正直になると決めた。
だからどうか、『遅すぎた』という言葉を使わないで済むように。
「折角のピーチパイ、無駄になるなんて御免だからな」
ただレイアの無事を祈り、逸る心を抑えながら、転送された地図を頼りに病院を目指した。
地図に示されていた病院は、アルヴィンの自宅からはそれなりに距離があった。
列車を幾つか乗り継がなければいけなかったため、アルヴィンが目的地に着いた頃には空はほんのりと夕闇を帯び始めていた。
受付でレイアの名を出し病室の場所を確かめる。
数時間前に手術は終わっており、今は個室で眠っているだろうと聞かされた瞬間、アルヴィンは全身から安堵の溜息が零れる気がした。
これでとりあえず物理的な『遅すぎた』を言わなくて済みそうだと。
教えて貰った病室に向かう前に売店に立ち寄った。黄色をした紐を購入する。
この紐でばらばらになりかけてしまったふたりをもう一度結びなおそう。今度はちゃんと、『嘘』を吐かず、自分の気持ちに正直になって。
病室の扉の前で一旦深呼吸をし、腕の中にある白い紙箱をしっかりと抱えなおした。
アルヴィンをここに送り出してくれたトレーネの気持ちを。
遅すぎたなんて言葉で綺麗に収まる程、自分の気持ちは聞き分けが良くないって事もはっきり理解ったのだから。
静かに扉に手を掛けた。音を立てないように。レイアはきっとまだ眠っているだろうからと。
だが、その予想に反して、扉の向こうからくぐもった呻きのような声が微かに聞こえてきた。
「んっ……つぅ……何で、遠くにいっちゃったの……もう、届かないよ……っ」
(……レイアっ!)
静寂が支配する病院の中、小さいがはっきりと聞こえた声に胸が締め付けられた。
その声は泣いているようにも聞こえて、嫌でもあの日エレベーターの中で泣いていた顔を思い出す。
「レイア!」
がらりと乱暴に扉を開けた。
ここが夜の病院である事も忘れて。
レイアが泣いているのだと思ったら、堪らなかった。
あの時、アルヴィンはレイアの涙を拭う事が出来なかった。でも、今なら……!
そう勇ましい気持ちで病室に飛び込んだアルヴィンだったが、目の前に広がっていた予想とは余りに違う光景に素っ頓狂な声を上げるしかなくなってしまった。
「……は?」
「へ?……アル、ヴィン……?」
全身、いたるところを包帯でぐるぐる巻きにされたレイアが間抜けな顔をしてこちらを見ていた。ベッドに体を固定された状態で、手をベッドサイドに置かれた棚の上にあるプリンに必死に伸ばしながら。
「何なんだよ!これは!?」
またしても、今の場所、時間を忘れて大声を上げてしまう。でも、仕方ないじゃないか。
出だしは完全に失敗にしたのだから。
「あは、は、は……ご迷惑を、お掛けしました……」
ベッドの傍に引っ張ってきたイスに腰掛けてむすっとした表情を見せるアルヴィンにレイアは思い切り眉を下げて苦笑い付きの謝罪をした。
手にはしっかりと先程取ろうとしたプリンが握られている(アルヴィンが取ってやったものだ)。
「あー、はいはい。どうせ俺達にはコメディーがお似合いですよ!」
けれど、アルヴィンのご機嫌はまだヘソを曲げたままだった。
何の事はない。
扉越しに聞こえたレイアのくぐもった言葉は別にアルヴィンに向けられたものでも何でもなく、自由の利かない体でプリンを取ろうとして失敗しただけに過ぎなかった。
おまけに、無理をして手を伸ばしたものだから、体の節々が軋んで、痛みに思わず涙声が出ただけ。
これではアルヴィンが拗ねてしまいたくなるのも無理は無かった。
こちらは完全に、アルヴィンとの縁が切れてしまったと思って泣いている――しかも大怪我を負った状態で――姿を想像していたのだから。
「で、レイアさんは生死の境を彷徨うくらい酷い大怪我じゃなかったんですかね?」
相変わらず不機嫌な声で嫌味たっぷりに訊ねる。
視線の先でプリンを手に苦笑うレイアは姿こそ(包帯ぐるぐる巻きで)痛ましいが、とても『死の影』がにじり寄っているようには見えなかった(そもそもプリンを食べようと必死になっていたのだ。悲壮感の欠片も無い)。
病院から連絡を貰った時に感じた、あの深い喪失感は何だったのか。胸が押し潰される程の葛藤は何だったのか。
その事も折り重なって、嫌味のひとつも言いたくなるというものだ。
「ほら、わたし妙なところで悪運だけは強いっていうか……兎に角当たり所が良かった?っていうのかな。全部急所は外れてたんだよ」
「血だらけだったって聞いたけど?」
「あれは殆ど返り血だよ。魔物の。いやー、中々手強かったな。やっぱり環境汚染で魔物が凶暴化してるって話は本当だったみたい。何とか倒したけど棍はへし折られるし、クロスカウンター決められてこっちも気絶しちゃうしで大変だったよ。あ、でも大事に至らなかったのはやっぱり日頃の行いが良かったからかな?」
「なーにが『日頃の行いが良かったからかな?』だよ。心配したこっちの身にもなれってんだ!」
病人である事も構わずぽかりと一発頭にゲンコツを落とした。
「酷い!わたし怪我人だよ?」と当然抗議の声が上がったが、
「プリンに必死になる怪我人にはこの位大した事ないだろ」
と斬り捨てた。再び「そこ引っ張るなぁ」とレイアが抗議してきたのにもう一発(先程よりも)小さなゲンコツをお見舞いして「うっせ」とアルヴィンはそっぽを向いた。
小声で告げる。
「本気で心配したんだよ……お前が死んじまうと思って。そう思ったら……堪んなかったんだよ」
「ぁっ……」
先程までとは打って変わったアルヴィンの様子にレイアも冗談めかした雰囲気は引っ込め、一瞬、はっとしたような表情を見せた後、しゅんとしおらしくなる。
本当に小さな声で言った。
「心配……して、くれたんだね」
ありがとう、と。寂しげな響きで。
「当たり前だろ。……なぁ、何でそんな危険な場所に一人で行った?そういう時は何時も俺を頼っていいって言ってたよな?」
俯いた顔を覗き込みながら訊ねれば、レイアは必死に笑顔を作る。
くしゃくしゃの何だか、今にも泣き出しそうな笑顔。
それからひとつ溜息をついて。おずおずと口を開いた。
「わたし、ね……本当は、……アルヴィンについてきて貰おうって思ってたの。だから……アルヴィンのマンションにいった。そしたらね……」
きゅっと唇を噛む。零れそうになったものを瞳の奥へ押し込むように。
「アルヴィンはいなくて……アルヴィンの恋人さんが、いた。わたしを見つけて、にこって微笑って、『一緒にアルヴィンを待ちませんか?』って言ったの。その時にわたし……何であんな事しちゃったんだろう。……合鍵彼女に押し付けて、……わたし、アルヴィンとはただの『友達』なのに、……勝手に彼女に嫉妬して……気持ち、抑えられなくて、酷い態度で彼女の前から逃げ出したんだよ……だから」
ついに防波堤は崩れ、あの日、すれ違った時と同じように翠の瞳から溢れる大粒の雫。白いベッドシーツに点々と水玉模様を作っていく。
その水玉模様をレイアの指がぎゅっと握り締めた。
「もう、アルヴィンに頼っちゃいけないと思った。……わたしは、アルヴィンの傍には、いられないって。友人として二人を祝福出来ないわたしは……、アルヴィンにとって迷惑なだけだから。だからひとりで取材にいったのに……また、迷惑掛けちゃったよぅ」
最後の方はしゃくりあげる声に掻き消され、よく聞き取れない程だった。
アルヴィンはその様を、じっと黙って見つめ、言葉に耳を傾けていたが、それが涙に呑まれたのを合図にイスから身を乗り出して、レイアを両腕の中に閉じ込めた。
びくりと身を竦めるレイアに構わず、瞳から滑り落ちる涙を指先で拭った。何も躊躇わず。
今のアルヴィンにはそれを制限する鎖はもう何処にも無かったから。
涙を拭いながら訊ねる。
「レイアさ……今の言葉、全部本気?レイアは俺と『友達』のままじゃもう居られない?居られないから俺の傍を離れるつもり?」
「……うん。だからもうこういう事も無し、だよ。わたしひとりでも、頑張、」
「俺もレイアとはもう『友達』でいんの無理、だわ」
レイアの言葉を遮って告げた。びくんと、怯えた子供みたいに震える体を抱き締めながらいった。
生きたレイアのぬくもりを感じながら。
モノクロの世界が、色鮮やかな色彩に溢れていくのを確かめるように。
「だから、俺と『恋人同士』にならないか?」
「……え?」
予想もしていなかった言葉だったのだろう。大きく瞳を見開くレイア。
その顔が堪らなく愛しく思えた。
「隠してもどうせ理解っちまうだろうから正直に言うな。確かに俺はトレーネに惹かれたよ。あんな綺麗で出来た女と一緒になれる男は堪んなく幸せだろうなって思ったよ。俺ってラッキーだなって。……けどさ、お前が、レイアが死ぬかもしれないって聞いた時、そんなんどうでもいいくらい、心ん中ぐちゃぐちゃになって、どうしようも無くなった。何もかも全部放り出してここに来たいって思った。俺、お前が泣いてると堪んない気持ちになるんだよ。だから気付いちまった。俺はレイアが好きなんだってさ。……『友達』として、じゃなくて」
見開かれたままの瞳から、後から後から湧き出てくる涙を拭って。
「だからずっと、傍にいてくれないか」
モノクロの世界に鮮やかに色が塗られていくのがアルヴィンの目にはしっかりと見えていた。
「うう、……このピーチパイ美味しいよぅ。こんな美味しいピーチパイを作ってくれる人と別れちゃうなんてアルヴィンは馬鹿だよぅ……」
うえぇ、と子供みたいにしゃくり上げながら、レイアはピーチパイを口に運ぶ。
何て器用な食い方するんだか、とアルヴィンは溜息と苦笑交じりに涙を拭ってやった。
「泣きながら食うなよ。ったく……。はいはい、どうせ俺は馬鹿で趣味が悪いですよ」
「趣味が悪いって、まるでわたしが魅力なしみたいじゃない。ばかぁ!」
「分かった、分かったから。ほら、もう泣くなって」
馬鹿、馬鹿、とアルヴィンをなじりながら、口はもぐもぐと動かし、涙もフル生産する忙しいレイアを構いながら、自分もピーチパイを口に含んだアルヴィンは小さく呟く。
「本当に美味いな」
と。
それは勿論、トレーネの腕が素晴らしいからだろうが、それに加え、今こうしてレイアと一緒にこれを食べる事が出来ているという事実がアルヴィンにとっては美味さを増す要因になっていた。
そして、ここに向かえるように背を押してくれたトレーネの想いも。心の中でもう一度「ありがとう」と可憐な微笑を浮かべる女性に感謝の念を贈った。
一旦、レイアから離れ、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
指先に感じる硬質と丸い柔らかな物体。
それを掌の中に握り込んでから、もう一度レイアの傍により、覗き込むようにして問い掛けた。
「なぁ、レイア。もう一回ちゃんと答えてくんね?これから先、ずっと俺の傍にいてくれるか?」
「……友達として、じゃなくて?」
「そ、『友達』としてじゃなくて『恋人』として」
「恋人らしい事……してくれるなら……」
「例えばどんな?」
少し意地悪かと思ったがあえて聞き返した。
こちらも随分恥ずかしい告白をしたのだから、この位レイアに言わせたってイーブンだろう。
レイアは一瞬、ぎくりと肩を震わせてから、暫く「うう〜っ」と唸っていたものの、やがてぽそりと蚊の鳴くような声で呟いた。
「キス……とか」
顔を真っ赤にして呟くその姿が、どうしようもなく色鮮やかで愛らしく見えて、アルヴィンの中から本物の笑みを引き出した。
「了解」
言葉こそ軽い響きで、けれど、行動はとても真面目な優しい雰囲気でアルヴィンは自分の内側にそっとレイアを抱き込むと、桜色をした唇を初めて自分の唇で塞いだ。
『恋人』としての初めてで、レイアを包み込むようにして。
そうして、深い口付けはそのままに、自分の手の中に隠し持っていたものをレイアの手の中へと押し込んだ。
黄色の紐でしっかりと結ばれた、
『合鍵』と『カエルくん』。
迷子の境界線を飛び越え、恋人、としての扉を開いた、
その『鍵』を。
レイアの掌の中で小さな『カエルくん』が相変わらずユルい顔をして、二人のキスを恥ずかしげに見守っていた。
―END―
モドル