名前が京極堂に通い始めたのは、店主の妹であり学生時代の友人でもある敦子の紹介だった。紹介と云っても住所を教えてもらっただけだが、中禅寺が名前の名前を知っていても不思議はない。敦子ならば、きっと家族の食卓などでよく学校での出来事などを話しただろうし。
「うん、名前のことはよく話したよ」 何より本人がそう云っている。 「高校の時はほとんど一緒にいたから、学校のことを話そうと思うと、どうしても名前が出てくるからねえ」 通りで、だった。
「で、でも、どうして、それが私だって……」 「君のような若い客が、誰かの紹介もないのにこの店にやってくるとは考え難い。 それに、君はちょうど敦子ぐらいの年齢に見えた。それで、敦子の友人なんだろうなと思った」 中禅寺は机に頬杖をついていた。本を読んでいない中禅寺と云うのは、何だか不思議だった。 「敦子の友人の中でも谷崎潤一郎を読むような子、と云えば、大学に通う傍ら詩や小説を書いていると云う文学少女、苗字名前君だとわかった訳だ」 「谷崎潤一郎…?」 そう云えば、この店で初めて買った本は谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』だ。もう数ヶ月も前のことである。よく覚えていたものだ、と名前はその記憶力に感心した。
暫く経った或る日。 「あ、のっ…」 名前は勇気を振り絞って、中禅寺に声をかけた。あの一件以来、少しは会話ができるようになった。しかし、中禅寺のほうが話し掛けてくるばかりで、名前のほうから声をかけるのは初めてだった。 「ん? 何だい?」 中禅寺はゆっくりと本から顔を上げた。相変わらず身内に不幸でもあったような顔だが、名前は此れが彼の常態なのだとわかるようになった。 「この、本、なんですけど」 「あぁ、其れか。ちょっと待っていなさい」 書名を書いたメモを見せると、それだけで中禅寺は店ではなく住居のほうへ消えた。店にないので取り寄せて欲しいと頼もうとしたのだが、一体何をしに行ったというのか。 「蔵書だから売ることはできないが」 返すのは何時でも構わないよ、と中禅寺は奥から取ってきた本を差し出した。 「あ、え、でも…」 売れないから貸そう、ということなのだろう。しかし、いいのだろうか。貴重な本であるし、だいたいそんな間柄では―― 「僕は古本屋の亭主なんだぜ? 本を大切にできるか否かくらいの見分けはつく」 唇の片側だけを上げるようにして、中禅寺は云った。揶揄するようだが、嫌な感じはしなかった。 「すいま、せん」 本を受け取る時に、指先が触れた。顔が赤くなるのがわかった。
「でもよくそんな長い間通ってるね。兄貴、いっつもこんな顔して本読むばっかりで、怖くなかった?」 と、敦子は不機嫌そうな顔をした。兄の真似なのだろう。似てない兄妹だと思っていたが、そうするとそっくりだった。 「そう思ったんだけどね…」 名前は曖昧に微笑んだ。敦子は「何よ教えなさいよ」と子供のように唇と尖らせた。
古本の馨りが好きだ。 古本の馨りが好きだ。
ならばあの古本の馨りのするあの人は
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