久しぶりに訪れる京極堂は、いつもと変わりがなかった。 「こんにちは」 挨拶ならば、普通にできるようになった。ああ君か、と聞き慣れた台詞で中禅寺が顔を上げる。本を閉じる時に、『近代文藝』と云う表紙が見えた。 「あっ」 心臓が早くなった。今月号には、名前の詩が載っている。ペンネームを使っているからわかる筈もないだろうが、妙に面映い。 「どうしたんだい?」 「あ、いえ…関口先生の新作が載っていたな、と思って」 名前は咄嗟にそう云った。 「ちょうどそれを読んでいたところだよ。まあ、彼らしくはあるね」 褒めているのか貶しているのかよくわからなかった。しかし、『彼らしい』というのには同意だった。中禅寺は暫く関口の作品について話していたが、気が付いたら関口巽自身の人となりについての話になっていた。 中禅寺は饒舌であり、比喩や揶揄や皮肉なども好んで使ったが、その言葉で傷付いたことはなかった。他の人と何が違うのか、はっきりとはわからなかった。遠い世界の住人であることには変わりなかったが、名前は少なからずこの古書鬚に好感を持ち始めていた。
話に切りがついたところで、名前は借りていた本を返そうとした。しかし、名前が口を開く前に、 「そう云えば君の嗜好に合いそうなのが入ってきたんだ、確か…」 中禅寺は腰を上げて、幾つかの棚を行ったり来たりした。 「ああ、此れだ」 今にも表紙が取れそうな年季の入った本だった。タイトルも作者も掠れて読めない。 「保存状態は最悪なんだが、中身には関係がないからね。よかったら読んでみるといい」 「は、はい」 名前は其れを受け取って、何頁かペラペラと捲ってみた。旧仮名遣いだが、読めないことはない。何より、内容が興味を惹いた。 手持ちで足りるか確認しようとした時だった。
ぐらりと、 地面が揺れた。
「えっ…」
地震だ。しかもかなり大きい。 柱がギシギシと不気味な音を立てる。 棚という棚から、滝のように本が降り注いでくる。
「っ…!」 名前は頭に手を当てて、本の襲撃を免れようとした。しかし、その必要はなかった。 「随分と長いな」 そう呟いて、中禅寺は名前を覆うように抱きしめた。結果、中禅寺の胸に顔を埋めるような形になる。名前は一瞬にして頭の中が真っ白になった。 「う、あ、え、ああっ、えぇっ」 「厭だろうけど、我慢してくれ。客に怪我させる訳にはいかないんだ」 「は、ぃ…」
ドクンドクンドクン。
心臓が壊れてしまったみたいだ。
違う。
壊 れ た の は 心 臓 だ け じ ゃ な い
揺れているのはこの世界なのだろうか。 自分だけが揺れているのではないだろうか。
古本の馨りが、安らぎをくれない。 こんなに、包まれているのに。
「――止んだか」 どれ位そうしていたのか、中禅寺が辺りを見回しながら呟いた。 「もう大丈夫だよ、名前君」 中禅寺はいつもの表情だった。が、名前が顔を上げると、少しだけ目を見開いた。 「泣きそうになるほど怖かったのかい?」 泣きそうな顔をしていたらしい。中禅寺は「君も子供だねえ」と名前の頭を撫でた。
駄目だ。名前は思った。何が駄目なのかよくわからなかった。 どうしよう。名前は焦った。何をどうするのかよくわからなかった。
ただ。 自分が気付いていけないものに気付いてしまったということだけは、よくわかった。
「ぅ…」 嗚咽が漏れると、同時に涙も溢れた。堰を切ったように、名前は咽び泣いた。 何故キネマの女優のように美しく泣けないのだろう。涙が美しいなんて云ったのは何処のどいつだ。
駄 目 だ ど う し よ う
「……」 中禅寺は小さく溜め息をついた。その掌がもう一度、名前の頭を撫でた。 名前を抱きよせる腕に、少しだけ力が入った。
古本の馨りが、
古本の馨りの貴方が、
気が付いたら、
どうしようもなく、
好 き で し た。
終 わ り の 為 の 始 ま り で し か な く と も
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