それに気付くことは、とても怖くて、目を瞑らずにはいられない。なのに彼女が楽しそうに笑うから、目を開けてその先を見てみたくなってしまう。気付いたなら、後戻りなんてできない。知ってしまえばそれ以前のことなんてどうでもよくなる。だから、必死で目を瞑るのだ。呑み込まれないように。

 白い肢体に頼りない布地でできた下着を身に纏う名前を横目だけで見る黄瀬は、いまいち意味のわからない罪悪感に苛まれていた。光沢のある白い布地をベースに、ミルキーグリーンのレースが繊細な装飾を施している。薄っすらと肩甲骨が皮膚を押し上げる背中をするりと隠すように、名前は自分のサイズより幾つか大きいグレーのパーカーを羽織った。裾も袖も余らせたそれは、黄瀬のものだ。見てはいけないもののような、罪悪感が募る。熱が下がらない。

「…………なに?」

 ベッドから降り立ったその足で冷蔵庫へ向かい、買い揃えてあるミネラルウォーターの口を切る。黄瀬のものであるパーカーを勝手に着て、ミネラルウォーターを勝手に飲むことは、黄瀬にとっては別段どうでもよかった。名前の下着までを完璧に覆い隠した自分のパーカーから、白い腿が伸びて、その二本が器用に反転してこちらを向く。もう目を逸らさずにはいられなかった。

「……べつに。 なんでも」

 薄い布地を身につけた名前のカラダは、なにも身に纏っていないときよりも、艶やかさが増す気がしている。清楚と可憐を気取った布地の下に、自分と肌を合わせるときの名前の姿が隠されているのだと思うと、左胸の奥が自然と痛んだ。自分が下着というものにフェティシズムを感じているのか、名前の生まれたままの姿を目にするときの自分に、艶やかさを感じる余裕がないのか、それを判断するだけの余地も残されていない。黄瀬自身に、他の誰に勘付かれたとしても、名前にだけは決して知られたくはない自分の不甲斐ない部分。名前はなにも言わず、ただ笑みを携えているだけだから、気付かれているのか黄瀬に知る由はないけれど、それでも絶対に知られぬままを貫き通していたい、黄瀬のたった一つのプライドだった。

「そう? ――あ、涼太」そのたった一つのプライドも、おもむろに伸ばされる指先にあっという間に崩されてしまいそうになる。

 頭部のほうへ伸びてきた名前の指に、黄瀬の肩が大袈裟な反応をした。「髪の毛、ぐしゃぐしゃ」名前はそう笑って、好き放題乱れたせいで前髪と混ざった長い髪のひと房を摘まんで後頭部のほうへ流してくれる。黄瀬は自分の耳が髪の毛で隠れていることを心底安堵した。絶対に、赤くなっているだろうから。
 音もなく名前の指が伸ばされるその光景は、数十分前、その手が自分を柔らかくベッドへ押し倒す感触を一瞬でフラッシュバックさせてしまった。下から見上げる名前の姿はいまだ明確な彩度を保っているし、色んな意味で手を尽くされて、男としての矜持なんてぐちゃぐちゃに掻き乱された。もうあんな思いは二度としたくない。なのに、いまだにあの熱が収まらないのはなぜなんだろう。

 黄瀬は、名前に対して、圧倒的で絶対的な、男が持つ「力」という有意性がある。
なにがどう転んでも、名前は黄瀬の「力」には太刀打ちすることができない。―――だから、簡単に跳ねのけられたはずなのだ。なのに、黄瀬の名前の腰を掴む手は、その「力」を振り翳そうとしなかった。なぜか、なんて。

「……男が下とか、カッコ悪」
「はは、何か不満?」
「…不満」
「気持ちよくなかった?」
「っ、よかったけど!」

 名前から自分に触れてくれたのが、うれしかったからに決まってる。形なしもいいところだ。膝を抱え込んで、囲い込んだ腕の中で大きく息を吐き出した。
 自分の上に跨がる名前を、いやらしい人だと揶揄してしまえたら良かった。でも、その光景に冷静さを取り戻せないまま、もたらされる刺激にただ震わされて上擦った声をあげていた。「名前、」と名前を呼ぶしかなかった自分が情けなくて恥ずかしくて、頭が焼けそうになる。そんな自分を、名前は少しも笑ったりはしない。むしろ、半ばヤケクソな口調で返事をする自分に、心底うれしそうな顔をする。黄瀬はそれすらも恥ずかしくて、身体中に満ちる甘やかな感情に必死で見ないふりをするのだった。

 ベッドの上で項垂れ、膝を抱える黄瀬の腰元―――黄瀬が唯一身につけている下着の辺りを、擽るような手付きで何かが触れた。素肌と下着の境目をなぞって、それどころかゴムの内側に指を差し込もうとしてくる。こそばゆい感覚に横腹を粟立たせながら、黄瀬はびくりと肩を揺らした。

「ちょ…なに!」
「あのね、さっきいいこと発見しちゃった」

 ブランド名のロゴが入った白いゴムの部分に指を引っかける名前の手を、自分の手で押さえつけたまま慌てて仰ぎ見る。自分の恋人を痴女だと罵りたくなったのは初めてかもしれない。人の下着に手をかけながらほくそ笑む名前の言う“いいこと”が何なのかなんて考えたくもないが、その“いいこと”が黄瀬にとって決してそうはなり得ないことは簡単に予想がついた。けれど、どうせ嫌だと言っても話すことをやめはしないのだ。渋々先を促してやる。

「…なに」
「ここのね、ちょうどゴムの下かな? 涼太ほくろあるんだね」
「はあ?」

 気の抜けた返事と一緒に力が抜けそうになった手に目聡く反応して、指をかけられた部分の下着が若干引きずり落ちる。無意識に緊張が走った黄瀬の口からは、「ちょっとお、」と焦りばかりが滲む声が零れた。
 腰の薄い皮膚に骨が浮いたそこには、名前の言うほくろは見当たらない。下着を下ろそうとする力は未だに弱まらないので、そのほくろはまだ下の方にあるということなのだろう。自分の身体のことながら、そんなところにある自分のほくろのことなど黄瀬は少しも知らなかった。こんなときに男の有意性を発揮させてどうすると思いながら、名前の手を強く掴み、無理矢理その手を外す。名前は残念そうな顔をしたのだが、もうすでにそこにあると知っているものを再び見て何が楽しいのか、黄瀬にはわからなかった。そしてそれを“いいこと”だと言う名前のことも。

「ほくろのなにが『いいこと』なんスか」
「だって、わたししか見れないでしょ」

 あっけらかんとして言い放たれた言葉に、呼吸を詰まらせた。奔放で、飄々として、どこまでも自由を体現したような人なのに、こんな風に、名前の一部は確かに黄瀬が握っているのだと思い知らされる。その事実に「安心」のような気持ちが湧き上がる自分が信じられない。信じたくもない。独占欲をちらつかせるなんて引け目を感じてもいいような言動ですら、こちらを翻弄して、その自覚もないのだから、好いように振り回される黄瀬はいつも悔しくて叫び出してしまいたくなるのだ。

「……そんなの、今までの彼女みんな見てるでしょ」

 悔しくて、なんとか同じような気持ちを味わわせてやりたくてわざとそんなことを言う。何も考えずに発した言葉は思いのほか切れ味が良い。ここで例えば、名前が眉間に皺を寄せてあからさまに拗ねたりだとか、言葉をなくして俯いてくれたならば、肩を抱いて、頬にキスなんかして、甘えた声で「ごめんね」と言って、思う存分慰めてやれるのに。名前はそんな想像通りの生易しい女ではないのだ。とっくの昔に実感して、悔しいくらいに痛感している。
 黄瀬の腰の両側に手をついて見上げる名前の目はにこやかに細まっていた。ただ、いつもは自然な形を保ったままの眉は、情けなく歪んでいたけれど。

 ―――ほんと、不公平だ。勝ち目なんてない。ひそやかな束縛で満足しているくせに、事実だけですでに気持ちも残っていない過去の存在に傷ついてみせる。自分から吹っかけておいて、罪悪感で一杯になった。そんな顔をしないでほしい。

「もう、アンタにしか見せないから」

 姿もおぼろげな過去なんて笑い飛ばして、わたしのものだって、あながち外れでもない束縛を振りかざして、こちらを苛つかせていればいい。

 自分の失言へのフォローのつもりで言った言葉はすこし青臭い。瞬く名前の瞳から視線を外して頬の熱を感じていると、鼓膜を控えめな笑い声がくすぐる。黄瀬の腰回りを覆う下着、ネイビーの布地に黄色でプリントされたブランド名を名前の指がそっとなぞった。横目に見た名前の顔、情けなく歪んだ眉から、余計な力は抜けていた。やわらかさだけを残す不格好な笑みに、黄瀬は心底安堵する。ほくろのなにがいいのかは未だにさっぱりだけれど、名前にしか見せないし、自分自身だってきっと、名前のものなのだから、無意識で黄瀬を翻弄する名前のまま、奔放に飄々と笑ってくれればいいと黄瀬は思う。それを直接口にすることは絶対に嫌だけれど、声に乗せないまま渦を巻くあきらめにも似た甘受は、目を開いた先にあるのだ。目を瞑って、見えないふりをすればいい。

 目を瞑って、呑み込まれないように。だって気付いて認めてしまったなら、あとはただ彼女におちていくだけなのだから。



彼と私のアミューズメント
(ジェットコースターは目を瞑ってやり過ごす派!)


for 服底の攻防|title by 背骨|130205

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