何処か澱んだ冷たい空気が揺れる薄暗いその部屋の匂いに、男は既視感を覚えた。
普段は彼の思考する臓器の奥底へ閉じ込めた、いや、身を潜めているその記憶が笑った気が、した。
落ち着かず、彼は先程胸元の懐中へしまったばかりの古めかしい銀時計を取り出して、また細工のほどこされた蓋を開ける。
数字の刻まれた盤の上で、三本の針がばらばらの数字を指している。
一本は忙しなく動いて止まることはなく、二本は殆ど動かないままにその一本を見詰めていた。

一時三十七分十五秒。

唇だけを動かして現在時刻を読み上げ、かちりと銀時計の蓋を閉めた。
もう一度懐中へ銀を仕舞い込み、男は、ふるり、と長く伸ばした髪を髪紐と髪留めで纏めた水色の頭を振る。
彼は、ヴェラドニア軍衛兵隊所属クリス=セレンタロードは、重い鋼鉄の扉をさらに押してその狭い部屋の中へと入っていった。
彼が踵を反してこの部屋から立ち去らないのは、自分の悪夢と立ち向かう場所と聞いていたからだ。それを了承してきたのだから、一度手のひらで押した扉から手を離して背中を向けることはしない。
青いヴェラドニア軍の制服を纏った身体が冷たく暗い部屋にすっかり飲み込まれて、今は後ろに存在している扉から手を離すと、扉が自重でゆっくりと背後で閉まっていく音がした。やがて、鉄の扉が壁と一体になる、その瞬間の音。
それは彼の夢の合図だった。


部屋は変わらず薄暗かったが、扉が閉まっても何も見えない闇ではなかった。明かりはきちんとついているらしい。
試しに、クリスは沈黙する鉄の出口を調べた。……聞いていた通り、やはり開かない。やれやれ、と肩を竦めて、青の前髪の下の赤い瞳で部屋を見渡す。
何もない部屋だ。灰の混凝土が剥き出しの四方、広いとはいえない部屋。正方形の形をしているらしく、ちょうど賽子の中へ閉じ込められているようだ。
賽子の中に閉じ込められているから、振って運試しも出来はしない。
クリスは端に置かれた食糧のもとへと歩き、その一つの真っ赤な林檎を手にとって弄びながら、悪夢とやらを待った。
彼の胸の時計の秒針はもう何回か同じ数字を指している。もう一度あたりをぐるりと見渡して、不意に、冷えた地下の大気に混ざり混む鉄の臭い。
鼻腔を満たすそれに思わずクリスが顔をしかめたとき、不意に壁以外何もないはずの背後から両手を捕らえられた。
「っ……!?なっ、……!?」
クリスの視界の端に映ったのは、舞う自身の灰青の髪と、思わず振り上げた制服の青に包まれた右腕。
右のその手首には鎖の付いた鉄の拘束具の姿。見えない左腕も同じだろう。
そのままずるりと両手首から伸びる鎖で後ろへ引っ張られ、不安定になった姿勢のまま壁に背中を強打する。
クリスが背骨の痛みに眉間に皺を寄せてずるずると腰を落としたときには、クリスの両腕は半ば上がった状態で壁に張り付けられていた。
両手に嵌められた鋼鉄の手枷、そこから伸びた鎖は壁にある突起に繋げられて固定されている。宙吊りとなった彼の両腕。
何やら息苦しいと思っていると、クリスは首までも壁から伸びた枷で拘束されていて、動くことを殆ど許されなくなっていた。
拘束されている間に部屋はいまのクリスの姿に相応しく、あちらこちらに異形の道具と拘束具が備えられた拷問部屋と変化していた。
どうやらクリスの記憶から作り出したらしく(話には聞いていたがどういう仕組みなのかさっぱりわからない)、そこは軍の地下にある拷問室の一室だということがすぐに分かった。軍部専属の拷問師であるクリスには見慣れた部屋だが、何処か彼には違和感を感じる部屋だった。
軍に拷問室は幾つかある。彼がいつも使うのは階段で地下へ降りて見えるその血生臭い部屋たちのうち、手前より二番目の部屋だった。
二番目の部屋にはクリスが捕虜相手に使う薬品やその解毒剤の入った小さな棚がある。だが此処にはそれがない。
そして彼はその二番の部屋以外は――いや。
「……ここ、は……」
僅かに震えた唇が言葉を落とした。クリスは二つの部屋の拷問室を使ったことがあった。
一つは、薬品の棚がある部屋。
もう一つは、地下の一番奥、クリスが「使った」のではなくかつて「使われた」部屋。
動きにくい首をやっと動かし、混凝土の壁に久しく見ていなかった特徴的な傷を見つけ、間違いないと確信する。ここは、。

「ここで話すのは久し振りね、クリス君」

拘束されて立ち上がることも出来ないクリスを見下ろすように、落ちてきたのは女性の声。聴き覚えのあるその声に、首輪に締め付けられるのも構わず顔を跳ね上げた。
いつの間にか目の前に立っていた軍帽を深く被った軍服姿の女性が、クリスを見下ろしている。
身に付けた軍服はデザインこそクリスのものと同じだが僅かに色が違う。それは専属の教官であることを意味していた。
帽子からこぼれ落ちる深い赤の髪、僅かに覗く瞳の色に、ぞくりとクリスは背中が粟立つの感じる。唇の端から言葉が落ちた。
彼女を、呼んだ。

メイ、きょうかん、。

クリスの言葉に、彼女は、ディアス=メイ=アイゼンはにこり。微笑む。軍帽の下で微笑んだ。




 元は実戦部隊に所属していたクリスが衛兵隊へと移動したのは中尉へ昇進した二年前のことだ。体や心を壊したわけでは無かったが、衛兵隊で尋問官、また拷問師として動いてくれないかという頼みがあっての移動の承諾だった。しかし、当時のクリスには尋問の経験は幾らかあっても拷問に関する経験と知識は殆ど皆無に近かった。実戦部隊として軍に入隊してからの十年間を前線で動いていたのだから当然といえば当然だ。その為に当時のクリスに一人の女性拷問師が教官としてつくことになる。その女性教官が、ディアス=メイ=アイゼン。軍でも名高い凄腕の拷問師、という噂はクリスの耳にも届いていて、初めて顔を会わせるときは緊張したものだった。しかし、紹介されたメイは小柄な女性で、まさか彼女が拷問師だとはとても思えない可愛らしい女性だった。だが、それは一瞬だけの思考だった。彼女は互いの自己紹介を終えると初対面のクリスに突然手錠をかけ、拷問室へ(壁に特徴的な傷の走る地下の一番奥の部屋へ)連れていき、そのまま訓練と銘打った拷問を、拘束したクリスに始めたのだった。二年前、クリスが衛兵隊へ移動した日のことである。そしてそのままメイが軍を引退する一年後まで、クリスは彼女の拷問を訓練という名目で受け続けることとなったのだ。彼女の異能の御陰で、クリスには全くその時の怪我は痕すらも残ってはいないのだが。




武器を握り続ける軍人特有で少し皮膚が固くなった、それでも細くしなやかな女性らしい指がクリスの顎を掬い上げる。
くい、と持ち上げられて無理矢理交差させられた視線。
目を逸らすことだけなら今の彼でも可能であるのに、クリスは眼球が石で作られでもしたかのように視線を固定させたままだ。
彼女は再び微笑んだ。氷を薄く顔に伸ばしたような冷たい笑みだった。
「折角だもの。拷問の訓練でもつけてあげましょうか、クリス君?」
メイの吐き出した言葉が全てクリスの耳にへと届く前に、クリスの腕を拘束する左手の枷がぱきんと弾けた。
先程まで宙に釣られ、そして突然支えを失った腕が重力に従って落下する。その手をメイは素早く捕らえて、地面へと押しつける。
クリスの手を押し付ける右手の逆の手の指は、先を鋭く尖らせた鉄の棒に絡まっている。何をするか分かる、と彼女は彼に尋ねる。
クリスの赤い視線は相変わらずメイに張り付けられたままで動かない。
クリスの一段と強張った表情に、分かるわよね、また彼女は笑う。
この細い鉄棒は爪を剥がし取る道具だ。爪の間に深く差し込んでそのまま引き上げて、爪を無理矢理に指先の肉から引き剥がす道具。
押し付けたクリスの左手の人差し指に、冷たい鉄を押し当てる。
離してくれませんか、とか細いクリスの声が、逃げようとする彼の左手に落ちた。
それをメイの右手はさらに強く押し付けて逃がさないようにする。
「痛みを思い出すのも悪くないと思うわ」
クリスの指先に押し当てた金属に、力が込められた。




メイの教えを受けた一年のうちにクリスの拷問の技術は格段に向上したが、比例するようにクリスの精神は削られていった。
異能で怪我は全て跡形もなく治癒するとはいえ、記憶は残ったままなのだ。
そしてそれが毎日のように繰り返されれば勿論疲弊も仕方がない(クリスが後に聞いた話になるが彼女の訓練に耐え切れたのは結局クリスただ一人きりだという話)。
だが彼女が一年で見せたのは冷酷な拷問師の仮面を被ったその表情だけでなく、一人の女性としての柔らかな面や強さもクリスに垣間見せた。
……きっと他人に話せば頭がどうかしていると笑われるだろう、とクリスは何度も考えて自分を笑ったものだった。
爪を剥がれ、皮を剥がれ、皮膚を焼かれ、肉を裂かれ、骨を砕かれた時すらもあったというのに、その苦痛を与えた張本人をいつしか、。





「なんだ、クリス君」


一度きょとんとさせた表情を笑みに転じさせて、メイは微笑んだ。

「クリス君、君はとっくに自由なんじゃない」

金属を握る彼女の左手首を掴んで押さえるのはクリスの右手。先程まで彼の腕を縛り上げていた拘束具は跡形もなく消えている。
首元からも枷は消えていた。彼は何にも拘束されていなかった。クリスはそうだよ、と彼女に微笑む。まだ少し強張っていたが、落ち着いた柔らかな微笑みだった。
「これは僕を縛り付けていることじゃない。今だに苦手なのは本当だけれどね」
掴んでいたメイの左手首から右手を離す。彼女の手にはもう凶悪な道具は握られていなかった。
最初からそんなものなどなかったというように、彼女の手の中には何もなかった。
「あら、正直ね。……そうね、貴方が縛り付けられているのは、」


扉の向こうにいる私、でしょう。


微かに笑い声を零して呟かれたその言葉に、クリスは微笑んだまま何も答えなかった。何も答えないクリスに再び微笑みかけ、彼女は言葉を続ける。
「私はディアス=メイ=アイゼンであって、ディアス=メイ=アイゼンではないもの。君の知っていることは彼女が知らなくても私は知っているし、君の知らないことは彼女が知っていても私は知らないわ」
だから私は君の思いを知っているけれど彼女がどうかは分からないし、ここでは尋ねたとしても彼女の思いは分からないよ、という言葉にクリスはただ、短く答えた。
分かっている、と。
そう答えて立ち上がり、彼女をもう一度見つめるとそのまま彼は靴の音を微かに響かせて閉じられた扉へと足を進めていった。
クリスが一歩踏み出すたびに辺りの景色は崩壊し、血の匂いを纏う軍の拷問室から元の殺風景な灰の混凝土の地下室へ。
還元されていく。
すっかり部屋が灰にへと戻ったとき扉へふわりと手を当てた、クリスはふと動きを止めて、未だ後ろにいる彼女を振り返りはせずに尋ねた。
念の為に、と言葉を置いて。
僕はもうここから出れるんだよね。打ち返された返答は、勿論、の四音。その後に続けて彼女は言葉を再度紡いだ。


だってここは過去に打ち勝つ部屋だもの、過去に屈していないクリス君にはとっくに扉は開かれているのよ。


未来の扉が開くかは君次第だけれども、と。その言葉を背中に受けて、クリスはまるで羽で作り替えられたかのように軽くなった扉を押し開けた。



20120906 幻痛





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