目の前にそっと手を伸ばす。そこには透明の壁があり、掌が、つるりとした、その硬い冷たい面を撫でる。ガラス越しの世界は、なんとなく歪んでいて、そしてどんなに綺麗に磨いても、少しだけ、曇っている。私はこんなガラス越しに眺める世界が決して嫌いではない。
カチャカチャと、ガラス同士のぶつかる高い音、ちゃぷりとした液体の音。
神経質に、根気を使う作業を厭きずに続ける志保ちゃんの真剣な顔や、時折見えるつむじを上から眺めているのは、存外落ち着くものだ。

「ねえ、出来た?」

タイミングを見計らって声を掛けると、「そう簡単に完成するものじゃないわ」と冷静に返される。うーん、今日もクールだこと。
ガラスの縁に手を置いて、直接外を覗いたら、「また倒れても知らないわよ」とこっちに目線なんて向けていない筈の志保ちゃんに注意された。
それは、ちょっと体重かけ過ぎちゃったり、興奮してぴょんぴょん跳んじゃった時くらいだもん。そんなにしょっちゅう起こらないもん。
体そのものは小さいものの、外見年齢は本来のままの私が、幼い子どものようなことをごにょごにょと言えば、志保ちゃんが「気を付けなさいよ」と溜息を吐いたので、私はむう、と頬を膨らせてから、再度、ガラスの底に沈んだ。なんだか最近、体のサイズと志保ちゃんの外見年齢に合わせて、私、幼くなった気がする。このままじゃ、いかん。

因みに、このお気に入りの場所がどこかと言えば、ビーカーである。
安全を考えて、志保ちゃんがいつも少し高いところに置いてくれる為、中に入っていれば、間違って危険な液体が飛んできても大丈夫だし、あと、中に座った時に、体がいい感じにフィットする。

私は最初からこの大きさだったわけではない。この体になったのは、今からもう半年以上前のことだ。一年は経ってほしくないな、と思っていたが、依然として戻る手立てのないまま、あと少しで一年を迎えようとしている。

私の両親は、科学者だった。何を研究していたのかは、よく分からない。ただ、ある夜、眠っているところを両親に起こされ、切羽詰まった顔の二人に逃げろだのなんだのと言われている間に、遠くてガラスの割れるような音がして…。気が付けば、顔を隠した知らない人達に囲まれていて、両親と共に、無理矢理変な薬を飲まされた。
私はそれで気を失ってしまったから、どうなったのかは知らないけれど、気付けば、家には両親も、押し入ってきた人達の姿もなく、…そして私は、まるでおもちゃかなにかの様に、体が小さくなっていた。
私の両親がいたのは、志保ちゃんが居た組織とは違う組織だから、両親が何を研究していたのかは、志保ちゃんにも定かではないそうだ。その組織が、志保ちゃんの組織に潰され、研究員として私の家の調査に来た志保ちゃんに見付かった私は、内緒で彼女のラボに匿われることになった。いつか、私を元に戻せるよう、薬を開発してくれると約束して。志保ちゃんは、素直じゃないけれど、とても優しい女の子だ。

志保ちゃんが組織を抜ける時も、彼女の白衣のポケットに潜んだ私は、志保ちゃんと一緒に居た。志保ちゃんの指示に従い、人目を盗んでちょろちょろと動いて、志保ちゃんがあの場所から抜け出せるよう、全力で動いた。
そして今、阿笠博士の家に居候しながら、私は毎日を地下室で、志保ちゃんと共に過ごしている。私の存在は、志保ちゃんからよく聞く、お友達の少年探偵団の皆も知らない。…知られたら、それこそ本物のおもちゃみたいに振り回されて、大変そうだ。
志保ちゃんから聞く話は、なかなか物騒なものが多くて心配になるけれど、段々と周りに心を開いていく彼女の様子には、喜びを抱く。大変な思いばかりしてきたこの子が、少しでも安らいで、楽しい気持ちで過ごせる場所が出来ることは、とても嬉しい。
けれど、外の世界の話を聞くことは、少しだけ、羨ましくて、妬ましい。私だって、こんなのことにならなければ、普通に、友達と遊んで、恋をして、楽しく暮らせていた筈なのに。
今の生活は嫌いじゃないけれど、やっぱり不便で、閉塞感はある。

「あー…暇だな」

今日は、志保ちゃんもいないし。
気分転換に、ビーカーの中で体操をしていると、扉が開いた。
どうして?志保ちゃんは今、いないし…ま、まさか、泥棒!?
開いた扉から覗いたのは、若い男だった。
やばい。目が合った。

「ホォー…これは」
「………(動くな。人形。私は人形)」
「今日は喋ってくれないんですか?いつも彼女と楽しそうに話しているのに」
「!?」

思わず、びくりと体を揺らした時、足が滑った。

「わあああっ」

ガチャン!

割れはしないものの、ビーカーごと、倒れた。
そして顔を打った。痛い。

「大丈夫ですか?」

優しく、左手の人差し指を頬に添えられ、どきりとした。温かい。志保ちゃんの方が、子ども体温で温かいし、指だって、柔らかいけれど。慣れない、かたい指のざらざらした感触に驚いて、暫くされるがままになっていたけれど、ハッと我に返った私は、その指を振り払って、倒れたビーカーの後ろに回り込んだ。ガラスだから何も隠せていないけれど、盾くらいにはなるかもしれない。無いよりはいいだろう。

「あなた何。泥棒?」
「いいえ、決して怪しいものではありませんよ。…とは、この家に侵入している分際で言えた義理ではありませんが」
「侵入してるんじゃない」
「阿笠博士の許可は取ってあります」
「え?」

予想外の言葉に、拍子抜けした。
いやいや待て、嘘かもしれない。

「嘘ではありませんよ。ただし、彼女は、このことは知りませんけどね」
「彼女って、哀ちゃんのこと?」
「そうですよ」
「あなた、何が狙いなの。哀ちゃんに何かしたら、許さないから」
「それは、僕も同じです」
「は?」
「彼女に危険が迫るのは、僕も許しませんよ」

なんだろう、こいつ。

「哀ちゃんのストーカー!?ロリコン!?」

イケメンなのに!顔だけなら、めちゃくちゃタイプなのに!

「いえ、そういうわけでは…」
「じゃあ、何だって言うのよ」
「彼女を守るよう、頼まれていましてね」
「誰に?」
「それは言えません。僕だって、貴女のことを何も知らないのに。こういうのは、フェアじゃない」
「ふぅん」
「そういうわけで、これまで僕のことを答えてきた代わりに、今日、僕が来たことはくれぐれも彼女には内密に」
「嫌よ」
「おや、駄目ですか?」
「あなたのことを内緒にする義理なんて、無いもの」
「それによって、彼女の身が守れるとしても?」
「…どういうこと」
「そのままの意味ですよ。彼女に知られていない方が、彼女の身を守りやすい」
「そうかしら」
「そうですよ」

まあ、何か事情があることは分かった。

「それでも、やっぱり難しいわ」
「何故ですか?」
「私、これでも沢山秘密を抱えているの。この体の大きさに見合わないくらいの。これ以上、秘密なんて、容量オーバーで詰め込めないわ」
「それならば、君の秘密をはき出して代わりに今日のことを詰め込めば良い」
「随分勝手ね」
「小さな一つの秘密で結構ですよ。君の名前を教えて下さい」
「へぇ、知らないの」
「いつもアナタとしか、呼ばれないでしょう?ずっと気になっていたんです、あなたの名前」

やっぱり、盗聴してるよね?こいつ本当にストーカーじゃないのかな!?

「ストーカーじゃありませんよ」
「なんで分かったの!?」
「その小さな顔に、これでもかという程、あなたの気持ちが滲み出ているので」

その言葉に、むっとする。すみませんね、分かりやすくて。

「…なまえ」
「なまえさんですか?」
「そう」

「さん」付けなんて。誰かに、こんな風に名前を呼ばれるのは、久しぶりだ。少しだけ、気持ちがしゅんとして、泣きたくなった。

「あなたの…あなたの名前も、教えなさいよ」
「沖矢昴です」
「オキヤスバル…」
「今は、隣の家に住んでいます」
「あ」

こいつ、哀ちゃんが怪しんでた、謎のハイネック眼鏡男か!

「…あなた、本当に怪しい人間じゃないの?」
「怪しまれるのは仕方が無いかもしれませんが、貴女方に危害を加えるつもりは一切無いことは信じて下さい。なまえさんの姿が元に戻れるよう、応援もしていますよ」
「それも知ってるのね…」
「ええ、まあ。今の小さい姿も愛らしいですが、出来れば、元の大きさになった貴女と、面と向かって話したいですね。僕に出来ることがあれば、協力しますよ」
「あ、ありがとう?」

そんな風に言われるとは思っていなくて、戸惑いながら、取りあえずお礼だけは言っておく。

「なにせ、僕は貴女に、興味があるので」
「え…」

その言葉の意味を考えている間に、沖矢昴の左手は、再度私の方に伸びてきて、今度は小指の先で、私の唇に触れた。こっ、これ、まるで、私が沖矢昴の指にキスしてるみたいじゃない!
カアッと顔に熱が集まる。それでも、今回はその指を押し返すことも出来なくて、口を触られているから、文句を言うことも、出来なかった。
やっと離れた小指を今度は自分の口元に持って行き、あろうことか、沖矢昴は態とらしくこちらを見ながら、ぺろりとその指先を舐めた。

「な、なな…」
「このサイズでは、こんな風にしか触れられませんから、ね」

早く元のサイズに戻って下さいと続けられて、素直に頷けるわけがあるか!

「いっいい今すぐ帰ればかー!哀ちゃんに言いつけてやるんだからー!」
「おっと、それは困ります」

内緒にして下さいね、と最後に言って(なんか楽しそうで腹が立った)、沖矢昴は大人しく部屋を出て行った。
なに、一体、なんなのあれは!

大声を出して、手を振り回して暴れた所為で、はーっはーっと肩で息をしながら、まだ熱い頬に触れる。
ああもう、なにがなんだか分からない。ぐしゃぐしゃと頭の中でこんがらがった思考は、体同様、いつまでも熱を持ったまま、暫くは冷めそうにない。

こんな気持ち、知らない。分からない。信用して良いのかどうかも分からない、謎過ぎるイケメンの、謎過ぎる行動。それに振り回されていることだけは、分かるけども。

「あー、もう」

秘密だけじゃない。こんなよく分からない気持ちも、この小さな体に収める術なんて、私は知らない。だから、許容オーバーだってば。




ついったーでの、女の子が小人サイズなお話を書く企画に提出

main

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -