先に堕ちたのはどちら

「好きだよ、加奈くん。今日も振り向いてくれないのかい?」
 背後から私を抱きしめるユザワさんが耳元で囁く。こういう時は振り返らないと決めているので、どんなに甘い言葉を掛けられてもだんまりを決め込むのだ。
 ひょんなことから気に入られて、カフェでお話しをするようになり、とんとん拍子に私の部屋へと通うようになったY談おじさんことユザワさん。
 最初は楽しくお話しをするだけだったのに、形のいい唇からはいつからか私を口説くような言葉が発せられるようになった。
 こんな時は決まって――吸血鬼は享楽主義者である――そんな言葉が頭を過る。特にユザワさんは他者の性癖を暴くのが趣味というような吸血鬼だ。私のことも一時の玩具だと思っているのは想像に容易い。

「私がこんなに時間をかけて口説いているのなんか君くらいだよ。こちらに顔を見せてはくれないのかい?」
「誰にでも言っているんでしょう?」
「誰にでもという訳ではないさ。まあ、過去を通して君だけという訳ではないけれど、今は君だけだよ」

 そう言って旋毛にキスを落とすユザワさんに、今だけは一番になれているのかな、と馬鹿げたことを思う。私も既にユザワさんに好意を持ってしまっているから、この距離を許しているというところはある。
 彼の言葉を受け入れないのにこんな風に触れられるのは許容しているのだから、私も大概だ。
――ユザワさんのゆったりとした話し方が好きだ。私を蕩けさせるような声が好きだ。優しく、それでいてしっかりと彼が触れていると感じさせてくれる触れ方が好きだ。
 彼の好きなところを上げればキリがない。しかし、彼の言葉を信用して受け入れてしまうことには抵抗があった。

「私にここまで許すくせに、君は肝心な部分には触れさせてくれないよねぇ。どうして?」
「だって…………やっぱりなんでもないです」
「そこまで言われてあとは秘密、だなんて気になるじゃないか。ね、話してごらんよ。それとも話したくなるようにしてあげようか?」

 ねっとりとした声が既に朱に染まっているであろう私の耳に纏わりつく。今日のユザワさんはいつにも増して強引なのは気のせいだろうか。彼は何処からか愛用しているステッキを取り出し、私の目の前にそれを掲げる。

「ユザワさんのお好きなY談ではありませんよ」
「なに、私は能力をY談を喋らせることにしか使わないだけで、やろうと思えば真実しか話せないようにもできるのだよ」
「え、嘘……」
「一応私も旧き血の吸血鬼なのでね。できてしまうんだよ、これが。強制的に口を割らせるのも一興だが、私としてはやはり君自身の口から聞きたいものだ。さて、どちらがお好みかな?」

 とん、とステッキを胸に押し当てられると、いつこれが光ってしまうか気が気でなくなる。この人の言う『強制的に喋る状態』はいつもの催眠の精度を見るに、本当になんでも話してしまうのだろう。
 そう考えれば、自分の意思で話した方が幾分かマシであるように思えた。

「だって……ユザワさんは、私みたいな……真面目な女性を落とすのがお好きなんでしょう?」
「……んん、まあ否定はしないが。続けて?」
「わ、私が貴方に堕ちたら、言葉を受け入れてしまったら、そこで終わり、だと思って……」

 そう、これは貴方にとってのゲームの一つに過ぎない。危ない大人に堕ちそうにない女性に甘い言葉を掛けて、懐柔して、自身の手のひらの上に堕ちて来たらクリア、という至極単純で悪趣味なゲーム。
 それをクリアされてしまったら、私と彼の関係が終わってしまうと解っていたから。何度も与えられる甘美な言葉を受け入れる訳にはいかなかった。

「つまり君は……私の想いを受け入れたらこの関係が終わってしまうと思っていた、ということかな?」
「そう、です、ね……私なんか貴方の数多くある玩具のうちの一つに過ぎないことは解っているので」
「君が?数多ある玩具のうちの一つだって?はは!笑わせてくれるね!」

 私の言葉を聞いた途端、ユザワさんが大仰に笑い始めた。何もおかしいことは言っていないはずだ。一時の玩具でしかない私。事実だろう。
 彼は心底楽しいと言わんばかりに抱き締める力を強くし、私の肩口に顔を埋めた。

「確かに最初は君のことを楽しそうな玩具だと思っていたよ?でもね、君がいくら言っても靡いてくれないから、ここにまで通い詰めるようになって、気付いたら私の方が先に堕ちてしまっていたのさ」
「そんな、はずは……」
「信じられない?まあ、それもそうか。その点については私の自業自得だと認めよう。しかし、私が君のところに通い詰めて何年になるかは覚えているかな?」
「二年、いや三年?でも、私にとっては長い時間ですが……貴方にとってはこの程度、瞬きほどの時間でしょう?」

 そう、貴方にとっては一瞬の出来事。ずるずるとそれを引き延ばしていたのは私の方。
 でもそれももう終わってしまう気がするけれど。

「その間、私が君に触れる以上に手を出したことはあったかい?」
「ない、ですけど……」
「いかに非力な私とて、やろうと思えば出来るんだよ?むしろその手のことは得意とさえ言ってもいい。その私が手を出していないという意味、賢い君なら解ると思うけどね」

 私ならわかる?そんな訳ないだろう。貴方の言葉の真偽さえわからないのに。
 そんなことを言われてしまったら私の都合の良いように解釈してしまいたくなるじゃないか。貴方の言葉は虚構でなく、真実であると。
 彼の言葉の意味を理解したくはなくて、私は強気な姿勢を崩すまいと敢えて反論するような言葉を選んだ。

「そんなの、そういう縛りでやっていただけではないんですか?」
「ああ、もう。聞き分けのない子だ。用心深いのは良いことだけれど、それも私以外にしておくれ」

 俯く私の顎をすくい、ずっと逸らしていた目線を合わせられる。こうなる時はいつも目を合わせていないから知らなかった。私を見る貴方がこんな顔をするなんて。
 普段は胡散臭いほどにこやかな笑みを浮かべるだけの癖に、今は熱を帯びた目が、愛しいという気持ちがありありとわかる表情が、私に向けられる。

「ユザワさ、」
「黙って」
「んッ……」

 性急に重ねられたその唇は、何度も何度も私の熱と吐息を奪う。平素の紳士然りとした彼の態度からは考えられないような口付けに、困惑と歓喜とが混ざり合って思考が溶かされていく。
 苦しくて少しだけ目を開けると、彼の紅い瞳の中で情欲の炎が揺らめいていた。彼は私が目を開けたことを咎めるように、また口付けを深くする。

「どう?解ってくれたかな?私が君に本気だって」

 息も絶え絶えになり、私が腰を抜かした頃。名残惜しくも彼の唇は離れていった。
 たしかに、彼の想いは伝わってきた気がする。のらりくらりと口先だけで伝えてきてくれていたものが、現実味を帯びた質量で感じられたような。
 私も、素直になってみてもいいのかもしれない。

「ほんとはまだ、少し不安、ですけど……ユザワさんのこと、信じてみてもいいですか……?」
「勿論だとも。君を愛しているよ、加奈くん。今宵の紅い月に誓おう」
「わ、私も、ユザワさんのこと……好き、です」
「やっと言ってくれたね。まったく、私をこれだけ振り回せるのは君くらいだよ」

 やっと正面から見ることのできた顔に満足して、初めて私から彼に抱きついた。随分と前からしたかったことがようやく実現できて、心が満たされていく心地がする。
 ふわりと香る彼愛用の香水に安心して、そういえばいつからか甘ったるい香りがしなくなったなと思い返す。彼の誠意がこんなところに現れているなんて思いもよらなかった。

「じゃあこれまで通り、ここに来てくれるんですか?」
「ああ、その点に関してはノーだ」
「え?」
「今まで通り、なんて味気ないじゃないか。これまでの微妙な関係は終わりにして、君と恋人という新たな関係を始めたいと思うんだが、いかがかな?」
「よ、喜んで……!」
 
 こ、恋人!ユザワさんの口からそんな言葉が出てくるとは思っていなくてびっくりした。これから、そうかこれからがあるんだ。
 貴方のこれからに私が居られるなら、そんなに素敵なことはないだろう。

「じゃあキス以上のこと、しちゃってもいいよね」
「え?ちょ、ま……」
「私にしては十分待った方だよ。だから、ね?」

――君の性癖を聞かせて?

 とびきり艶めいた声で発せられた言葉。聞き慣れているはずのそれがとても特別なものに聞こえてしまうのだから、私はとっくのとうに重症なのだ。
 私が貴方に靡いていない?そんな訳がない。ずっと前から、私は貴方に堕ちている。


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