人達? いやいや、オゾン層破壊してんのって結局ワレワレ一般市民だから、これもある意味自業自得なのだろう。あー寒い。
肉まんでも買おうかと、横目でコンビニをのぞく。寒い上に小腹が減ったって本当空しい。パシられてあげたんだ、100円ちょっと使ったって怒られないでしょう。ベルギーチョコまん? 美味しい、の? っていうか絶対喉渇くよね。豚角煮まん? おっいいじゃん。…ん、140円は高いぞ。ダメ、却下。 それでもまだ、中あったかそうだな立ち読みでもしよっかなと亀のような歩みでコンビニの前を進んでいると、雑誌のコーナーで綺麗なキャラメル色を見た。キャラメル色のふわふわとウエーブがかった天使みたいな髪の毛。和毛っていうのだろうか、触ったら気持ち良さそう。
そんなことを思っていると、キャラメル色の頭が動き髪の毛がさらっと流れ、色素の薄い草色の瞳がガラス越しこちらを見た。
「げっ」
漫画みたいに、声に出してしまう。キャラメル色の、天使の和毛。そんなもの持った186cmが、日本に、二人も三人もいるワケがない。
コート欲しいなァ、去年のちょっとキツいんだもんなァ。でもこの間服買ってもらったばっかだし無理だろうなと思いながら、しっかり雑誌をチェックしてる自分は空しい。オシャレして遊びに行くトコも、遊びに行くヒトもいないのに。ハァと無意識にため息をついてしまう。冬は嫌だ。冬生まれだから今まで冬が一番好きだったけど、今年の冬はやだ。心まで寒い冬は、やだ。
ふと視線を感じる。あーあーまたかよ。こんなナリ(デカいし髪黒じゃないし目の色違うし)だから、他人の興味を惹いてしまうのは自分でもよくわかってる。でも、物珍しそうな顔で見られていい気はしない。っていうか、みんなが金髪とか茶髪に染めてるこのご時世、利央の髪色なんて普通の分類だと思う。 雑誌で顔を隠して気づかないフリを続けても、まだ見られてる感じがした。あんまりこういうことはしたくないけど、しかたない。利央は顔をあげて、キッと視線のするほうを睨んだ。
「あ」
突然声を出したので、隣で棚を整理していた店員が何事かと利央を見た。 ガラスの向こうの、コートとマフラーに埋もれてペンギンみたいに立っている人影も同じように口を開いている。多分あの形は……「げ」だ。「げ」って! ペンギンは利央と目が合うなり、駆け出した。
「ちょっと!」
利央はコンビニを飛び出した。
一歩の大きさが違う。小さな背中にすぐ追いついた。袖の先からわずかにのぞく指先は赤い。その手を掴んで無理矢理引き止めようと手を伸ばしかける。が、その手を掴む勇気は、もうない。
拒まれるのは、もう、ヤダ。
「名前サン」
拒まないで。 否定しないで。 見なかったことにしないで。 聞かなかったことにしないで。 なかったことにしないで。
「逃げないで――」
人気のない公園のベンチに腰掛けた利央は、冬休みに入る前よりもどこか大人びて見えた。楽しい、嬉しい、悲しい、ムカツク。利央の表情を構成しているのはその四要素だけで、だから子供っぽいんだと思っていたのに、今日はそれにない顔をしている。寂しさとか、憂鬱とか。天使には無関係なハズの、感情。 利央は天使じゃなくて一人の男の子なんだと、傷ついたような表情を見ながら実感している自分が嫌になる。 無理にでも笑おうと思ったのに、顔の筋肉は寒さで強張り、思い通りに動いてくれなかった。どんな顔をしているのか自分でもわからなくて少し不安になる。
「はい」
差し出された缶を見るなり、利央の眉に皺が寄った。
「なんで、オレ、コーンポタージュなんスか?」 「だって寒いじゃん」 「そーじゃなくて」 「ココアがよかった?」
とうとう利央は唇を尖らせた。「こっちがいー」と差し出されたのと反対側の手から、ホットコーヒーをひったくる。
「ブラックだよ」 「知ってます」
しれっと返事をして、プルトップを開けコーヒーを口に運んだのに、利央は「ぐげェ」と小さく呻きを漏らした。
「なにしてんの? 変える?」 「いいのっ」
なにムキになってるんだろう。名前は変なのと思いながら、コーンの粒が残らないようによく缶を回してからコーンポタージュを飲んだ。喉を熱い液体が流れていくのがわかる。「熱っ」小さく漏らすと、隣の利央がこちらを見た。それだけの動作なのに、肩がぶつかりそうになる。二人掛けとはいえ、ゆったりしたベンチだと思ったのに。中身がいくら子供のようでも、186cmはやっぱりデカイ。
缶を啜る音だけが、耳に響く。寒空に晒された鼻が痛いほどに冷え切っていた。「逃げないで」そんなこと言って呼び止めたくせに、利央は何も言わない。自分だって、逃げてんじゃん。他人のことは言えないので、名前も黙ってコーンポタージュを飲むしかない。
「この間の」
中身も缶もすっかり冷え切ってしまった頃、利央はやっと口を開いた。
「ちゃんと聞こえましたよね?」
まだ口の中に苦味が残っている。名前サンがなんでこんなもの好き好んで飲むのか、利央にはわからなかった。 名前サンは「うん」と自分の足元を見ながら小さく頷いた。
「ちゃんと聞こえたのに、ちゃんと返事してくれないんだァ」
嫌味っぽく、バカみたいに、子供みたいに、言った。
オレはバカだから気なんか遣わなくていい、名前サンがヤだったらヤダって言えばいい。もうこんな宙ぶらりんの、どこに行くのか、どこに行きたいのかもわかんないのはヤダ。
「オレ、名前サンのことすき」
早くこの想いに終止符を打って。
ただ、そう願う。
「あたしも」
利央のこと好きだよ。
名前サンは静かに言う。利央は顔を上げたが、それで終わりではなかった。
「でも、それは恋じゃない」
泣かない。それだけは決めてた。オレは子供じゃない、そうわかって欲しかったから。それなのに、残酷な現実は利央の決意を打ち砕く。涙すらも温かい、冬の午後。利央は静かに、掌で顔を覆った。「利央」名前サンの声が、利央の心臓を抉る。
「泣くなよ、男の子」 「そん、な、こと…思って、ない、クセに」 「…ごめん」 「謝ん、ないでっ…オレ、スゲェ、みじ、めになるっ」
嗚咽交じりでそう言ってるのが、もう惨め以外のなんでもない。名前サンの小さな手が、利央の背中をそっと撫でる。
好きでもない男に触んなよ。あんたが本当にこうしたかったのはオレじゃないだろ。同情すんな。自分だって傷ついてるクセに辛いくクセに悲しいクセに悔しいクセになんでもなかったみたいな顔すんな。一年生まれたの先なだけだろ、年上面すんなよ。悲しかったら泣けよ、痛かったら喚けよ。
抑えきれない感情が利央の中を駆け抜けた。けれど、一つも言葉にすることはできなかった。 他人の痛みを受け入れられるほどの余裕も、同情だとわかりきった優しさを跳ね除ける強さも、利央にはない。
わっと泣き出した利央を見て、揺らいでいた名前の心は少しずつ落ち着いていた。他の人が感情を露にしているのを見ると、だんだん冷めてしまう。貰い泣きができる、素直な子がうらやましかった。利央が泣けば泣くほど、名前は自分が嫌になった。枯れた涙。和さんのためなら、あんなに泣けたのに。
「泣くなよ、男の子」
気まずさを打ち消すように冗談っぽく言ってみたが「そん、な、こと…思って、ない、クセに」と一蹴された。
「…ごめん」 「謝ん、ないでっ…オレ、スゲェ、みじ、めになるっ」
何を言っても、利央を傷つけるだけだった。どうすればいいのかわからなくて、利央の背中を撫でた。怒られるかもしれないと思ったけど、利央はそうしなかった。 小さく震える、大きな肩。少しずつ大きくなる、利央の泣き声。あの時すぐに返事をしていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。ううん、どうせこうなる運命だったんだ。運命? ははっ、なに運命って? 和さんだっていつか振り向いてくれるかもしれないって、ありもしない未来に向けて無駄に頑張ってた人が、運命ですか?
努力すれば報われるとかほざいてる馬鹿出て来い。責任者呼べ責任者。なんでみんな報われないんだ。どうして好きとか嫌いだとかそんな些細なことすら満足にできないんだ。ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな。
込み上げるのは広いだけの理不尽な世界への怒りだけで、やっぱり名前は泣けない。
「オレ」
沈黙を破ったのはやはり利央だった。目が赤く腫れているのがわかる。
「好きのカタチが、変わるように、頑張ってみる」 「え?」 「名前サン見ても、キスしたいとかぎゅってしたいとかもっとすごいことしたいとか考えない『好き』になるように、頑張る」
困らせようと思って半ばヤケでちょっと下品なことを言ってみたけど、名前サンには全然通用しなかった。「すごいことって?」悪戯っぽく、顔をのぞきこんでくる名前サン。
「あ…や、えっと…」
むしろ困らされたのはこっちだ。真っ赤になってどきまぎする利央を見ながら、名前は「いいね、それ」とやっと柔らかな表情を浮かべた。
「あたしも、頑張ってみよっかな」
名前サンは笑う。だけど、それはやっぱり泣いているようにしか見えなかった。
右折禁止 (みぎにすすめなくても、 いつかきっと もくてきちへたどりつけるさ)
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