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時折カシャカシャと食器が擦り合わさる音と、絶えず水の流れる音がする。
窓の外は陽光が完全に失われ、夜の帳がおろされている。
配達されてきた家具を配置し、細々した荷物の移動や片付けはもう殆ど終わっていて、生活する上での支障はほぼないと言ってよかった。後は明日以降、足りないものを買い足したり、不便に感じた部分を改善していくだけでよいだろう。何はともあれ、ひとまずこれでふたりの住処は一応の形を整えたことになる。
これからはここで、アルヴィンとレイアふたり、甘い同棲生活がスタートするのである……と、言いたいところだが、残念ながらもうひとつの問題は昼以降全く改善の兆しを見せていなかった。
アルヴィンは主力武器であるはずの話術を封印されてしまったせいで、上手くレイアの緊張を解きほぐせず、結局夕飯時は殆ど会話をしないまま、互いにもくもくと料理を口に運ぶだけになってしまった。お陰で料理の味を殆ど覚えていない(折角、美味しいと有名な少々お高めの店から買ってきたというのに)。

(ガラにもなく緊張してるって事なのかね……。本当、こんな気持ちは初めてだよ。……お前も、こんな気持ちなのかな、レイア)

こんな気持ち――ふわふわと地に足がついていないような、緊張しつつも、どこか甘くくすぐったい気持ち。それを、この歳になって経験するなんて。
それはきっと、初恋の類のものなんだろう。ただ、その姿を傍で見ているだけで幸せな気持ちになってしまうのだから。
現に今だって……食器を片付けている後ろ姿を見ているだけなのに、こんなに胸が締め付けられそうになる。今日からずっと、こうしてふたりで暮らしていくんだ、と。日が昇る時も、落ちていく時も、レイアは何時だって自分の傍にいるのだと。
レイアもアルヴィンを見ては、そう思うからこんなに緊張してしまっているのだろうか?
心の中で問い掛けながら、アルヴィンは視線の先で食器の後片付けをしているレイアを見つめた。
こうして改めて見てみると、初めて出会った時よりも髪は随分長くなったと思う。肩口を過ぎ、背中に掛かり始めたオレンジブラウン色。
『わたしレイア!よろしくねアルヴィン君!』そう言って、アルヴィンの手を取りぶんぶんと振って、にこりと笑った、記憶の中の彼女は子供らしさの残るセミショートの髪をしていたのに。

(あれから、四年になるんだな。あの頃はレイアとこんな関係になるなんて夢にも思わなかったけど)

過去のレイアの幼い笑顔を思い出し、懐かしさと、同時に、四年間で積み上げたきたものへの愛しさが込み上げてきた。口元には微笑が浮かび、自然と優しい声音が生まれた。同じように考えるよりも早く体が動く。頭ではなく心が、アルヴィンの体と唇を動かした。

「レイア」

レイアが振り返るよりも早く、背中からそっと抱き寄せる。
途端に腕の中にあたたかな灯が燈ったよう。
レイアは突然、背中から抱き締められ、「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げたものの、ギリギリで皿を落としてしまうのは回避し、アルヴィンの腕の中に大人しく囚われていた。
回した腕、掌からトクトクトクと通常よりも随分早い、レイアの心臓の鼓動が伝わってくる。
いっそ哀れだと思ってしまいそうな程、ガチガチに緊張している体。どうしたらいいのか理解らず、それでも、回された腕を振り解くことなく次を待つ姿に、言い様のない喜びと、愛しさを感じた。

初めて出逢ったあの時から四年。
何処か憎らしいと思いながらも、何時しか仲間としてリーゼ・マクシア中を走り回って。裏切って、傷つけて話も出来なくなって。そうして、一度別れて。
次に再会したのはアルヴィンの生まれ故郷である此処、エレンピオス。
もう一度、アルヴィンとの関係を築いていきたい。とはにかみながら、渡したGHSのお礼を言うレイアの顔は今の彼女よりも幾分幼く、アルヴィンの記憶に鮮明に刻まれている。
下手をすれば死に至らしめてしまったかもしれない自分の手をぎゅっと握って、『これから色々、よろしくね、アルヴィン!』と屈託なく笑ったレイアの顔を見て、泣きたいような気がした事もしっかりと覚えている。
あの日から、レイアはアルヴィンにとって、もっとも近しい『友人』になった。
暇があれば顔を見せ、一緒に食事をし、仕事の喜びや愚痴を分かち合い。
そして、ルドガー達に出逢って、また、皆と共に今度は本当に世界中を、いや、次元の違う世界すらも駆け回って、自分の中の弱さと向き合い、仲間の痛みと覚悟を共に背負い、見守ると決めて数年。
ふと気が付けば、何時も隣にレイアがいるようになっていた。息をするように、毎日水を飲むのと同じように、レイアが傍にいるのが当たり前になっていた。
けれど、まだ、この時は自分の胸の内に棲まうレイアが一体『何者』なのか理解できていなくて。遠回りをした。
アルヴィンの中に棲むレイアが『友達』ではない事に気付いたのはついこの間の事だ。
レイアと距離を取り、別の女性をレイアの居た位置に置いて、離れた場所から見詰め合って、そこで初めて自分の目に映るレイアは『友達』ではない事に気が付いた。
ハ・ミルで引き起こしてしまったあの出来事と同じように、再びレイアの命が失われるかもしれないという思いに心が押し潰されそうになってようやく。
こうして抱き締め、キスをし、その先を望む存在である事に。

腕の中で早鐘のように心臓を鳴らすレイアのぬくもりを確かめながら想う。
もし、幾つも見てきた分史世界のように、ほんの少し運命がずれていたなら、レイアと過ごすこんな時間は訪れなかったかもしれない。最悪、このぬくもりが無くなっていたかもしれない。
でも、今、確かにアルヴィンはレイアを抱き締める事が出来ていて――。
四年間で積み上げてきた様々な想いと、運命がレイアの命を奪わなかったことを考えれば、もう、何も飾る事なく素直な想いを告げるのが一番だと思った。
気の利いた台詞なんか言えなくてもいいから。

自分を抱き締める腕の力が強まったのを感じて、レイアがそろりと、両手に握ったままになっていた皿をシンクの上に置いた。
空いた手をゆっくりと回されている腕に重ねる。

「アルヴィン……?」

どうしたの?
赤味の差す顔で少し振り返ったところに、慈しみを込めた柔らかなキスを落とした。
ふわりと、羽のように触れ合った後、

「レイア……俺さ、今すげぇ幸せで馬鹿みたいに舞い上がっちまってる。おかしいだろ。こんないい歳して、ガキみたいに興奮して抑えが利かなくなりそうでさ。今日からずっと、本当にずっと、レイアは俺の傍にいるんだよなって思ったら堪んなくなって、レイアが欲しくなって……ごめんな。昼間の事。びっくりしたよな。お前はこういうの初めてなんだもんな。本当はもっと、大人の余裕見せ付けてやる、なんて思ってたのにてんで無理だった」

『アルヴィン』が得意とする恋の駆け引きの言葉(武器)を使わず、素直な気持ちを口にした。
さながら、初恋の少女への告白のように。

「…………」

耳を擽る、年齢よりも幾分も幼く感じられるアルヴィンの告白に、レイアはじっと心臓の鐘の音を早めながら耳を傾けている。
トクトクトクトク。
静かになったキッチンにレイアの心臓の音だけが響いているような気がする。心臓の鼓動が大きくて水の音さえも掻き消しそうな勢い。
腕に重ねられた指先にきゅっと力が込められ、その先の言葉を待っているのだと思った。

「レイア……好きだ。レイアの初めて、貰ってもいいか?」

言い終えると、首筋に顔を埋めた。仄かに化粧品の香りがして、レイアもそういう年頃なのだと改めて思わされた。
唇が項を撫でると、腕の中の体がぴくりと小さく跳ねる。それからたっぷり、一分近く間を置いてから、ぽそりと聞こえた。

「い、今は……だめ」

だから腕解いて。
震える声で。
だめ、というはっきりとした拒絶にアルヴィンは半瞬ばかり固まった。
言われるままに腕を解きながら、内心で溜息をつきそうになる。そこまで自分は舞い上がっていたのかと。レイアの気持ちを読み間違えてしまう程。
これで暫くは妙にぎくしゃくしあってしまうかもしれないし、最悪今日は一人ソファーで寝ることになるだろうかと覚悟を決めたところに、腕の檻から開放されても身動きしなかったレイアの言葉が被さった。

「あ、あのね、今日、その、ほら、片付けとかで色々動き回って汗、かいちゃった、から……その、わたし、今からお風呂に入ってくるよ。えっと、その……ね」

もじもじと身を揺らし、耳まで真っ赤に染まるレイア。アルヴィンには背を向けているけれど、頬にも見事な紅葉が色付いているのだろうことは想像に易かった。

「お、お風呂上がったら、待ってるから!」
「あ、おい」

最後はまるで悲鳴のような声で、一気に言い切ると、レイアはアルヴィンを振り返りもせず、キッチンから走り去った。

「……食器残ってる。……風呂、まだ水……!」

レイアの行動に呆気に取られていたアルヴィンはさっきの言葉を思い出し、慌てて湯沸かし器のすぐ傍にある、風呂焚きのスイッチを押した。
そうして、残された食器を洗いながら独りごちる。

「ったく、レイアらしいっつうか、何つうか……幾つになっても相変わらず一つの事に気ぃ取られるとこれだもんな」

けど、ま、そういうところが憎めないし、目が離せなくなるんだよな。
軽い調子で言って、皿についた泡を流した。
けれど、そうしていても、どうしようもなく気分が高揚してきてしまうのは仕方がない事だろう。
どうでもいい事を必死に考えて、手を水に浸していても、気付かぬ内に頬が緩むし、口を引き締めていなければ意味もない事を叫んでしまいそうになる。
セックスなんてそれこそ掃いて捨てる程、経験している癖にこの有様だ。
結局、俺もただの馬鹿で単純な男でしかないんだな。
自嘲気味に、そう呟いてから、でも、そうあれる今が何て幸せなのだろうと素直に思えた。

「レイア……」

「待ってるから!」そう言った時の上擦りながらも澄んだ声と、首筋に顔を埋めた時の、仄かに香った、大人の色香。それらを思い出しつつ、レイアの名を口にした。
きっと、これから先、境界線の向こう側の世界で、一番口にする事になるのだろう名前を。
本人が聞いていないのをいい事に、たっぷりとした愛しさを込めて。


モドル


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