「こ、こんにちは…」
 しかし、返事はない(返事と云っても、中禅寺は顔も上げずに『あぁ、君か』というだけである)。中禅寺も細君も留守らしい。
 いつものように、他の客の姿がない。この間、関口とばったり会ったのが稀少なのだ。名前は一人だった。胸を撫で下ろす。別にやましいことなどないが、中禅寺の目があると思うと本を選ぶと単純な作業すら重労働に感じられるのだ。
 名前は念願の一番手前の棚へ向かった。いつもは倦厭する所だ。定位置に中禅寺が居ると、此処はその視界に入ってしまうのだ。今日は心置きなく探し物ができる。(中禅寺の視界には文字の羅列しか映っていないに違いないが。)

 どれ位経っただろうか。名前は目当ての品を見つけた。この間、関口に勧められた哲学書だ。
 哲学に興味があると云ったら、関口は暫く考えてから書名を述べた。多分まだ売れ残っている筈だ、京極堂に聞いてみようか?と云う申し出を丁寧に断り、今に至る。
 若し中禅寺に本の捜索を依頼し「そうか君は哲学に興味があるのか。誰が好きなんだい?」と言葉を交わさなければなることが、怖かった。彼の前では、自分の言葉など陳腐で安っぽく脆弱に過ぎない。会話など成り立たないに決まっている。

 何故だろう。
 書面を彩る言葉達は時に優しく時に悲しいと云うのに、
 口から零れる言葉は他人を―そして自分を―傷つける刃でしかない。

 その点、関口は作家という正しく言葉を使いこなす職業であるにも関わらず、似たように考えを持っている気がして、妙に親近感が沸いた。

 その本はよりよってというか、一番上の段にあった。梯子や踏み台は見当たらなかった。本を積み上げて踏み台にする――という莫迦げた考えが脳裏を過ぎった。卒塔婆でチャンバラをするようなものだ。(要するに罰当たりだとか冒涜と云うことだ。)
 別に所有物にできなくても、内容が読めればいい。図書館で探すか――という考えは一瞬にして消えた。
 次にこの棚の前に来れるのは何時なのだろう。そう思った時には、名前は白い手を伸ばしていた。
 手を、指を、腕を伸ばす。筋肉が張り詰める。人差し指の腹が背表紙に触れた。やったあ。そう思った。これで指の先を引っ掛けて引っ張り出せば――もう一度背表紙に触れた。引っ張り出そうと思った。だが、名前の足は爪先立ちの所為で感覚を失っていた。
 途端、名前はバランスを崩した。後ろに倒れる。

「あっ…!」

 人間は驚いたり酷い恐怖を感じたりすると、辺りがスローモーションのように見えると聞いたことがある。
 名前は今まさにそれを体験していた。

 本が棚から飛び出し宙を舞う。ああどうしよう、届かない。

「名前君っ」

 声が聞こえた。

 同時に、
 ふわりと古本の馨り。

 冷たい床ではなく、人のぬくもり。


「…ったく、君という人は」
「えっ、あっ、あ…」
 我に返ると、名前は尻餅を付いていた。――中禅寺秋彦と云う緩衝材の上で。慌てて立ち上がる。
 心拍数が、血流が、言語中枢が――。
「ご、ごめんなさい…」
 嗚呼莫迦々々。何故ごめんなさいなのだ。助けて貰ったのだから素直に礼を言え。
「僕が戻って来なかったら如何するつもりだったんだ。あのまま倒れていたら、本棚が倒れてくるかもしれないだろうに」
 中禅寺秋彦はいつも口調で云った。中禅寺の手を引っ張り起こすと、彼は着物を直しながらさっきの本を差し出した。

 いつも頁を捲っている手は大きかった。

「僕がいる時ならば、云ってくれれば本くらい取るから。無理はするんじゃない」
 中禅寺さんは「ここも店だ、それくらいの愛想はあるんだよ」と云うと、奥へ行っていつもの位置に腰を下ろした。



 あの人からは
 古本の馨りがした。
 ほっとする馨り。

 なのに。

「あのっ」

 なのに。

「どうして、私の名前…」

 何故私の胸は今こんなにも烈しく鼓動している?

「どうしてって…君の話は散々我が妹君が聞いているよ」

 こんなにも

「苗字名前君」

 息が詰まる胸が痛い頭は真っ白嗚呼まるでまるでまるで。



 ――名前は生まれて初めて、眉間に皺のない中禅寺秋彦を見た。





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