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「あー、うー」

シャワーの流れる音を微かに耳にしながら、レイアは何度目かの呻き声を上げた。そうして、すっくと、ベッドから立ち上がる。すたすたとその場を離れると今度はソファーに浅く座った。が、暫くするとまた同じように呻き声を上げて、ソファーを離れ、再びベッドへと舞い戻った。
こんな事をもうかれこれ20分以上、十回近く繰り返している。
レイアと入れ替わりにアルヴィンがバスルームに入ってからというもの、(お風呂に入った事で)少しは落ち着いたはずの羞恥心と興奮が舞い戻ってきてしまい、じっとしていられなくなったのだ。

「どうしよう……ベッドで大人しく待ってた方がいいかな。……でも、ベッドに座って待ってるのって、何だか、がっついてるように思われないかな。……だったら、やっぱりソファーに座ってた方が……」

うーん、うーん、と呻りながら、またソファーに向かう途中で、足が止まった。

「あ、でも……これから寝る、んだよね。それなのにソファーで待ってるっていうのも逆に意識し過ぎてる風に取られて、タイミング外しちゃうかも」

あーもう、どうしよう。
丁度、ベッドとソファーの中間地点で立ち尽くす。どちらで待機するのがいいのか思い悩んでいると、ふいに、視線がチェストの上を掠めた。
瞳に映る、ユルい糸目と緑の丸い体。まだ、レイアがアルヴィンの『友達』だった頃に忘れていってしまったお気に入りのぬいぐるみ。
ベッドとソファーの間をシーソーみたいに行ったり来たりしていた足の均衡が崩れ、自然とチェストへ吸い寄せられた。

「ただいま、カエルくん」

丸い体を抱き上げる。
カエルくんは置き去りにしてしまう前と同じ、ユルく愛嬌のある顔をしてレイアを見詰める。
レイアお気に入りのその顔は、やっぱりアルヴィンによく似ているような気がして、じっと見詰めていると、ほっと、心が落ち着いた。テンパっていた心に少し風が通る。と、同時に先程鏡を見た時、湯煙の中で生まれてしまった臆病な心が顔を出した。

「…………」

レイアは普段、一人の時、誰にも悩みを相談出来ない時などにそうするように、カエルくんの体をぎゅっと抱き締めた。
ぽつり。
心の中を整理するように、カエルくんに独り言を打ち明ける。

「わたしね、今でも何だか夢を見てるような気がするんだ。アルヴィンとわたしが恋人同士になって、今日、その……エッチするなんて。わたし、初めてだから凄く緊張しちゃってる。失敗、しちゃいそうだし……。でもね、それ以上に……」

きゅっとカエルくんを抱き締める手に力が篭る。

「何だか、信じられなくって。アルヴィンがわたしを、そういう対象に見てくれてるってことが。……だってね、わたし達ずっと友達の期間長かったし、11歳、歳離れてるし、それに……」

トレーネさんは綺麗で優しくて、家柄だって良かった。それに引き換え、わたしは優れたところを何ひとつ持ってないから。
卑屈に歪んだ言葉が口をつきそうなのを何とか内に押し留めた。
例え独り言であっても、それは言ってはいけないと思ったから。それを口にしてしまえば、自分を卑下するだけに留まらず、トレーネを侮辱することになるから。彼女がどんな気持ちでアルヴィンの背をレイアに向かって押してくれたのかは、あのピーチパイの味を思い出せば容易に想像がつくことで。軽々しく踏みにじっていいものであるはずがない。ならばこそ、レイアはアルヴィンの恋人として堂々と胸を張るべきなのだろうが、それを理解っていても尚、心細くなってしまうのはレイアの性格のせいだった。

「自信がないよ。わたしは特別何か凄いものを持ってるわけじゃない。そんなわたしがアルヴィンの恋人でいいのかな?わたしでアルヴィンを幸せに出来るのかな……?」

わたしは、アルヴィンのお荷物になったりしないかな。
ぎゅう、とカエルくんの体に顔を押し当て、視界を暗くしながら呟いた弱音だったが、その響きが完全に消え去るより早く、少し怒ったような呆れを含んだ声が、暗闇の向こうから聞こえてきた。

「へぇ、初めての癖に別の事を考えるなんて、随分余裕があるみたいだなレイア」
「うひゃぁっ!」

パッと暗闇が開けたかと思えば、カエルくんがレイアのとは違う手に拉致されてしまっていた。開けた視界には入れ替わるように、カエルくんを拉致した犯人の顔。風呂上りの、整えられていない無造作な髪をしたアルヴィンが突然至近距離に現れて、レイアは思わず変な叫び声を上げてしまった。

「あああ、アルヴィン!?」

激しくどもりながら名を呼べば、アルヴィンは慌てるレイアなどお構いなしに腰を引き寄せ、抱き締めてくる。

「い、何時上がったの?」
「結構前。お前がベッドとソファー三回くらい行ったり来たりしてるのは見た」
「な、……み、見てたなら声掛けてくれればいいじゃない」
「いやー、百面相しながら、『でもでも……どうしよう』なんて動き回るレイアが可愛くてさ。つい声掛け損なっちまって」
「嘘!絶対馬鹿にしてたでしょ!面白がってたでしょ!」
「ま、確かに檻に入れらた珍獣みたいで面白かったけどさ」
「ち、珍獣!?」

初めてのことに戸惑って、どうするべきか真剣に悩んでいた姿を指して珍獣なんて酷い、と声を荒げようとしたけれど、それよりも早くデコピンを見舞われ、文句を封じられた。

「痛っ!何する、」
「お仕置きだよ」
「お仕置き……?」
「誰がお荷物だって?誰が何も持ってないって?俺が何時、お前に幸せにしてくれなんて頼んだか?それとも何か?レイアは俺が女に頼らなきゃ幸せになれない程、軟弱な男だって言いたいのか?」
「そ、そういう意味じゃない、けど……」
「だったら、どういう意味だよ。あれか?『わたしじゃアルヴィンには釣り合わないかもしれない』とかそんな馬鹿な事考えてんの?いやー、俺も買い被られたもんだな。俺ってそんなに凄い存在かー」
「……そんな風に茶化さなくてもいいじゃない。わたしは真剣に、」
「俺、お前のそういうところ大っ嫌い」

ふざけた物言いから一転、厳しいくらいの否定の言葉にレイアは小さく息を呑んだ。
目の前数センチにある赤茶の瞳は確かめるまでもなく真剣で、本気で否定されたのだと理解できた。

「俺さ、レイアの要領悪いところとか、おっちょこちょいなところとか、貧乏くじばっかり引いちまうところとか、絶世の美女じゃなくてごく普通……いや、どっちかっつうと子供っぽい顔立ちとか、そういうお前がマイナスに思ってるお前自身の特徴、全部好きだよ。そういうのが全部積み重なって今のお前を作ってるんだからな」

そういうレイアが居たから、俺は今の俺でいられたんだと思うから。
色が混ざり合ってしまうんじゃないかと思う程、近くにある赤茶の瞳に茶化しの色は一切なく、レイアの目に映るのは深い声音を持つ大人の男の人だった。
初めて出会った時のアルヴィンと、そう顔立ちは変わらないはずのに、幾分も違って見える。大人の男の人。
その男性(ひと)がすう、と息を吸い込む。声音が更に低まり、重みを増した。

「だから、そうやって自分を卑下するのは止めろ。それが例えレイアでも、俺は自分の大切なものが否定される事が我慢ならないし、許せねぇよ!」

最後は強い語気でそう言った、アルヴィンの勢いに気圧される。
最近のアルヴィンは滅多な事でキツい物言いをしなくなっていただけに、それは深くレイアの心に染み込んだ。
思わず、色んな感情が綯い交ぜになった涙が眦に溜まる。
ぼろっと零れ落ちる寸前、アルヴィンはレイアの顔を自分の胸板に押し付けた。後頭部をそっと押え付ける大きな手。

「言ったよな。お前が病院に運ばれた日に、お前が死んじまうかもしれないって思ったら、心の中ぐちゃぐちゃになって、何もかも損得とか関係なく放り出して、レイアのところに行きたいって思ったって」
「……うん」
「それくらい俺はレイアが好きだし、大事だよ。だから、居もしない『もっと良い相手』と自分を比べて落ち込むのは止めろ。もっと俺の『選択』を信じろよ。俺の好きなレイアの事、信じてやってくれよ」

レイアも知らないようなレイアのいいところ俺は沢山知ってる。ずっと傍で見てきたんだから。
そっと、囁くようになった声音と髪を撫でる手、アルヴィンの言わんとすることが胸の中に染み込んできて、眦に溜まっていた涙を外に押し出してしまった。
ちょっとだけ、声が詰まる。

「ごめ、んなさい……」

カエルくんにした時と同じに、逞しい胸板に強く顔を押し当て、何とか涙を押し留めようとするものの、色々な感情が綯い交ぜになって後から後から涙が頬を滑り落ちていく。
情けない。恥ずかしい。嬉しい。幸せ。大好き。
上手く言葉に出来ないそれら、沢山の気持ちが透明な雫を生み、後を続けられずにいると、ふいに髪を撫でていた大きな手に顔を持ち上げられた。
涙でぐしゃぐしゃになり掛けた顔を見られたくないと、正面に見えたアルヴィンから目を逸らそうとしたが、それよりも早く熱い唇に涙を拭われた。
少しおどけたような声がした。

「あーあ、これからレイアを泣かせちまうような事しようかってのに、それよりも先に泣かせちまったな」


俺、お前が泣いてると堪んない気持ちになるんだよ、本当。
あの日、病室で聞いたのと同じ言葉を囁かれ、今度は掌で涙を拭われる。優しく、あたたかく、頼りがいのある手だと思った。

「これ、から、泣かせる……?」

しゃくり気味に問い返す。心がパンクしてしまったために、その意味するところを上手く理解できなくて。
アルヴィンは相変わらず、零れ落ちた涙を拭い去りながら、今度はバツが悪そうに、少々口ごもった。

「その、な……出来る限り優しくするつもりだけど、レイア初めてだろ。だから、やっぱ、どうしても痛い思いさせちまうし、泣かしちまうだろうなって思ってさ」
「……ぁっ」

頼もしさを感じさせる大人の男性の顔から一転、ほんの少し、頬に茜を燈しながら、どこか少年めいた表情で告げるアルヴィンの言葉で、レイアのネガティブの深海に沈み掛けていた思考は現実の岸に引き上げられた。
そう、そもそもレイアはこれからアルヴィンと――――。

「ぁ、ぁ、……っ!」

ぼふっ、と音がしそうな勢いで頬が真っ赤に灼けた。
元の目的を忘れそうになるなんて本末転倒もいいところだが、何もかもが未体験のレイアなのだから、それも仕方が無いのかもしれない。
酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせていると、目の前のアルヴィンがニッと笑う。子供にも大人にも見える悪戯っぽい顔。

「けど、どうやらレイアはそっちの心配は全くしてないみたいだからな。お陰で安心して事に及べるよな」
「こ、ここ、こと?」
「何、はっきり言って欲しい?セッ、」
「わわわわわ、い、言わなくていいよっ!」
「っとに、落ち込んだり、恥ずかしがったり、忙しいな」
「っ……それは」
「そんだけ、レイアは俺の事好きって取ってもいいか?」

少しばかり強引な囁きに、けれど、レイアは素直に頷いた。
緊張するのも恥ずかしいのも、落ち込んでしまうのさえも、全てアルヴィンに嫌われたくなくて、幻滅されたくなくて、何より、アルヴィンが好きで好きで仕方が無いせいなのだから。
長い時間を掛けてやっと花開いた恋。これから愛に育ち、実を結ぶ可能性を秘めた、大切な恋。

レイアの頷きにアルヴィンはすっと目を細めると、耳朶を甘噛みした。
ネガティブ思考と入れ替わりに、羞恥心が舞い戻ってきそうになった。今日だけで三度目の。
けれど、それよりも早く、おどけた雰囲気をさっと引っ込めたアルヴィンが、赤茶の瞳で真っ直ぐにレイアの心を射抜いたお陰で、三度目の羞恥心がレイアを絡め取るのは未遂に終わった。
深く真摯な声音がレイアの鼓膜を震わせる。

「レイア……冗談なんかじゃなくて、俺はレイアが欲しい。抱き締めるだけじゃ足りない、キスだけじゃ足りない。本当はもっと上手に我慢できるつもりだったのに、それが出来なくなっちまいそうなくらいレイアが欲しい。恋人として……」

そこに艶が混じる。大人の男性独特の艶っぽさ。

「レイアを抱きたい」

直球的な言葉であるにも関わらず、その響きの強さと艶にレイアは引っ張られる。
ドクドクドクと、風呂上りの時と同じに心臓が騒がしくなったけれど、その音が意味するものは全く違っていた。
羞恥心ではなく、多分、期待。
恋人として、大好きな人に身を任せる事への、きっと、女性としての期待。
レイアは再び、言葉の代わりの頷きで応えた。
頭であれこれ考えていたよりもそれはすんなりと容易くて、やっぱり『案ずるよりも産むが易し』なのだと実感させられた。
結局、何をどうしたってレイアの中のアルヴィンを望む気持ち、望まれたい気持ちは消えないのだから。離れようと思いながら鍵を返せなかったあの時のように。
ふたりはもう新たな境界線を飛び越えてしまっているのだから。
だからこそ、レイアは今こうしてアルヴィンに抱きかかえられている。

頷きを受けたアルヴィンの手がレイアの体を宙に攫う。
所謂、姫抱きの状態に擽ったさを誘われる。今まで体験したことのない女性的扱いは、レイアに、自分は本当にアルヴィンの恋人で、これからその恋人として、更に踏み込んだ関係を望まれるのだとはっきり意識させた。
かつて、アルヴィンはレイアを女性的に扱う事が無いに等しかった分、それは余計に際立った。

「アルヴィン……大好き」

ベッドまで運ばれる途中、自然にアルヴィンの背に腕を回した。

「俺も」

足は止めないまま、にこりと微笑したアルヴィンが額に軽く唇を寄せる。

一歩、ベッドに近づくにつれ、ふたりの間に残っている『境界線』が色を薄め消えていこうとしている。
そうして、はっきりとした意識を持って足を踏み入れたるは赤く色付く『恋人』の境界線の内側。
その境界線を踏み越えていくふたりの背中を、チェストの上に戻されたカエルくんが、嬉しそうに頬を赤らめ見送っていた。



真新しいベッドは新しい主になるふたり分の重みを軽々と受け止め、軽やかなスプリング音で迎えた。
同じく新調された枕やベッドシーツからは、まだ新品独特の香りしかしないけれど、きっと朝を迎える頃には仄かな残り香を宿す事になるだろう。
そうして、一夜、十夜、百夜と続く内、香りを強めていくに違いない。
アルヴィンとレイアの関係が深みを増すのに比例して。

「電気、消して……」

衣擦れの音に紛れた小さな願いは聞き届けられ、部屋の中にはぼんやりと、ルームランプのささやかなオレンジ色の灯が燈されるだけになった。
そのオレンジの灯が壁に映し出した二人分の影が、やがてゆっくりとひとつに溶け合っていく。
空間には初心で躊躇いがちな喘ぎと、甘やかな吐息、時折混じる弾むベッドのスプリング音が濃密に広がっていった。


モドル


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