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「……アルヴィン」

柱のように突っ立っていたアルヴィンの意識を現実に引き戻す手があった。
トレーネの。
下ろされた腕を少し強めに握り、もう一度

「アルヴィン」

と呼び掛ける鳶色の瞳。

「あ、……」

はっとした。今の一瞬、彼女の存在を意識から無くしていた。
取り繕うように「どうしたトレーネ」と応えようとしたが、言葉が喉に張り付き掠れた空気を吐き出しただけで。
トレーネはそんなアルヴィンを真っ直ぐに見つめたまま問い掛けた。

「何か大変な事があったのでしょう?病院、それから……死ぬって聞こえました」

「……いや、俺には……」

関係のない事だよとは言えなかった。

「その、知り合いが怪我したらしくってさ、身内の連絡先が分からないからって俺のところに連絡来ただけだよ。けど、俺よりもずっと親しい知り合いがいるから、そいつにメール転送して病院に行って貰うわ」

ここ最近はレイアに一番近しいのは自分だと自負していた癖に、こんな時だけジュードを持ち出すとは何と自分勝手か。
けれど、ここでレイアの元へ駆け寄ってしまえば、アルヴィンはきっとトレーネのところに戻れなくなる。心が。
それは何と不誠実な事か。
だから、

「だから俺には何も問題ないよ。ちゃんと食事会にも出るさ」

あの日、エレベーターですれ違った日と同じように、意思の鎖で両足をここに繋ぎ止めるのだ。トレーネの傍に。
そう、医師も言っていた。何も死ぬと決まったわけじゃないと。

脳裏に浮かぶ、崩れ落ちていくレイアは見ないようにして。

「ねぇ……アルヴィン」

アルヴィンの腕を掴んだまま、じっと彼に視線を注いでいたトレーネは一旦そこで言葉を切って、ゆっくりと手を離した。深呼吸と共に。瞳は逸らさないまま。

「お知り合い……、レイア、さんって……何時か、駅でお会いしたお嬢さんでしょ?……その方、」

きゅっと引き結ばれる、ぽってりとした形のよい唇。ゆっくりと唇の封が切れる。覚悟を決めたように。

「アルヴィンの、大切な人、ですよね……?」

「トレーネ、何言って、」
「違いますか?」

アルヴィンの震える声を遮る鳶色の瞳。突き刺さる。

「本当に後悔しませんか?このまま彼女のところに行かないで、私と一緒に父と会って、いずれ私と結婚して。それで貴方は、……アルヴィンは幸せになれますか?笑う事が出来ますか?」

「トレーネ……」

「ここ数日、アルヴィンから笑顔が消えたのはレイアさんが関係してますよね?……アルヴィン、無意識にレイアさんの事考えていらしたでしょ?カエルくんは、レイアさんのお好きなものですよね」

私、アルヴィンに隠し事をしていました。
そう言って、トレーネはハンドバックの中から何かを取り出してアルヴィンの前に差し出した。

「……これ」

彼女の掌の上に並ぶ、アルヴィンの家の合鍵と小さなマスコット。カエルくん。
我知らず、アルヴィンは小さく息を呑んだ。

「あの日、アルヴィンの家の前で貴方を待っていた日、私は彼女に、レイアさんに会いました。そしてこの合鍵をアルヴィンに返して欲しいとお願いされたんです。カエルくんのマスコットは彼女のGHSのストラップから外れて落ちたものです」

これを見た時に気付きました。
トレーネは視線で合鍵とカエルくんをなぞった。

「どうしてアルヴィンが貴方の雰囲気に合わない雑貨やマスコットに惹かれるのかを。……レイアさんが好きなもの、だからですよね?私とアルヴィンがお付き合いをする以前、お二人がどんな関係であったのか私には分かりません。ですけど、私にはアルヴィンもレイアさんもお互いに惹かれあっているように見えます」

それなのに無理をして『ただの知り合いだ』って言い聞かせているように見えます。
掌から再びアルヴィンに向けられた鳶色が、柔らかに細められる。
優しくて美しい微笑だった。

「これを私に渡された時、彼女は今にも泣きそうな顔をされていました。そして……あの日から貴方は楽しそうに笑わなくなった。……もう、答えは出ていると思いませんか?」

私じゃ、アルヴィンの本当の笑顔を取り戻す事が出来ないんです。
ほんの少しだけ、鳶色が寂しげに揺れた後、トレーネは合鍵とマスコットをアルヴィンの手の中に押し込んだ。
そうして揺れていた瞳を凛と持ち上げ、花のような微笑みで持って、アルヴィンの背を押した。

「レイアさんのところに行ってください」

それは現在(いま)だけを指すものではなく、これから未来(さき)の事も指した響きだった。
つまり、彼女はアルヴィンの気持ちを全てお見通しだということ。
その上でこうして、アルヴィンの背をレイアに向かって押してくれたのだ。

「私、アルヴィンには楽しそうに笑っていて欲しいんです」

と。

そうやって微笑うトレーネは本当に可憐で、好意を持たずにはいられなくて。
理性的な部分での好意。
そして、同時に気付いた。
レイアへアルヴィンが抱く気持ちは理性で抑えられない『好意』なんだと。
可愛いとか、綺麗とか、そういう事ではなくて。恐らく魂の部分で自分はレイアを望んでいるのだろうと。
それはもう、紛れもない『恋愛感情』なんだと。

「……ごめんな、トレーネ」

多くの言葉で語る事は余計、彼女に不誠実になる気がして、短い言葉に想いを乗せた。
その短い言葉の中に込めた想いをトレーネは受け取ってくれたようで、

「謝らないで下さい」

と、ふるりと亜麻色の髪を揺すった。さらさらとした髪絹が舞う。

「私何も後悔してませんから。アルヴィンと出会った事。……ただ、私は貴方の『運命の人』では無かった。それだけです。これからは、仕事のパートナーの娘として、『友人』として仲良くして下さい」

だから、安心して貴方は『運命の人』のところへ行って下さい。

トレーネの言葉が、アルヴィンの両足に絡まった意思の鎖の戒めを解いた。
一度、ゆっくりと瞳を閉じて自分の気持ちに正直に寄り添った。トレーネの言った通り、もう答えは出ている。
瞼の裏に浮かぶのはオレンジブラウンの髪と翠の瞳。
その色を心に描くまま、瞼を持ち上げ、トレーネに向き直った。

「俺、レイアのところに行くよ」

ありがとう。
どういたしまして。
短い言葉で『恋人』としての別れを告げた。

そうして、鎖が解かれ軽くなった両足を元来た道へと向けようとした時、思い出したようにトレーネがアルヴィンを引き止めた。
目の前に差し出されたのは、白い紙箱。

「あの、これ!ピーチパイ。私の手作りで申し訳ないんですけど、お見舞いに。……彼女が無事でいらっしゃる事を願っています」

「サンキュ。ふたりで一緒に食わせて貰うよ」

「はい」

穏やかな『友人』としての笑みを交し合って。
今度こそ、レイアの待つ病院へ向けて、アルヴィンは振り返らずに足を進めた。



静寂の訪れたマンションの廊下。トレーネは静かにGHSを取り出す。

「お父様。今日の食事会は私ひとりで伺います。……ええ。……ええ。いいえ、アルヴィンは良い方です。ただ……、正直過ぎて、私には少し物足りなかったんです。私、理想が高いですから。ですけど、彼は正直な方ですから仕事ではとても信頼出来るパートナーになると思います。ねぇ、お父様。私にも運命の人が何処かに待っていらっしゃるでしょうか?……ふふ、そうですね。私はお父様の娘ですものね。あ、帰りにシュークリーム買って下さいません?ええ、私あそこのシュークリーム大好きですから。では、また後で」

アルヴィンが駆け去った方を向いたまま、GHSを切った女性の顔は穏やかで優しくて、とても美しかった。



モドル


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