※過去に男に浮気されてた設定の話


橋の上で手すりに寄りかかり、ぼんやりと景色を眺める。さっきまで見えていた月は雲に隠れてしまったのか見えなくなっていて、よく見る割に名前を知らない川の水面は黒く、この暗闇では澄んでいるのかいないのかもわからない。いつも昼間に見てるから、濁っていて到底きれいとは言えないことは、知ってるけれど。
そのまま川や空を眺めていた私は、唐突にこの半年間鞄の中に入れっぱなしの小さな箱の中身を思い出して、はぁ、と大きな溜め息を吐いた。
「最悪」の時期は、もう過ぎた。
それでも今でも鉛のようなものが体の中にあって、あれ以来いつでも体が重く、それを引き摺るようにして生きている。しかもその鉛は時折、ずしんと重さを何倍にも増してくるから、そんな時、非力な私はその場から動けなくなってしまう。
きっと、こういうところが、私は不器用なんだろう。
私は昔から、自分の感情を正しく認識することが下手だ。……そう、昔から。
最近、半年前の出来事を思い出すと、関係なんて何もないのにどうしてか昔の、恋にもならなかった憧憬を思い起こす。

「こんばんは」

穏やかな声が、静かで暗い夜の闇を震わせた。
驚いて声がした方を見れば、ほんの少し距離を開けたところに、綺麗な人が立っていた。
プラチナ色の長い髪を一つに束ねたその人は、密やかな笑みを口元に浮かべている。男性か女性か迷ってしまうような、浮世離れした、儚げで美しい佇まい。──その姿に、私は見覚えがあった。

「……雪白先輩?」
「え?」

自分の名前が知られているとは思わなかったのだろう、今度は雪白先輩が驚いた顔をした。ああ、この人でも驚くことがあるんだなあ、なんて私は一つの発見をしたような気持ちになる。

「接点なんて全然なかったので覚えてないでしょうけど、私、同じ学校の後輩なんです。先輩が三年生の時の一年生で」

雪白先輩のような人のことを忘れるわけがないし、こんな人が他にいるはずないから、あれから何年も会っていなくたって、すぐにわかった。
勿論、先輩は私のことなんて覚えているはずがない。接点だって全然なかったし。

「……ああ。もしかして、友達のお菓子を狙って、時々茶道部に遊びに来てた子かな?」
「えっ!……その通り、です……。というか、そのうちの一人、です」

まさか、覚えられていた……?いやいや、まさか、そんな。
お菓子目当てにも雪白先輩目当てにも、茶道部に近寄る女の子は複数いた。私という人間については知らずとも、もしかしたらぼんやりと見覚えはあったのかもしれない。

「みょうじなまえです。実は一度、雪白先輩に茶道部のお菓子を分けてもらったことがあります」
「そうだった?」
「はい」

当時の私はそのことが嬉しくて、嬉しくて。記憶に宝箱があるなら、間違いなくその中に宝物としてしまってある。

「なまえさんはこんなところでどうしていたの?」
「……投身自殺でもすると思いました?」
「ちょっとだけ、そんな風にも見えたかな」

それで声をかけてくれたのかな。そうだとしたら、雪白先輩はすごく優しい人なのだろう。
私は学生時代、雪白先輩に憧れていたけれど、本人についてよく知っていたわけではない。儚くて、……まるで、冬の日の朝、誰の足跡もついていないまっさらな状態の雪のような人。誰かがそこに足を踏み入れてしまえば途端に消えてしまう幻想のような、そんな風に感じていた。それに強く惹き付けられた。

「しないですよ、この川汚いし。なんだかんだ落ちても死ななさそうだなあ、とは考えましたけど」
「確かに、ここの水に浸かるのはオススメしないかな」

先ほどから変わらず、穏やかな口調で話す雪白先輩は、けれど、学生時代より随分変わった気がした。なんというか、明るい、気がする。

「ボクで良ければ、話を聞こうか?」
「はなし、ですか?」
「すごく辛そうな顔をしていたから」

そんな顔、していただろうか。雪白先輩が言うなら、していたのかもしれない。

「なんというか、最早笑い話なんですけど。……婚約破棄になりまして。もう半年前のことですが」

結婚指輪は出すから婚約指輪の費用は私が出してって言われて、それってどうなの?と思いながら結局相手の言うとおりにしてしまった。そうしたら、そのすぐ後に他に女がいることが発覚して、結婚の話は白紙に。私の手には意味をなさない婚約指輪だけが残り、男も婚約指輪の代金も呆気なく消えてった。まるで詐欺だ。
自嘲しながら話す私のことを雪白先輩は笑わず、ただ相槌をうって静かに話を聞いてくれた。

「……でも、それは別にもういいっていうか。ただ、わからなくなっちゃって」
「わからないって、何が?」
「心の底からもういいって、大分前から思えている自分が。……そのつもりになっていただけで、実際、私はあの人のことを愛せてはなかったのかもなあ、って」

だから、あんなことが起きたのかもしれない。愛しているつもりだった。けれど、全然そうじゃなかったのかもしれない。散々動揺したのも、婚約破棄という事実についてだったんじゃないか、とか。

「私、自分の気持ちを言葉として認識するの、下手なんです」

学生の時だって、単純に他の子達みたいに雪白先輩に恋をすればよかった。けれど、私が抱いたのは「憧れ」で、恋ではなかった。そう思っている。
感情の認識というより、もしかして感情の抱きかたが下手なのかな。

「感情は、形のないものだからね」

静かできれいな声が、夜の空気にすっと溶けていく。それを横から見つめるのは、なんだか魔法みたいで、ふしぎな気分だ。

「単純な形にまとめる必要はないんじゃないかな。愛してると思った気持ちも、愛してなかったのかもしれないと思った気持ちも、たとえわかりやすい言葉に収まらずとも確かになまえさんが抱いた思いだから」
「……私、学生時代、雪白先輩に憧れてました」
「え?」
「恋とかじゃなくて、憧れ」

それなら、雪白先輩は、私の気持ちも受け入れてくれるかもしれない。そんな淡い期待をつい持て余してしまい、ぽつりと溢す。
私は今、どんな顔で雪白先輩を見ているだろう。月のような色をした彼の目に映る自分など、見えはしない。わかりはしない。

「憧れ……か。ありがとう」

言いながら、雪白先輩の声は気のせいか、どこか寂しそうな色をしているように思った。
でも、「それなら、」と言葉が続いて、驚く。

「今のボクはどう見えるかな?」
「今、ですか?」
「そう、今」

こちらを見つめる月の色をした瞳が愉しそうに細められて、きゅ、と心臓が掴まれる感覚がした。緊張して、ごくりと唾を飲む。
昔と比べて、今の雪白先輩は……ええと…うーん……

「人間っぽくなりました……?」
「え?」
「あっ!失礼だったらすみません!悪い意味で言ったわけじゃなくて!」

明らかに言い方が悪かったと慌てたら、雪白先輩が、ふっ、と笑った。

(うわぁ、笑った……)

ちゃんと笑うところなんて、初めて見たかもしれない。いつも控えめで美しく、けれどどうしようもなく虚しいような微笑みを浮かべていた……ように見えたから。

「そうかもしれないね。やっぱり、なまえさんの感じかたはきっと、間違ってないと思うな」
「そ、うですか?」
「うん」

どうしてか、頷いた雪白先輩は嬉しそうに見えた。

「……そうだ、時間があるようなら、これから飲みにでもいかない?今夜は月が綺麗だし、月見酒がしたい気分なんだ」
「月見酒?……あ、」

雪白先輩の言葉に空を見上げたら、いつの間にか、さっきは見えなかった月が空に輝いていた。雪白先輩の目みたいな、優しくて、幻想的な色をした黄色の月。

「私でよければ、喜んで」

差し出された白い手に一瞬惑って、それから、自分の手を重ねる。きちんと温度がある雪白先輩の手に触れて、ああ本当に生きている人なんだと、妙に感動してしまった。触れても、雪のように解けて消えたりはしないのだ。
やっぱり、雪白先輩は人間らしくなったと思う。一緒に行ったら、そのきっかけも聞けたりするかな、なんて、彼の低めの体温を感じながら考えた。
学生時代に憧れた、まるで幻想そのもののような人。その人と紛れもない現実を歩きながら、いつの間にか自分の中にあった鉛が消えていることに気が付いた。雪白先輩が手を繋いでいなかったら、突然身軽になった私は今頃、風船のようにぷかぷかと空を飛んでいたかもしれない。……なんて、変な空想。

「ふふ、」
「おや、ご機嫌になったね」
「今夜は美味しいお酒が飲めそうだなと思いまして」
「そうだね、月を見ながら、ボク達の再会を祝おうか」

再会というより、実際のところ初対面に近いくらいなのだけど。なんて心の中で思いながらも、私は雪白先輩の提案に頷く。

月の出る夜、この手で初めて触れた「憧れ」は、昔と変わらず美しくて、そして優しい匂いがした。

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