夜叉さんは、私があやかしの侵食を受けたと言った。存在を蝕まれるというのは、ほんの一部、記憶を失うことでもあったらしい。その中で一番深刻だったのは、お箸の使い方を忘れていたことだ。

「違う、こうだ。持つ位置はもっと上」
「こんなの出来ないよぉ」

お箸を使えなくなったなんて人に言うわけにもいかない私に夜叉さんが教えてくれたけれど、なかなかのスパルタだった。何度か、もうずっとフォークで生きていくと泣き言を言った。一切聞く耳を持ってもらえなかった。
幼少期からこんな難しいことが出来たなんて、私ってば天才じゃない?と何度も自分を励ましながら、不器用にお箸を上下に動かす。
しかも、卒業試験は制限時間内に小豆をお箸で別の皿に移し替えることだった。多分その辺の人だって成功するかしないかの瀬戸際だろう。それを何度か失敗して、ようやく成功した時には夜叉さんに「なかなか頑張ったな」と褒められて、涙ながらに抱きつきそうになった。気分は熱血コーチと共につかみ取った勝利だ。勿論、夜叉さんには顔を真っ赤にして避けられたけれど。あと、そういうのは結婚した相手とうんぬんと叱られた。

夜叉さんと出会って、変わったことがもう一つ。私の生活がおかしくなった。
それは浸食の影響というより、夜叉さんが近くにいるから、陰陽だかなんだかのバランスが崩れて起こることらしい。
どうおかしいかというと、例えば、ものすごくツイている日とツイていない日がある。
ツイてない日は、階段から落ちそうになったり、車に轢かれそうになったり、下手したら命の危機に陥ることもあるけれど、その度、どこからともなく夜叉さんが現れて助けてくれる。
その分ツイている日は信じられないくらい嬉しいことが沢山起こる。この間、道を歩いていたら通りすがりの男性五人に突然告白されたのは流石に怖かったけれど。逃げられずにいる私のもとに、人の姿になった夜叉さんが現れて彼らを追い払ってくれたのには驚いた。その気になればその辺の人に姿が見えるようにも出来るらしい。スーツを絶妙に着崩した夜叉さんは格好良過ぎて直視できなかった。今思い出しても照れる。突然モテたことじゃなくて、そんな夜叉さんが見れたことが「ツイていた」出来事だった。
ツイている日もいない日も、私は家に帰って「夜叉さぁん」と彼にその日あったことを話すのが最早日課となりつつある。興味無さそうな顔をしながら、案外ちゃんと聞いてくれるのだ、彼は。

夜叉さんは、基本的に態度も、言葉も、我関せずをを貫く。しかしそのくせ、面倒見が良い面も多々ある。
お箸の使い方にしてもそうだけど、お風呂に入った後に髪の毛が生乾きだと怒られるし、私のスキンケアも気に入らないところがあったらしく指導された。お陰様で最近自分でも肌艶が良いと感じる。
私の前に姿を現さない時、彼が何をしているかは知らないし、自分のことについて彼はあまり語ってくれない。ふとした時に意識する彼の角や尖った爪、腰に差した刀や面に、どうしようもなく彼が人間ではないことを実感する。けれど、妙にお堅くて、変なところでスパルタな夜叉さんに、いつの間にか心を許して信頼している自分がいる。

「おい、そろそろ寝ろ」
「えー、今夜は観たい番組が……」
「録画しとけ」

有無を言わせない夜叉さんに、むっと膨れて不満を示せど、彼は表情一つ変えやしない。彼は美容意識が高く、肌に悪いことを許さない。結局それは誰のためかと言えば私のためなので、私もあまり文句を言えないのだ。

「はーい。夜叉さんこそ早く寝て下さいよ。というか、夜叉さんっていつ寝てるんですか?」
「あやかしは寝る必要なんてねぇから」
「それじゃあ疲れが取れなさそう」

驚く私に、夜叉さんは苦笑いのような笑みを浮かべる。私が抱くこの感覚が、彼との違いを物語っているのかもしれなかった。

「ゆっくり休めよ、人間の嬢ちゃん」

***

布団に入って暫くもしないうちに、なまえはぐっすりと眠りに落ちた。近頃特になまえの寝つきがいいのは、本人の元々の性質ではなく、莇の力によるものだ。
深い眠りに落ちて、朝まで起きることのないように。何者も寝室に入れないよう、結界も張ってある。入ることは出来ないが、万が一なまえが起きてしまった時のことを考えて、出ることは可能にしてある。彼女が決して不審に思うことのないように。
片手間で出来ることとはいえ、わざわざそんなことをしているのは、彼女が「余計なこと」を知る必要も、見る必要もないからだ。

「懲りねーな、お前らも」

欠けた月が鈍い明るさを放つなか、なまえの家の周りを異質なほどの静寂が訪れる。ぞろぞろと現れた人ならざるモノ達を前に、赤鬼の面を被った莇が呟いた。

「アイツにはぜってー手出しさせねぇ」

面の下に隠れているのは、なまえの知らない莇の顔。
あやかしの、夜叉の若頭としての姿であり、その凛々しい顔には、彼自身が定めた決意が滲んでいた。今はまだ、彼の他に誰一人として知らない決意が。

***

「んー……」

寝苦しさで目を覚ますと、やけに喉が渇いていることに気が付いた。眠いけれど、何より飲み物が飲みたい。のそりと布団を剥がして起き上がる。
電気を点けずに台所に向かっていたら、ぬるり、大きな影が動いたような気がした。

「……え?」

それは気がした、なんてものではなくて、気付けば影は意思を持ち、まるで生き物のようにうごめき出す。ずるずると身体を引きずるように動き、私の目の前を塞いだ影は、どうやらゆっくりとしか動けないらしい。それなのに、私はびっくりして、恐怖して、逃げることも出来ずに立ち尽くしてしまう。のろり、のろり。闇はゆっくりと広がって、私に覆いかぶさろうとする。
逃げなきゃ。
そう思うのに、指先一つ動かせない。ああ、今、呼ぶべき人がいるのに。彼の名前が、呼べない。

「なまえ!」

夜叉さんの声に、ハッとした。金縛りが解けたように、びくりと身体が震える。
瞬きの間に私と化け物の間にやってきた夜叉さんの、紅葉を思わせる羽織が揺れる。
その瞬間、目の前をキラキラと、金粉が舞ったようなまばゆさを感じた。チカチカ。非現実的な景色に、目を瞬かせる。非現実的なのは今に始まったことではないけれど。
大きく広がった闇に向けて夜叉さんが刀を振り下ろす。その一閃を浴びて、影の化け物は抵抗するすべもなく霧散した。
ホッとして、急いで部屋の明かりを点ける。なんとなく、そうしたらもう怖いものは現れないような気がした。

「助けてくれてありがとうございました。……あれ、夜叉さん」

灯りの下で夜叉さんを見ると、彼の綺麗な羽織が破れていることに気がつく。

「大変!もしかして、怪我してる!?」
「これくらいどうってことない。傷口なんてとっくに塞がってる」
「あ、本当だ……」

破れて、血が滲む着物の下に見えるのは、無傷の腕。改めて、彼が人ではないことを思い知る。

「けど、その時にまじないが消えたんだろうな」

悔しそうに眉を顰める夜叉さんが言っていることはよくわからないけれど、彼が私を助けるために尽力してくれたことははっきりとわかる。そして、私が彼に命を助けられたことが、これで既に何度目かであることも。それに……

「さっき、名前呼んでくれましたね」

最初に難しそうな顔をされて以来、自ら名乗らないようにしていたので、てっきり忘れられていると思っていた。そして決して、呼んでくれることはないだろうと。
私の言葉に、夜叉さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「悪い」
「え?なんでですか?」

私は呼んでもらえて嬉しかったのに。それこそ、自分でもびっくりするくらい、今、すごく満たされた、幸せな気持ちでいっぱいになっている。名前一つでこんなに舞い上がるなんて、まるで……まるで私が夜叉さんに恋でもしているみたい。

「縁が結ばれた」
「えにし?」
「アンタの名前を呼んじまっただろ。簡単に言えば、あやかしの俺と人間のアンタの間に関係性が出来た。……俺はアンタに何かがあれば過去、現在、未来、いつでも駆けつける。けど、アンタの生活からは平穏が消える」

つまり、元の――夜叉さんと出会う前の生活には戻れないということ。

「今ならどうにか出来ないことはねーけど……」
「それって、夜叉さんにとっては困ることなんですか?」
「は?俺?俺は別に……」
「それなら、いいんじゃないかな」
「はあ!?」

今現在の生活が続くってことでしょう?それは私にとって、絶対に嫌なことでも、恐ろしいことでもないと感じた。

「それに、これからは夜叉さんも私の名前、ちゃんと呼んでくれるんですよね」
「……呼ばねぇ理由はねーけど」
「なら、やっぱり私はいいです。縁、結ばれてて」

思えば、たとえツイてない日であっても、一日の終わりに夜叉さんに話が出来たら、いつだってそれで私は満足していた。危険な時は夜叉さんが助けてくれたし。
この先、普通じゃない日が続いても。妙なところで口うるさくて、お堅くて、けれど不器用ながらも実は優しい夜叉さんがいてくれるならそれでいいかな、なんて思ってしまえるのだ。いつの間にか私はそれくらい、この、人ではない存在が好きになってしまっていたらしい。
緑色の瞳が私を見つめる。彼の目には、私は、世界は、どんな風に映るのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら見つめ返していたら、「やっぱ変わってるな、なまえ」と呟いて、ふっと笑った。
その顔があまりにきれいで、優しくて、何故か懐かしいような気がして、無性に泣きたくなった。変なの。

「俺の名前は夜叉じゃねーけど」
「えっ!?」
「夜叉って一族だって、前にも説明しただろ」
「ええっ!?」

じゃあなんて名前なの、としつこく尋ねる私に、「言わねー」とそっけなく答える夜叉さんは、なかなか意地が悪いと思う。……縁なんて結ばなきゃ良かったかな。

main

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -