あの後すぐに、お面を落としちゃったことを謝ったら、まずそれを気にするのかと呆れられた。見慣れた夜叉さんのその表情に、一気に気が抜けて、ついでに腰も抜けて立てなくなった。……ああ、そうだ、もう夜叉さんじゃなくて、名前を知っているんだった。

「そういえばあの化け物って、結局どうなったんですか?」
「多分、江戸時代に飛ばされた」
「えどじだい?」

消えたとかじゃなく?江戸時代って、あの江戸時代?

「クソ親父が隠居を決め込んで俺に立場を譲った頃だからな。一番一族の、俺の仲間が集まってる時代だ」
「そこに飛ばされて、どうなるの?」
「一族のヤツらに絞められる」

えーっと、それってつまり……。

「じゃあ、夜叉さん……じゃなかった。莇があの時あの化け物に引っ張られていたら、その行先って……」
「江戸時代だな」

ホームに戻るだけだった!
嘘でしょう、消えるとか言ったの誰?あああ、私が勝手に思っただけだ。

「行ったら、多分ここには戻って来なかった」
「なんで、」

莇の言葉に驚くと、彼は何も言わずに目を伏せる。
時々見せる莇のこういう表情に、私は何かを言おうにも、なかなか踏み込めずにいる。

「戻って来たくなかった?」
「んなわけっ……!」

嫌われているわけではない。寧ろ大切にしてくれていると、前も、完全に縁が結ばれた今は一層、思う。
多分きっと、莇は私のためを思ってくれているんだろうなと考えるのは、己惚れではないと思うんだ。

「なまえは本当に良かったのか?これで」
「うん」

間髪入れずに答えたら、呆れたように溜息を吐かれた。
だって本当に、何も後悔なんてしていない。そりゃあ、この前植木鉢が三連続で降ってきた時は暫く植木鉢恐怖症になったけれど。でも結局、莇がいつだって助けてくれるから。

「はぁ……。 なまえがいいなら、いい」

澄んだ緑の瞳でまっすぐ私を捉えて微笑む莇の表情が優しくて、まぶしくて、私はきゅっと目を細める。
額に生えた三本の角は、白い着物の上に鮮やかな羽織を重ね、刀と鬼の面を持つ姿は、相変わらず彼が人間離れした風貌をしていることを伝えてくる。実際、人間ではないわけだし。でも、それがなんだというのだろう。
だって、朱色に塗られた莇の爪は確かに鋭く尖っているけれど、それが私を傷付けることはないし、遠慮がちに触れてきた手は、こんなにも温かい。
えい、と思いきって私から指を絡ませてみたら、莇の頬が瞼の朱色に負けないくらい赤く染まった。多分、私も人のことを言えた義理ではないだろうけど。
でも、お叱りの言葉は飛んでこないし、手が離されることもない。
恥ずかしくて、照れて、ぎこちない雰囲気には、まだ慣れないし、きっとお互いにそうだろう。けれど、すごく心は温かくて、満たされていて、幸せだ。

私の侵食は、既に自然回復している。けれど、失ってしまった記憶が戻ることはないそうだ。
私の簪を投げつけたあの化け物が江戸時代に行ったということは、もしかして、祖母からもらった簪は、莇が作ってくれた簪だったりして。
記憶がない今、確証は持てないけれど、そう考えた方が自然な気がした。それなら、江戸時代に作られたなんて言った祖母の言葉も、あやかしから守ってくれるものだと言った母の言葉も、すべてつじつまが合う。作られたの、全然江戸時代じゃないけれど。
それなら私は最初から、私のために作られた、莇がくれた簪だから、あんなにも気に入っていたのかもしれない。そうだったらいいな、と思う。

***

たった一つのものを見つけた。
それは本来あやかしである莇が手に入れるものとしてはいささか不相応で、不完全な脆い存在。けれど、それが、彼が人間と比べたら長すぎる一生を懸けて大切にしたいものとなってしまったのだ。
あやかしが人間にとって良いもののはずがない。人とは違う価値観のもと、自分の意思を優先してその力を駆使するのだから当然だ。なんなら愉快犯的な者が多い。
それでも、なまえのためを思いたかった。その場合、彼女の手を離すのが正解だろうというのは、自明の理だった。どう莇が考えようと、結局、そんな莇の悩みや迷いなど知らん顔でなまえは躊躇うことなく莇の手を取ったのだけれど。
それがどれだけ莇にとって嬉しいことだったか。苦しいことだったか。
だが、それならば莇のやることは一つだ。

「縁を結んだからには、俺がぜってーアンタを守るから」
「うん。って言っても、莇は最初から私を守ってくれてたけど」

また、人の気を知らないで。
けれどあまりに素直で無垢ななまえの笑顔に、つられるように莇の表情も和らいだ。

「あの、莇。私……」

頬を紅潮させて、緊張した面持ちで自分の想いを告げてくれる、大切な存在。
その相手をするのは、彼女の何倍も生きているはずなのに、何故こうもうまくいかないのだろうと腐心する。けれどそんな自分でもコントロールできない感情すら、莇には手放しがたいほどに大切に思えるのだから、こうなってはもう手に負えない。
決して傷付けないようにと、優しく触れることになんて慣れていない手で繋いだなまえの手が、温かくて、愛おしい。
たとえ力を持ったあやかしであっても、持て余してしまう感情の付き合い方なんて知らなくて、莇は意志の強そうな眉を困ったように寄せた。
……ところで、懐に忍ばせた新しい簪はどうやって彼女に渡そうか。
そんな小さなことにすら惑う自分に心底呆れながら、莇は、結局どう渡そうと喜んでくれるなまえの名前を呼んだ。
彼の一族の誰もが、聞いたら目を丸くして驚くような優しい声色で。

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