――古本の馨りが、好きだ。




 長い坂の途中で、名前は透き通るような青空を見上げた。
 同時に、視界に入る雰囲気のある建物、巧いのか下手なのかよくわからない『京極堂』という看板。

 ドクン。

 鼓動。否、動悸。胸が、苦しい。坂の急勾配の所為だけじゃない。
 名前はふうと深呼吸と溜め息の曖昧のような息を吐き、再び坂を上り始めた。




 昔から本、特に古書や専門書などを好む名前にとって、京極堂はまさに天国だった。おまけに客足が少ないのでゆっくりできる。
 人と接するのが苦手な名前にとって、これほど理想的な場所はない。
 ――ただ、
 ――中禅寺秋彦という店主の存在を除いては。


 静かに足を踏み入れると、案の定、客の姿はなかった。そう、客の姿は。
「……」
 店主中禅寺秋彦は、定位置で例によって例の如く読書に耽っていた。名前は此処に通い始めて数ヶ月になるが、頁を捲る或いは本を探している姿しか見たことがないような気がした。
 頁の捲る音だけが響く。と、中禅寺は顔も上げずに云った。
「そんなところで茫としてないで、入ったらどうだい?」
 そんなところ――名前は戸口で数分程突っ立っていたのだった。
「あ、お、お邪魔、します…」
 店に入るのに『お邪魔します』と云うのは、酷く不適切に思えた。しかし、後の祭りでしかない。
 気恥ずかしさを誤魔化すように、名前は足早に奥の方――中禅寺の視界に入らない、一番奥の棚へ向かった。
 深呼吸をして干乾びた書物の匂いを嗅ぐと、少し気持ちが落ち着いた。

 簡潔且つ率直に一言で云うと、名前は中禅寺秋彦が苦手だった。

 妹の敦子はあんなに活発ではきはきとしていて愛想も善いのに、何故兄はああなのだろう。とは、もう何十回と思ったことだった。
 いつも眉に深い皺を刻んで、黙々と読書をしている。無口なのかと思ったらそんなことはなく、前に友人―確かセキグチと云った筈だ―と会話していた時は、有無を言わせぬ気迫で弁舌を振るっていた。
 よくわからないのものは怖い。未知は即ち恐怖だ。
 名前にとって、中禅寺は遠くの世界の人間だった。自分よりも上の世界にいる、仙人のようなものだった。



「あっ…」
 京極堂へ向かう途中、見知った顔に会った。セキグチだ。
 思わず声を漏らしてしまったが、名前はその後に続く言葉が思いつかなかった。『京極堂で会いましたよね?』と云っても向こうが覚えていないかもしれないし、『中禅寺さんのお友達ですか?』と云うのも図々しい話だ。ただ、中禅寺と対蹠的な印象の大人しそうな男性が、彼とどんな関係なのかは興味があった。
 ちょうど関口も同じような顔をしていたが、
「あー、前に京極堂で…」
と口を開いた。何となく同じ気質を感じる。きっとこの人も対人恐怖症の気があるのだろう。
「敦子さんの友達で…苗字名前、です」
云ってから、もっと他に適切な自己紹介があるような気がして後悔した。顔が熱い。
「僕はセキグチ、セキグチタツミ。京極堂とは、学生時代からの…友人でね」
 他に幾つかその間柄を示す呼称が浮かんだのだろうか、友人の前に少し時間があった。しかし、名前にはそれ以上に気になることがあった。
「あの、セキグチは関所の関に口で、タツミは南東の方角の巽で、関口巽さん、ですか…?」
 関口は不思議にそうに首を傾げた。
 そんなよくできた話はないだろう。セキグチタツミなんて、そう珍しい名前ではない。名前は既に諦め半分だった。
「そうだけど…」
 名前は瞠目した。先程とは違う意味で言葉が続かなかった。



 目的地が同じだったので、自然の成り行きとして二人で京極堂へ行くことになったが、名前が勇気を振り絞って「稀譚月報の読者なんです」と云った時には、京極堂は目の前にあった。
 関口は少し考えてから、「ありがとう」と恥ずかしそうに云った。『私、貴方のファンなんです』という本意が伝わったようだ。
 言葉は難しい。多過ぎても少な過ぎても伝わらない。

 彼の姿を見るだけで、私の心臓は跳ね上がり、顔は茹蛸のようになり、息が苦しくなって何も考えられなくなる。

 ああ、そうか。
 だから私は、言葉を使いこなすあの人が苦手なんだ。





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