開け放たれた窓からは太陽の光と優しい風が入り込んできて、カーテンがふうわりと花嫁の純白のように風を孕んで。
ベッドの上に腰掛けて、床に到底つかない足をぶらぶらと動かして。
綺麗な色の表紙で閉じられた絵本を片手に、まだ舌足らずに喋る小さな弟に話した、記憶。


エリィ、お姉ちゃんには王子様はいないのよ。
だってアリスには王子様はいなかったでしょう。


十二時までの魔法を与えられた硝子の靴の彼女でもなく、茨に覆われた城で眠り続ける彼女でもなく。不思議の国の彼女に、小さな自分は憧れていた。
銀時計を持って駆けるあわてんぼうの白兎。にやにやと笑ってすうと消えてはふらりと現れる猫。頭のおかしな帽子屋と三月兎。
白薔薇を赤に塗り潰すトランプの兵隊、首をはねろと叫ぶハートの女王。
何処か歯車のおかしい世界を旅した彼女に憧れて、ただそれだけの理由で、王子様はいないと、小さな弟に笑って言った。
何時しか、綺麗だった絵本は何度も何度もページを捲ってぼろぼろになって。つっかえながら読んでいた絵本の文章はもう空で言える程になって。
少女ではなく女性になってもう彼女に憧れてなどいないのに。いつの間にか、彼女になっていた。
見える世界は、自分だけ何処か歯車がおかしい。不均衡の世界。
昼の空には、けらけらと笑う小さな羽の生えた少女たちが見える。夜の扉の隙間からは、黒くて刺々しい化け物が見える。
愛の区別がつかない。家族ではない他人を愛するということが分からない。家族ではない他人に愛されるということが分からない。
けらりと、絵本を抱えた少女の自分が言う。


だってありすにはおうじさまはいないものね。


そう、アリスには彼女を助けてくれた王子さまはいない。彼女は一人で不思議の世界へ飛び込んで、そうして一人で現実の世界へ戻ってきた。
でも、本当にそうだったのだろうか?彼女は本当に、御伽の世界から姉が読書をする川原へと、戻ってこれたのだろうか?
また、少女の自分がけらりと笑って、。




はっと、木の机の上で目覚める。人気の無い軍の食堂の机。残った仕事を片付けて、少しぼんやりと机に座っていたらそのまま机に突っ伏してしまったらしい。
居眠り特有の喉の乾き。何か喉を潤すものはないかときょろりと辺りを見渡した拍子に、ずると肩に掛かっていた布が落ちてきた。
床に落ちてしまう前に青いそれを掴む。毛布、にしては固い布地のそれを広げれば軍服の上着だった。
男性用らしい大きなそれに見覚えがない、誰かが眠っている間に掛けてくれたのだろうが辺りには誰もいなかった。
かくんと首を傾げてから、何か手掛かりになるものはないかとばさばさと上着を広げる。懐中には何も入っていなかったが、小さく刺繍された名前を見つけた。

G e n e.

まだ眠気でぼんやりとしている頭でその名前を認識してから、あら、と首をかくん。また傾げる。
この名前を持つのはたった一人にしか心当たりはなかったが、はて。彼はいつも腕を大きく晒した身軽な姿でこんなものを着ていたかしら。
眠気の醒め切らない脳、けれども確実に覚醒はしていて、ああと声を上げた。
今日は軍の一番偉い人が軍人達を集めて喋る日で、弟もいつもまくり上げている軍服の袖を下ろして軍帽までも被っていたから。
だから彼も普段は持ち歩きもしない上着を持っていたのだろう。そして、居眠りしている自分を見つけて掛けてくれたのだろう。
返すときにお礼を言わないといけない、と、大きな服を机に広げて畳む。ぽふぽふと布地を動かす拍子にさっきまで直ぐ側で鼻を擽っていた匂いがする。
彼はいまそばには居ないのに、思わずぐうるり。食堂を見渡した。しんと静寂ばかりが漂って、誰もいない。
焦燥に似たような、けれども違うような、そんな味のする感情。どうやら、いつも彼に対して抱いている感情。
分からない、と、呟いた。


20120612 人形が渇望せしもの



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