意味はわからないが心を揺さぶられる歌声と、男と女の仕様もない駆け引きを劇的に描写した文字の群れしか、わたしの傍にはいなかった。もらいもののヘッドホンを耳につけ、だらしなくソファに横たわる時間は至高の贅沢だった。
 天井に文庫本を掲げたまま、ページをめくる。テンポは悪いが佳境に入ったおかげで、どんどん読む速度が上がっていった。冷静に考えたらひどく陳腐なストーリーなのに、著者の筆力がそうは思わせないのだ。磨きに磨いた洗練された描写に目が離せない。ストーリーよりも言葉選びが秀逸だった。著者の性質が窺い知れる。時に文字は、本人よりも雄弁に人となりを語る。
 何度目かわからない足の組み替えをした、そのときだ。ヘッドホンが強引に奪われた。コードに絡みついたわたしの髪を数本抜き取り、女性のゴスペルが遠ざかった。最後まで歌詞の意味はわからなかった。
「声が枯れるまで呼ばせるつもりですか」
 五十二ページ。数字を確認してから、延長にいる彼を見た。逆さまに映る彼は至極不機嫌そうな顔で、わたしのヘッドホンを持っている。数字が隠れるように紙の先を折り畳んだ。「やめてください」とすかさず彼の手が伸びる。うつ伏せになって逃げた。
 彼は、わたしのこの癖が嫌いだ。本に傾倒している彼らしい嫌悪。自分に近くて安心する。彼はどこか、わたしたちよりも空を生きているように思えるからだ。
「いまいちっすね、今回のは」
「失礼ですね。そんなこと、僕が一番わかっていますよ」
 胸の下で本を閉じながら、くつくつと笑う。ひねくれた子どもを相手にしているかのようだ。
「やっぱり黒子さんはホラーとか、わけわかんない話のほうが向いてますって」
 彼は「それも知ってます」と、わたしのヘッドホンを首にかけた。
 ため息を吐いた背中を見つめ、適当なエプロンの結び目を掴む。長いしっぽのようなそれを引っ張る。簡単に結び目はほどけてしまった。
「ちょっと。なにするんですか」
「またわたしのエプロン着てるー」
「リビングに脱ぎ捨ててあったから借りました」
「まーたゆでたまごっすかー」
「君がさぼるからです」
 じとりと見下ろされれば、わざとらしく肩をすくめて頭を振った。
 わたしはもともと彼、黒子テツヤのファンでしかなかった。大きな新人賞を名刺代わりに大手出版社へ自分を売り込んで、影ながら壮絶なデビューを飾った人。新人作家としてよりも、新進気鋭作家としてのキャリアのほうが長い。わたしと彼は二つしか違わない。けれど、ジャンルを問わない多種多様な仕事ぶりのおかげか、彼の著作は増える一方だった。
 そんな高校時代の元彼の許へ転がり込んできたのが、つい一ヶ月前。彼の名声に釣られたわけではない。ただ単純に、彼の書いた処女作に恋をしただけだった。
「また『僕』で書いてくださいよ」
 彼が「僕」を使った一人称は処女作ただ一つ。自分に寄ってしまうから、と彼は処女作以来、三人称でしか小説を書いていない。
「書いたら出て行ってくれますか」
 わたしはまた彼の「僕」で小説が読みたかった。頼み続けている。ずっとだ。ここに押しかける前、細々と続けていた手紙のやり取りでも願い続けていた。けれど、彼はそれを書いてくれない。「書いたら出て行ってくれますか」の本意は、なんとなく察せられる。
 バスケ一筋、息抜き読書――恋愛の「れ」の字もない高校時代だったから、わたしたちの関係は彼の存在ぐらい希薄だった。わたしが彼の世界へ飛び込んで始まった関係だった。今もそれは変わらない。彼はいってみれば箱で、部屋で、世界なのだ。
 彼の後姿はそんなに変わっていない。少しだけ身長が伸びた。大学入学と共に新人賞、成人と同時にデビュー。華やかな経歴とは結びつかない幽玄を身にまとっている。卒業式に別れたときから遠くなるばかりだ。
 ソファを乗り越えて、彼の腰に腕を巻きつかせた。
「どうしたんですか」
「わたし黒子さんのお嫁さんになりたいっす」
 お互いに忙しくなって、気づいたら別れていた。別れ際に見た姿もまた、後ろ姿だった。
 明確な別れの言葉はない。いつもわたしからとっていた連絡を止めたら、二年近く経っていた。彼がくれたものも、わたしがあげたものも、あの頃はとても少なかった気がする。図書室で知り合って、少しずつ話をするようになって、いつの間にか好きになっていた。わたしは本と音楽が好きな健全な高校生だったから、いつだって彼に残るような言葉を伝えようと必死だった。いつからかそんな自分に疲れ、彼を見上げる首の痛みに涙を流すようになった。彼は視線と、言葉の使い方が上手な人だから、隠すのに躍起になっていた。彼を思って疲れる姿や、痛みに泣いた目元なんかを、彼への好意で包んで握りしめていたのだ。
「もっと、自由な時間を楽しんでから決めてください」
 彼ほど優しい人を、わたしは知らない。後ろに目がついているみたいに、寸分違わずわたしの頭を撫でる手がもどかしい。言葉の使い方が上手な彼は、まっすぐに本意を伝えてくれない。選択肢を用意して、わたしに選ばせてくれる。
 わたしは彼の処女作が好きだ。今よりもずっと拙い文章なのに、登場人物はすぐそこにいるかのように生き生きと紙の世界を駆けまわっていた。「僕」から見た、「彼女」を知った。自分が思っている以上に、彼から大切にされていたのだと知った。
「同じお墓に入りたいんですよ、黒子さんと」
「どんなプロポーズですか。君らしくありませんよ」
 腰に巻きつけていた腕を片方だけ外し、エプロンの裾から内側に手を滑り込ませた。ぴったりと背中につけた頬から、彼の動揺を感じ取った。デニムのボタンに触れる。ブルー地にシルバーのボタンだ。目に見えなくとも、手は覚えている。ボタンを外し、チャックを下ろしたところでようやく、名前を呼ばれた。
 デニムの底にある生地に笑ってしまった。またこれを履いている。無意識に身体を動かしていた時代は過ぎ去ったはずなのに、化石のように居座っていた。
「シルキードライにやみつきっすね。しかもこれ、黒子さんお気に入りのやつじゃないっすか」
 紺と白を基調にした、ボーダーのボクサーパンツ。彼は同じものを三着も持っている。他にもパンツは持っているのに、彼はよくこれを履いている。引き出しの一番上にあるものを着ていくからだろう。
 ここに来てから、知らないことばかりだったと知れるぐらい、たくさんのことを知った。高校時代の希薄な関係はすっかり鳴りを潜めてしまった。わたしたちは大人になったのだと思う。
「わたしらしいプロポ―ズしたら、お嫁さんにしてくれますか」
「おかしなことをいいます。今だって、似たようなことをしているじゃないですか」
「予行練習というか、ままごとというか、まあそんなものです」
 彼が選んで、買ってくれたヘッドホンはわたしよりも彼に似合っている。彼の身に着けているエプロンはわたしのほうが似合っているけれど。
 デニムがずり下がる前に、ボタンとチャックは元に戻されてしまった。淀みない手つきだった。しかし、仄かに赤くなった耳は隠せない。外したはずの腕を再び腰へ巻き付け、先ほどよりも強い力で抱きしめた。もう彼は逃げられない。
「わたしの選んだパンツ履いて、それをわたしのと一緒に洗濯して、ここのベランダで干させてください」
「回りくどいです」
 言葉について、彼はとても厳しいところがある。これは最近になって知ったこと。
「じゃあ、わたしだけのために『僕』を書いてください」
 彼が迷っている。なによりもこの時間が温かく、愛おしい。このときばかりは誰よりも、わたしを大切にしてくれているからだと、知っているからだ。
「狡くなりましたね」
「それはあれっす。お互いさまってやつですよ」
 わたしと彼の距離は、どんどん近づいている。布の厚さなんて、あってないようなものだった。


死んでやるって脅したら笑った|0121023

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