小さなことだけど、一度気付くとどうしても気になって気になって夜も眠れなくなるくらい大きな悩み事として頭の中に君臨するようなことってないだろうか。こんな問いかけを提示しておいて何だが、わたしにはそのような経験はあまりない。のらりくらり、人生楽しくをモットーにしているわたしにとって、どんな物事も言ってしまえば些末な問題で、そいつらのために数時間思考を巡らし続けたとしてもその日のベッドの中で忘れてしまい、朝には思い出せない程度の価値しかない。近づく夏の足音に浮足立ったクラスメイトの恋愛事情も、存在感を静かにアピールし始めたテスト期間も、わたしには関係ない。無問題。そんなわたしに、あれやこれやと考えさせ、いくつもの想像を思いつかせ、一週間前にさりげなく行われ始めた衣替えから今日まで、ぐっすりと眠ることすら許してくれない一つの悩み事があった。

「パンツ、見えないんですけど」

唐突と言えば唐突すぎる、わたしの細やかな指摘に、わたしとのお付き合いの真っ最中であるところの笠松幸男先輩は、わかりやすく顔を歪めて見せた。太く凛々しい眉をきゅっと寄せるその表情は、今死んでも一切の後悔も残さないほど美しく、わたしの口元はだらしなく緩んでしまう。彼女のそんな可愛らしい微笑みを目にしても彼の眉間の皺は拭い去られることなく、代わりに大きな溜息を一つ貰った。

「…お前は馬鹿なのか」
「し、失礼ですね!これでも成績いいです」
「そういう意味じゃねーよ」
「いくら彼氏である笠松先輩といえど、わたしに対する侮辱は万死に値します」
「なんでだよ」
「だって、普通彼女をそんなゴミ虫を見るような目で見ますか?」
「普通の彼女はそんなこと言わねーだろ」
「…それもそうですね」

理不尽に向けられる冷ややかな視線に危うく納得するところだったけれど、少し前を行く笠松先輩のズボンにしっかりと収まったワイシャツが自然に視界に入ってきて、これではだめだと気を引き締めた。夏服への移行期間ではあるが、まだまだ半袖では夜間が心もとないこの時期、男子生徒は長袖のワイシャツを腕まくりして着用している。よく鍛え上げられた筋張った腕を惜し気もなく晒している点は評価したいが、いかんせん笠松先輩は真面目なのだ。周囲の生徒が見苦しくもズボンを腰で穿き、拘っているのであろう様々なパンツを見せびらかしている中、頑なにシャツインとベルトで死守している。せっかく、あのすべてのパンツを覆い隠すブレザーという天敵がいなくなったというのに。もちろん、ともすれば尻が出てしまいそうなレベルでの恥ずかしい腰パンを求めているわけではない。彼氏がそんなんぶっちゃけ嫌だ。そう、つまりはチラリズムだ。ただ、わたしは笠松先輩が今日は何色を履いてるのかな〜くらいの軽い気持ちで、パンツの一部が見たいだけなのだ。それなのにここまで徹底して、パンツを見せることを拒む笠松先輩に、もしかしてわたしは嫌われてるのではないかといった妄想まで浮かんできてしまう。

「なんで健全な男子高校生なのに、腰パンの一つや二つしてくれないんですか!彼女へのサービス精神ってもんがないんですか!」
「誰ができるかあんなだらしねー格好」
「黄瀬くんなら昨日二つ返事でやってくれましたよ」
「あいつはアホだからだ」

笠松先輩の吐き捨てるような容赦のない突っ込みに、昨日の黄瀬くんの姿が思い出される。あまりに笠松先輩が鉄壁なのでむしゃくしゃしてクラスメイトの黄瀬くんを煽ててやってもらったはいいものの、わかりきったことではあったが彼は笠松先輩ではない。ドヤ顔で今時の男子高校生を代表してポーズを決める現役モデルの黄瀬くんに、居た堪れなくなってそっと目線を外しながら「チェンジで」と言ったときの彼の顔をわたしは一生忘れないだろう。ちなみに黄色だった。

「大体俺のパ、パンツなんて誰が見たいっつーんだよ」
「僭越ながら、わ、わたしが…」
「なんで今更照れた!」
「先輩が照れるからです。トゥーシャイシャイボーイめ」
「古い!」

ふざけたことを話していたら、いつの間にか学校に到着していた。話題が話題だったから、けして多くはないものの生徒で賑わう校門で会話を続けるわけにもいかず、お互いに黙り込んだまま玄関まで歩いて右と左に分かれた。わたしと笠松先輩の下駄箱はかなり離れている。これが二年差というものなのだと、登下校する度に実感して、何とも名付けようのない寂しさは増すばかりだ。あと、二年早く生まれていたら。もっと、笠松先輩がパンツが見えちゃうくらいだらしなくて、わたしがいなきゃだめな人だったら。そんなくだらない願望ともとれない考えを振り払うように、脱いだローファーを下駄箱にぶち込んだ。







学校は、平穏だけど退屈だ。運動部に力をいれるこの高校で、何の部活にも委員会にも属していないわたしは、先輩の朝練のない曜日に一緒に登校できることを一週間の楽しみの一つに数えている。それぐらい、普段の生活は簡素で味気ないものなのだ。笠松先輩は基本的に朝の早い人なので、必然的に教室への到着時刻も早くなる。まだわたししか登校していない教室は、誰の二酸化炭素にも塗れてなくて、きれいな空気で充たされている気がした。廊下側の一番後ろの自分の席に座って、頬杖をつきながら朝のことを回想する。笠松先輩といると、訊きたいことも言いたいことも溢れて、結局空回って変なテンションになってしまう。きっと、変なやつだと思っているだろう。だからこそ、二つ上で、女性も苦手な先輩と、こうして恋仲になることができたのだけど、ふとした瞬間に後悔することも多い。それも、明日になったら忘れているのだろうが。ああ、パンツ見たかったな。

「パンツ何色だったのかなあ…」
「うわ、引く!」

独り言に返事が返ってくるとは思わなかったので、驚いて振り返ると教室の後ろのドアからげんなりした表情の男の顔が覗いていた。朝日を反射する黄金色の髪をさらりと揺らして、イケメンがわたしの視界を奪う。相変わらず憎らしいことに、顔だけはいい男だ。ほんとうに、それだけだけど。

「黄瀬くん声でかいんだけど。朝っぱらから何引いてんの?」
「朝っぱらからパンツとかぼやいてるクラスメイト見たらふつう引くっスよ」
「それは、引くね」
「でしょー」

ケラケラと笑いつつわたしの隣の席に座るのは笠松先輩の部活の後輩でもある黄瀬くんだ。先々週の席替えで隣の席になってからというもの、公私ともに手助けしている。何を隠そうこの人、顔もスタイルもバスケもトップレベルなのに、おつむはあまりよろしくない。というか宿題や教科書を忘れすぎである。先輩の彼女ということもあってか、女生徒に対して異様に警戒心を持つ彼にしては懐いてくれた方だと言える。初対面で「笠松センパイ女苦手なのに彼女とかって思ってたんスけど、キミ見てたら納得ッス!」といい笑顔で親指を突き出した彼を全力で殴ったのが功を奏したのかもしれない。

「で、パンツがどーしたんスか?」
「黄瀬くんには関係ないよ」
「つめたっ!昨日俺が体張ったのと関係あんの?」
「あるけど。黄瀬くんにはこれっぽっちも関係ないね」
「なんなんスかも〜」

君にはわからないよ。左を向いて黄瀬くんの整った顔をぼんやりと眺めながら、とんとんとシャーペンで机を突く。部活用のエナメルバッグからばたばたとノートと筆箱を取り出す様子からして、普段は遅刻ギリギリな黄瀬くんがこの時間に来たのは今朝提出の古典のノートを写すためだろうと推察できた。わかってるけれど、気を回してそっと差し出すようなことはしない。鞄から覗くスポーツタオルや替えのTシャツから、バスケ部員としての、彼を思い出した。放課後の練習は何度も見学してるし、練習試合も観に行ったことがある。コート上には、年齢なんて存在しない。そこにあるのは、バスケをする肉体と、フル回転する脳みそと、絶対に相手に勝つっていう精神だけ。余計なラベルをすべて取り払った、一対一の対話。笠松先輩と同じ位置に立てる黄瀬くんには、絶対にわたしの気持ちはわからない。だから時々無性に悔しくなって、黄瀬くんに辛く当たってしまうのだろう。と、自分では分析している。この分析の正誤はわからないけれど、黄瀬くんに素直に優しさをあげられらないのは仕方のないことなのだ。

「ちなみに黄瀬くんのパンツは?」
「興味ないのに訊くんスね」
「義務かなあ、と思って」
「教えないっスよ。モデルのパンツは安くないんで」
「あっそ。ノート見せないよ」
「ちょ!俺が早く来たの見せてもらうためだってわかってるくせにひどいっスよ〜!」
「うそうそ。お代は、要らないから」

感謝の言葉を叫びながらノートを受け取る黄瀬くんに、適当に笑顔を作りながら、廊下の方に視線を遣る。この階には1年と2年の一部のクラスしかないので、3年生は殆ど通らない。通り過ぎた男子生徒のズボンは朝からずり落ちていて、ショッキングピンクのパンツがちらりと見えた。うれしくない、全然。まだ一限目すら始まっていないのに早く放課後にならないかなあと漏らすわたしに対し、ノート写しに忙しい黄瀬くんはそっと苦笑するに留めた。









生温い人肌が触れたこそばゆい感触に目を覚ますと、先に起きた笠松先輩がベッドの縁で下着を装着しているところだった。思わず息を潜めて、じっと目を凝らす。固い髪の毛の先から視線を這わせて、真っ直ぐ下りた背骨を通り、丸々とした形のいい尻を包み込む黒のシンプルなボクサーブリーフに辿り着く。彼の均整のとれた肉体を引き立たせるような、何の飾り気もない、無骨なそれ。あの頃はあんなに見たがっていたパンツだけれど、こうやって彼の身体と合わせて見るとそのインパクトは減少してしまう。あちこちに向けてみたところで、わたしの視線は彼のがっしりした背中に吸い込まれてしまうのだから。黄瀬くんに比べれば小さめな背丈も、わたしにとってはあまりにも大きくて、彼との違いを嫌でも認識してしまった。何一つ身に纏っていなくても、彼は3年で、わたしは1年で、それは揺るぎようのない事実なのだ。

「…あんまじろじろ見んなよ」
「え、気付いてました?」
「そんだけ見られたら猿でも気付く」

言いながら笠松先輩はその辺に脱ぎ捨ててあったジーンズに脚を通す。ああ、せっかくのパンツだったのに。わたしが不満の声を上げると、うるさいと一蹴された。ほんのりと赤く染まったほっぺたを見る限り、照れてるらしい。先輩に合わせて、わたしも放り出した下着を手探りで見つけていそいそと身に着ける。受験生で、部活の元主将で、生真面目な彼に、時間を無為に過ごすという選択肢はない。わたしが構ってと言わなくなったら、こうして一緒に過ごす時間もなくなるのだろうか。この年頃の、二年の差は大きい。戻れたらいいのに、彼が何も背負っていなかった頃に。そして、男だから女だからと分けられることなく、ずっと一緒にいれたら。

「小学生のころだったら、きっと何の恥じらいもなく見せてくれたんでしょうね」
「はあ?」
「もったいないな、って思いました。もっと早く出会えてたら、笠松先輩の白ブリーフ姿まで堪能できたかもしれないのに」
「履いてたって決めつけんのやめろ!」
「いや…先輩は履いてたでしょ…お母さんが選ぶ白ブリーフ…」
「さあな」

図星で本当に照れたのか、上半身裸のままわたしに背中を向けて寝転ぶ笠松先輩の輪郭をじっとなぞる。ごつごつした凹凸を指で確かめていると、先輩の身体がぴくりと反応して揺れた。刺激に敏感で素直なところは、彼の中でも唯一と言っていいほど子供っぽい部分で、わたしはそれを見出すたびに安心する。ほっと胸を撫で下ろして、まだ近くにいるのだと言い聞かせた。

「でも、いいんです」
「あ?」
「小学生とはこんなことできませんから」

わたしがにっこり微笑むと、振り向きかけた笠松先輩はふいともう一度顔を逸らす。微かに見える耳があかい。興に乗って熱を持った脇腹をくすぐると、乱暴な手つきで振り払われた。それが照れ隠しなんてことは百も承知なので、もう一度、手を伸ばす。今度はちゃんと向き直ってくれた笠松先輩の、大きな掌に包み込まれるわたしの手首。じっとりと欲の籠った瞳がわたしの両目を射抜く。剥き出しの背中を冷たい何かが走った。それは、安堵と期待に、とてもよく似ている。


小学生にはできないことをしよう


the Battle Under Clothes提出
妄想滾る企画、ありがとうございました!

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