まぶたの裏側にとりどりの光景が映し出されるのを、とろとろに溶けた意識で見ていた。

 瑞々しい緑色が美しい草原に立つ私の周囲に、きらきらと発光するシャボン玉のようなものがいくつも漂っている。薄っぺらい透明の膜は風で揺れ動くたびに七色の輝きを反射させ、瞳にまぶしい。現実感などほとんど存在しない、その幻想的な景色をいつまでも飽きずに見つめていると、草原の向こう側にひとりのひとが立っていたのに気付く。そのひとはくちびるを三日月型のカーブでゆるめていた。

 それは、私がのっぴきならない感情を抱いているひとであったから、驚きのあまり立ち止まってしまう。すると、彼は私に背を向けて、あちらへと遠ざかってゆくではないか。ねえ待って、どこに行くの。思わずそう叫んで、手を伸ばしたのだけれど――。

「うわ、名前。どうかした?」

 ぱちり。その音は、ひときわ大きなシャボン玉が弾け去った音ではなくて、私がまぶたを開いた音だ。まだ滲んだままの視界に捉えたのは、下着ひとつでベッドから抜け出したすがたの氷室だった。私を振り返り、アーモンド肩の瞳をこれでもかとばかりに見開いている。どうしてそんなに驚いているのだろうと疑問に思い……はた、と肺呼吸が一時停止する。まるで何かを引き留めるようにして伸ばされた私の左腕。その先端、指先を凝視する。人差し指と中指が、あろうことか……彼の下着を脱がすようなかたちで引っかかっていた。

「ご、ごめんなさい、寝ぼけた」

 慌てて指先をシーツのなかへ戻す。夢うつつで突拍子もない行動に出てしまったのだろうが、それにしても恥ずかしくてたまらない。氷室は実に楽しそうな笑顔を浮かべたままに捩れた下着を直していた。彼がどこかへ行ってしまう夢を見た、その延長線上で、自分のからだを無意識に動かしてしまったなんて。くるしい、くやしい。

「ひとの下着に手をかけるなんて、きみはいったいどんな夢を見たのかな」
「……ひみつ」
「それは残念」

 芝居がかった大仰なしぐさで肩を落とすと、氷室はベッドに腰を下ろした。私は首を傾げる。

「行かないの?」
「どこに?」
「シャワー」
「ああ、後でいいんだ。今は名前を放って置きたくないから」

 彼はそう明確に言って首を振ると、均等に筋肉の付いた腕をこちらに伸ばしてくる。接触の予感に瞳を瞑ると、あいだを置かずに髪を撫でられる、甘い、感覚がした。穏やかな愛撫めいた動きが再度の眠気を促す。やわらかい枕に頭を埋め、大きく息を吸った。肺のすみずみまで空気が満ちる。当たりまえだと言われてしまえばそれまでだけれど、氷室の部屋のにおいがした。私の部屋には気に入りのアロマディフューザーが置かれているので、いつだって摘み立ての花に似た可憐な香りが漂うけれど、この部屋はまるで違う。氷室のにおいとしか形容できないフレーバー。

 最初に聞いたときはびっくりしてしまったのだけど、彼は人工的なにおいが苦手なのだという。外国人のステレオタイプと言えば、強い体臭を隠すための香水策を当然のごとく思い描いていた私に、彼はいたずらっぽく微笑んでみせたのを思い出す。「オレは日本人だよ、名前」と。ずいぶんまえの……私たちがこうして「眠るところでする眠らない遊び」を始めたころの、記憶。

 氷室の手が離れるのに合わせ、二乗された体温であたたまっていたシーツのなかで寝返りを打つ。ベッドの端に座って足を組んでいる男のひとをしげしげと見やった。ここからでもじゅうぶんに分かる睫毛のカーブに、白い頬にアクセントを付けるほくろ。薄いくちびるの角度は若干ながらも上がっていて、優美そのものの微笑みを作り上げていた。
 このひとはいつだって、ひとの良い表情で他人を惑わせて生きている。そのくせ深夜のファクターが良く似合う。満ち欠けを繰り返す月、冷えた空気、消えない寂寞、持て余す孤独などの。

「私、どれくらい寝ていた?」

 気になって問いかけた訳ではなく、彼に話しかけるきっかけを掴みたかっただけだ。私を見下ろした氷室は、ふたたび腕を近付けてくる。

「五分ぐらいかな。オレがちょっと目を離したあいだに、落ちてたから」

 ことばの運びに合わせ、長い指が頬をなぞる。目許で揺れ動いて邪魔だった髪を耳にかけられる。ぞくり、と背筋に眠気以外のものが走ったのが嫌が応にも分かったけれど、何とか無視を決め込んだ。あの指先には毒でも塗られているんだろうか。

「……それにしてはずいぶん長い夢だったなあ」
「そうなのか? だいぶ気持ちよさそうに寝入ってたから、夢を見てたとは思わなかったけど」

 氷室は組んでいた足を解くと、私のそば……空いていたスペースに転がった。空気が動き、またしても、あのにおい。洗剤でも柔軟剤でもなく、彼という人間の香りが届く。私はそれを、すう、と思い切り吸い込んでみせた。

「もう、オレも寝るかな」

 至近距離に肘を付き、氷室はつぶやいた。ころりと首を傾げるしぐさに合わせて、長い前髪が白い肌のうえをさらりと滑り落ちていく。今度は、私がそれを避けてやる。そうすると氷室は笑みをほころばせる。もとの場所へ戻ろうとした私の手のひらは彼によって捕縛され、ぬるい温度を保っていた指先にくちびるが落とされた。さまざまな意図と言葉が溶け込んでいる吐息が、まぶされる。

「名前のにおいがする」
「私の? どんな?」
「懐かしくて、甘い」

 懐かしくて甘いにおいがどんなものなのか、私にはこれっぽっちも想像できなかった。少しでもイメージを捉えたくて、頭のなかでいろいろと考えを巡らせていると、二本の腕に強く引き寄せられる。決して痛くはない強引さは氷室の常套手段のひとつだ。そうして私を胸の内に納めてしまうと、氷室は大きく息を吸った。ふだんの呼吸と言うよりはむしろ深呼吸に近い。深夜の静謐なる寝室にひとつの呼吸音が響き渡る。吐息が耳許を掠め、くすぐったさに身を捩らせた。

「私のにおい、した?」
「ああ」
「自分じゃ分からないんだけどね。氷室も、においがするよ」
「へえ。どんな?」
「さみしくて、だけど最後には甘い。そんな感じ」
「想像付かないな」

 互いの腕を絡めながら紡ぐ会話は、音を必然的に耳へ囁くようなかたちになってしまうので、私の内耳はすっかり火照ってしまった。彼の言葉には持続性がある。何気なさを装って身体を離すと、いそいそとベッドから抜け出した。

「どこに?」

 何気なく振り返った先で、氷室は眉を下げて私を見ていた。四つの瞳が二つの直線を結ぶ。まんべんなく鍛え上げられた彼の四肢は夜闇のなかでもたっぷりとした魅力を放ち、私の集中を鷲掴みにして離さない。

「戻ってきて欲しい?」

 意地悪く小首を傾げると、氷室は深く首肯した。余計なことばは何ひとつなかった。それが殊更いとおしくて、彼の本音の露呈のように感ぜられて、つい今しがたサヨナラをしたばかりのシーツに身を投げる。ぼふり、と情けない空気音が広がった。

「氷室がさみしそうだったから戻ってきてあげたよ」
「どうもありがとう?」
「どういたしまして?」

 顔を突き合わせて微笑み合う。しばらくして笑い声が止んだとき、持ち合わせていた勢いのまま、私は氷室を配下に組み敷いた。足を広げて腹を跨ぎ、しばし絶景を堪能する。マウントポジションってこんなにも支配欲が満たされるものだったのか。いつもされる側の方に甘んじてばかりだから、未知の領域だった。

「氷室って、浮き上がる骨がとっても綺麗」
「それは良かった。名前は――」
「こら、胸触るな」

 素直に褒めてあげたのに、にこにこと不届き者の手を差し向けてきた彼の腹を抓ってやった。痛いと大げさに口にする氷室の、くちびるに封をする。角度を変えない、じっくりとしたものを数秒続けてから、惜しむように離れる。

 そうして、ずるりと身体をよじらせた。目のまえには氷室の腹がある。おんなのものとは違う、大きな骨盤とくびれがない腰。うっすらと入った線をなぞると、こそばゆさからか彼は声を上げて笑った。白いシーツのうえではシンプルな黒の下着がやたらと映える。いっそこれを脱がしてしまえば……生まれたままを晒す氷室が見たくなって、手を伸ばした。

「待った、名前。何する気だ?」
「何って。脱がそうかと」
「随分といきなりなんだな」

 私の、好奇心旺盛な手を抑えて「ストップ」をかけた氷室は、呆れたように瞳を細めた。ああ、その表情が好き。私のすることに困らせられているといった顔。どうせならもっと、とことんまで困って欲しい。救いようがなくなるレベルまで。

「氷室だっていつもいきなり私に触るでしょう。それと同じ。きょうは、君の下着をあっという間に脱がしてみたくなったの」
「名前はいつから特殊な性癖を持つようになったんだろうな」
「さあ? いつだろう……氷室と出会ってからかな」

 それ以上ことばを紡ぐのも億劫になってしまって、下着と肌の境界線に指を引っかけた。ちょうど冒頭で、夢見ていた私が粗相を犯したときとそっくり似ている。ふたつの相違は、欲望があるかないか。今の私はすっかりと、彼の、ひと続きになった素肌を見てみたい、という熱に駆られている。あとは、彼の最後の砦を私が崩す、という甘い策を講じたいが一心。でも、もう何もかもどうでもいいから、早く観念して欲しい。

「ね、腰上げて?」

 私の両目が至って真面目だったからか、彼はとうとう折れて身体を浮かせてくれた。やれやれと肩を竦めるしぐさなんかは、完全にアメリカナイズされていると思う。私はプロセスを楽しむことも忘れ、一気に黒のボクサーショーツを奪い取った。

「どうぞ、氷室も私に触っていいよ? あいにく脱がすものは何もないけれど」
「最高の誘い文句だね。じゃあ、遠慮なく」

 扇情的を装ったせりふに、ほんもののコケティッシュな返事が返される。ふたたび、ぞくり、とした。その一瞬の隙を突かれ、首をぐいと引き寄せられる。息という息ができなくなる。肺呼吸する哺乳類が、その肺呼吸を潔く捨てた瞬間である。

 私たちはふたりとも、手と手、肌と肌、それらの完全なる接触に酔い始めていた。彼に伸しかかった体勢のままで、くちびる同士で息を圧縮し合うのを楽しむ。こんなにも脳の芯を熱くさせて、こんなにもくだらなくて、こんなにもいやらしいことをしていながら、私たちはちゃんとしたこいびと同士にはなれないでいる。だけど、肌の境界線を失くす行為に没頭し続けていればいつか――だなんてひとすじの希望が、いつだって脳裏に過ぎっている。

 だからものごとは厄介。簡単には彼を手に入れられない。簡単には自分を明け渡せない。大人の駆け引きって、実はいちばん子ども染みているんじゃないだろうか。――私はひとつ呼吸を吐いてから、未だ手に取ったままの彼の下着を、後ろ手に勢いよく投げ捨てた。



2012/10/04 → 服底の攻防さまへ提出

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