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境界線の左右、どちらが自分の居場所?
その問いにもう答えは出ている。心は答えを出している。

今まで『心』を確かめる前に、壊れかけた関係が崩れてしまわないよう修復するのに必死だった。そうしている内にぴったりと寄り添ったぬくもりが心地よくて、それを失う事が怖くなって、互いに『心』を確かめるのを止めた。
今のままでも充分幸せだと。

だけど、離れて気が付いたでしょう?
求めたのはただの物理的なぬくもりなんかじゃないって。
『心』の通ったぬくもりなんだって。

アルヴィンが、
レイアが、
お互いが居なきゃ、
世界の色が霞んでしまうって気付いた。

貴方が、
君が、
いなきゃ心から笑えない。

もう、境界線の上で迷子になんてならない――。



『遅すぎた』
なんて言葉で片付けられる程、この感情は聞き分けのいい子でいられないんだ。



レイアが最悪の状態で鍵を手放してから、瞬く間に日は過ぎていった。
どうしようもないままに取材の日が来た。
結局、レイアはたった一人、キメラもどきの待つ取材場所へと向かった。
あの日、トレーネに取った行動への申し訳なさと、それが(きっと)アルヴィンに伝わっているであろう惨めさからレイアはアルヴィンに対して一切の連絡を絶った。
それまでは会いにはいかずともGHSで連絡はしていたのに。

アルヴィンとの連絡を絶ってから、レイアは日増しに元気が無くなっていき、仕事のミスも格段に増えてしまった。
普段ならミスをすれば編集長や先輩から愛情ある叱りが飛んでくるというのに、レイアの余りの沈みっぷりに逆に心配されてしまう程だった。

「レイア、あんたどうしたの?顔色もここ最近よくないし、体調悪いんじゃないの?」

「だ、大丈夫です。迷惑かけてごめんなさい」

「そうね、何があっても仕事でミスをするのはいただけないわね」

「……はい」

「けどね、仕事は関係なく一個人として私はあんたが心配なの。ねぇ、無理してるんじゃないの?そんなに根つめなくてもいいのよ。……何か悩みがあるなら相談に乗るし、もし本当に体調が悪いんだったら少し休んだほうがいいわ。穴埋めは私がしっかりしてあげるから。だから、今度の取材は無しにして、」
「大丈夫です!わたしやります!」

「でも……」

「わたし、取材にいってきます。体調も大丈夫です。……先輩、心配してくれてありがとう」

「……レイア」


(わたしにはこうして心配してくれる人がいる。だから、わたしはアルヴィンがいなくても平気。……それに、あんな最低な事をするようなわたしが、アルヴィンの傍にいたら迷惑だもん)

「……わたしはひとりでも頑張れるよ」

だけど、本当は気付いている。
アルヴィンと一緒にいた時、自分がどんなに仕事を楽しんでいられたのかを。
毎日仕事をするのが楽しくて、その報告をアルヴィンに聞いて貰うのが楽しくて。
「いい感じだな」って笑ってくれるその顔を見て、また明日も頑張ろうってそう思えていた。
でも、もうそんな日は二度とこないのだから。

「ご飯、結局奢れなかったな……」

ふいに、口から飛び出した、寂しげな呟きと、頭に浮かんだ悪戯っぽいアルヴィンの表情、茶の瞳と髪をふるふると頭を振って掻き消すと、レイアはひとり取材へ向かった。




それと時を同じくして別の場所。
アルヴィンはGHSのディスプレイにちらりと目をやって微かな溜息をついた。
その仕草をもう何度も無意識に繰り返している。
柔らかな日差しの降り注ぐ、紅茶の香り溢れるお洒落なカフェの只中には似合わない、浮かない表情で。

エレベーターでレイアとすれ違った日から気分が全くといっていい程浮上してくれない。
本来のアルヴィンならこのカフェの雰囲気に溶け込むなどわけないはずなのに、今の彼は明らかに浮いていた。
GHSのディスプレイを覗いては溜息をつき、また暫くすると同じ行動を繰り返しては溜息。
楽しげな雰囲気を漂わす周りとは対照的に、何処か寂しげ。
実際、アルヴィンは『あの日』から楽しさを感じる余裕を失っていた。
それは例えるなら、どんなに色鮮やかで美しい花を見ていてもモノクロにしか見えないような感覚。
そうなってしまった原因が何であるのかも、理解っている。
それでも……。

エレベーターですれ違った日からレイアはアルヴィンに一切連絡を寄越さなくなった。
あの日が来るまでは「忙しいから」と顔を合わす事は無かったが、小まめにGHSで連絡を取り合っていたのに。
顔を合わせていた時と同じように、互いの体験した事、思った事を伝え合って。
けれど、あの日を境にGHSでの会話もぷつりと途切れた。
それからだ。アルヴィンの目に映る世界から輝きが消えてしまったのは。
何をしていても、何も見ていても、誰と会っていても、心が晴れない。傍には何時も、いずれ夫婦になる約束をした人がいるというのに。

泣いているレイアを追わなかった事への気まずさから、自分から連絡する事をアルヴィンは躊躇っていた。

「…………」

もう一度GHSを開いてディスプレイを確認する。相変わらずそこにアルヴィンの望むメッセージは出てこない。
さっきよりも、はっきりと溜息をついた。

「アルヴィン、最近GHSばかり眺めていますね。何か大事な御用事でも?」

テーブルに頬杖をついて座っていたアルヴィンの上に影が落ちた。
軽食とデザートを注文していたトレーネが戻ってきて、隣でアルヴィンを見下ろしていた。

「あ、あぁ……悪ぃ。折角のデートなのに」

慌ててGHSをジャケットの中に仕舞い込んだ。
トレーネがふるふると首を振る。

「いいえ」

躊躇いがちな微笑で。
そのままアルヴィンの向かいの席に腰を下ろす。

目の前の彼女は可憐で、上品で、文句のつけようのない、優しい女性。
彼女との結婚を思い描けば、簡単に想像できた『幸福』。
でも、それが今は何処か遠い場所にあるようで。綺麗な絵画を眺める時のような気分になる。その中に自分が――アルヴィンが――いないように感じた。
トレーネの事をアルヴィンは確かに綺麗だと感じ、心惹かれるというのに、どうしてこんな気持ちを抱くのか。

脳裏にちらつくのは、オレンジブラウンの髪と翠の瞳。その翠から零れて落ちていた透明な雫。

アールグレイの茶葉の香りの中で、思わずついてしまいそうになった溜息を何とか喉の奥に飲み込んだ。
ティーカップに両手を沿え、琥珀色の液体をじっと眺めていたトレーネがすっと視線を上げた。

「あの……アルヴィン……」

思い詰めような響きを纏った呼びかけに、アルヴィンは意識して優しい表情を作って応えた。

「ん?どうした、トレーネ」

「あ、いえ。……何でもないです。ごめんなさい」

ただ、このクロワッサンとっても美味しいですよって言いたかったんです。
「アルヴィンもひとつどうぞ」とプレートを差し出してくるトレーネのにこりと微笑う顔は萎れかけの花のようで。
それが嘘である事など分かり切っていたが、アルヴィンはそこには触れず、差し出されたクロワッサンを口に運び、

「本当に美味いな。やっぱ、トレーネは趣味がいいな」

微笑んでみせた。
本当は味など感じなかったのに。
今のアルヴィンには世界の全てがモノクロだったから。



モドル


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