能ある貴方は爪を隠す(8パロ:893夏×年下大学生)

 茹だるような暑さの中、アパートの階段を昇る。少し上り下りするだけで音を出すようなボロい階段があるアパートはセキュリティ面に問題があるかもしれないけれど、学生には優しい家賃で住めるから問題ない。
 買い物した後のエコバッグをぶら下げながら建て付けの悪い階段を登り切れば、いつものようにその男は立っていた。

「やあ、今日も会ったね」
「こんにちは、夏油さん。今日も大変ですね」
「全くだよ」

 黒いスーツに黒ネクタイ。それに加えてハーフアップにした黒髪。どこをとっても黒一色のこのお兄さんの名前は夏油傑。私のお隣さんのところへ週一でお金を催促に来る人で、明言されたことはないけれど、多分ヤのつく職業の人だ。
 なんでそんな人と挨拶をするような仲になってしまったかと言うと、それは一年と数ヶ月前に遡る。







 桜咲く季節、私がこのアパートに越して来た頃。夕方にドンドン、とドアを叩く音が部屋に響いた。初めはなんだかわからず、怖いので無視をしていたのだが、ドアを叩く音は大きくなるばかり。
 観念して恐る恐るドアを開けると、そこには上から下まで黒づくし、目つきがすこぶる悪い男が立っていた。

「あれ、ここって鈴木さんの部屋じゃないの?」
「鈴木さんはウチの隣ですけど。間違ってドア叩いてたんですか?」
「ああ、てっきり君の部屋がそうだと思っていてね。うるさくして申し訳なかった」
「間違いだって分かったならいいです。次は間違えないようにしてください」

 男は私が部屋主だとわかるとその鋭い眼光を消し、下がり眉で謝罪をしてきた。こんな態度を取っているが、内心は心臓バクバクである。出来れば私はあなたみたいな危ない人と関わりたくないんだ。早く立ち去ってくれ。

「本当にすまなかったね。これで失礼するよ」

 そう言うと黒づくめの男は思ったよりもあっさりと帰っていた。私はお隣さんじゃないし、もう関わることはないだろうと思っていた。
 しかし翌週、今度はチャイムが鳴った。宅配か何かだろうかと開けた扉の先には、またしても黒づくめの男が一人。あの人だ。

「や、先週は申し訳なかったね。これお詫びにと思って」
「いや、こんなものいただけませんよ。ただの間違いでしたし」

 手渡されたのはお高いと有名なチョコレートのブランドの箱だった。丁寧に包装されたそれがこの箱の中身が高価だと物語っている。こんな人から物を貰ってしまうだなんて少し怖い気がして、箱を押し返した。

「でも関係ない君に怖い思いをさせてしまったから。実際怖かっただろう?」
「まあ、それは……そう、なん、ですけど……」
「じゃあ尚更もらってほしいな。私の気が済まないから。ほら」
「ありがとう、ございます」

 断りきれずに手の中に収まった箱がその重みを主張する。まだ夏でもないのに、じわりと手に汗が滲んだ。そんな私の様子を気にしたのか、お兄さんはふわりとこちらに笑いかける。

「そんなに警戒しなくても、何も入ってないから大丈夫だよ。なんならここで私が一粒食べようか?」
「い、いや、そういうんじゃないので!大丈夫です」
「そう?ならいいんだけど。あの時はほんとにごめんね」
「お気になさらず……」
「うん。ありがとう。じゃあ私はこれで」

 にこりと笑って彼が背を向ける。しかし、その途中でくるりとこちらに向き直ると、「私、夏油傑って言うんだ。よろしくね」なんて言って去っていった。いや、よろしくしたくはないんだが。その時のお兄さん、否、夏油さんはバックに赤々とした夕陽を背負っていて。赤と黒のコントラストが怖いほど綺麗だったことを覚えている。







 こんな感じが私と夏油さんとの出会いだ。毎週会う夏油さんとは当初の「関わりたくない」という思いとは裏腹に挨拶をする仲である。否、もう少し踏み込んだ仲かもしれない。
 
「今日はほんと暑いですよね。麦茶でも飲みますか?」
「いいのかい?良かったらいもらえるかな」
「ちょっと待っててくださいね。あれだったら玄関先まで上がっても大丈夫なので」
「年頃の女の子が気軽にそんなこと言うもんじゃないよ。私は大丈夫だから気にしないで」

 雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も。彼は毎週このアパートへ来てはお隣さんを待っている。そんな姿に絆されてしまったのか、雨の日はタオルを貸したり、寒い日は温かい飲み物を出したり、今日みたいな日は冷たい飲み物をあげたりして、結果的に仲良くなってしまった。
 なんだけど、夏油さんは玄関から先の私の領域、ドアから先には頑なに入ろうとしない。雨の日や寒い日なんかは玄関先までならと何回か言ったことはあるが、全て先ほどと同じような口上で断られている。こんな見た目に反してそんな気遣いが出来る人だから、というのも夏油さんと仲良くなった理由の一つかもしれない。
 買ってきた物をとりあえず冷蔵庫に放り込む。麦茶を大きめのグラスに注いで部屋を出れば、少しお疲れ気味でふにゃりと笑う夏油さんが私を出迎えた。

「これ、どうぞ」
「ありがとう。さっそくいただくね」

 大きめのグラスだと思ったそれは、夏油さんの骨張った大きな手に収まると少し小さいように見えた。夏油さんはグラスを傾けて麦茶を煽る。上下する喉仏からなんだか目が離せなくて、結局彼が一気に中身を飲み干すまで見つめてしまった。

「生き返ったよ、ありがとう。君は優しいね」
「いえ、夏油さん大変そうなので」
「こんな私でも優しくしてくれるんだから、君は本当に心が広いよね。私がどんなことしてるか、大体予想はついているだろうに」
「今はそういうの、関係ないので。というか私の部屋の前で干からびられても困りますから」

 私の言葉を聞いた夏油さんは少し驚いた表情をした後、「たしかに私もミイラにはなりたくないかな」なんて苦笑している。それから少し立ち話をして私は部屋へ戻った。

 部屋へ戻ると、締め切った部屋特有の蒸し暑さが身体に纏わりつく。そんな中、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。

「うぅ…………」

 外には聞こえないように、枕に顔を埋めながら声を出す。このアパートに友人や知り合いがいない私にとって、なんだかんだ夏油さんと話をすることが楽しみになってしまっている。それどころか彼のことを少し、いやかなり好きになってしまっている自分がいる。柄の悪そうな見た目に反して丁寧な物腰、柔らかな笑顔。楽しい会話の中にもちらりと見せる男性特有の仕草はどきりとするものがあるのだ。
 分かっている。これは不毛な恋だ。そもそも歳が離れているし、あちらとこちらでは住む世界が違う。踏み入るだけ悲しくなると分かっていても、その先を期待してしまう自分が馬鹿みたいだ。
 そう思ってはいても、すっぱりと諦められるほど経験がある訳でもなくて。ぐるぐると回る思考の中で、外から聞こえる蝉の声がやけに耳に響いていた。











 時は進んで九月。まだ暑さも残るこの頃。今日はこの地方に大型の台風が接近していて、大学の授業は午前までやって後は休講になった。それでも雨足は強く、傘は役に立たないほどの風。レインコートじゃないと雨を防げないくらいの暴風雨の中、私はアパートへの道を急いだ。
 やっと着いた、そう思った頃には足元がびちょびちょに浸水していて。帰ったら靴に新聞紙突っ込まなきゃ、なんて思いながら立て付けの悪い階段を登る。そして登り切ったその先には見覚えのある黒い影が見えた。しかも傘もささないまま。それを認識した途端、私は彼の元へと駆け出していた。

「夏油さん?!こんな日にどうしたんですか?傘は?!」
「ああ、君か。こんな日だからこそ少しは、と思ったんだけど、そうもいかなくてね。傘……は途中で壊れたから捨てちゃった」

 ずぶ濡れのまま、夏油さんはへらりと笑ってみせた。そんなに濡れていたらいかにそちらの家業の人であっても風邪をひいてしまうだろう。私はポケットから急いで鍵を取り出すと、自分の部屋のドアを開けた。

「そんなところにいたら風邪引いちゃいますよ!玄関入ってください!」
「そんな、悪いよ……」
「私、気にしませんから!」
「いや、でも」
「夏油さんなら構わないので、入ってください!」
「ほんとうに、いいんだね?」

 いいんですよ、と遠慮する夏油さんの手を強引に引いて玄関に引っ張り込む。そうすると意外にも夏油さんはすんなりと玄関に入って来てくれた。かちゃり、と音がした気がしたが、夏油さんが鍵を閉めてくれた音だろう。こんなところまで気が遣えるなんて、さすが夏油さんだなぁと思いながら、レインコートを脱いで鞄を玄関先に置いた。

「少し待っててくださいね、タオル取ってきます」

 夏油さんには少し玄関で待っていてもらい、脱衣所へとタオルを取りに行く。相当濡れていたからたくさん拭くものが必要だろうと、大きめのバスタオルを何枚か抱えて玄関へと戻った。

「夏油さん、これで身体拭いてくださ……」

 そう言って差し出したタオルは受け取られることはなく、気がつくと私は夏油さんの腕の中にいた。ぱさり、行き場を失ったタオルが足元に落ちる。
 何が起きたのか突然のことに状況が飲み込めない。わかるのはただ、抱きしめられているその身体が酷く冷たいことだけ。

「私、言ったよね……?年頃の女の子が気軽に異性を部屋に入れちゃいけないよ、って」
「で、でも夏油さんは、変なことしない……じゃないですか」
「さあどうかな。私だって男だよ。酷いこと、されちゃうかもしれないね」
「そ、そんな」

 耳元で囁かれるその言葉にぴくりと身体が跳ねる。冷たい体とは違って熱を帯びている吐息に、こちらが熱くなる気がした。

「私は気が長いと言われる方なんだけど、生憎もう我慢の限界でね。私に気に入られたのが運のつきだと思って……大人しく受け入れてくれ」
「げとう、さ……ンッ!」

 その言葉を合図に顎を掴まれ、強引に唇を奪われる。急に感じたその感触に驚いて目を見開けば、夏油さんと目線が交差する。初めて会った時とは違う種類の、私を射抜く視線。それに加えてその瞳の奥には欲望の炎が揺らめいている。

――ああこれは。もう、逃げられない。

 深くなる口付けの中、他人事のようにそんなことを思う。きっとこれから私は爪を隠していた獣に食べられてしまうのだろう。私を掻き抱く彼の腕の強さに、そんな確かな予感を覚えた。


[目次へ]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -