最低な事をしてしまった。
ひとりエレベーターの壁に凭れながら、レイアは自分の気持ちが、心が、理性から勝手に離れて暴走していくのを感じて唇を噛み締めた。
相変わらず涙は流れっぱなしだった。
――何が、境界線を引いた状態でも普通に『友達』って言えるように頑張るよ!
全部、全部、嘘じゃない!
わたし……アルヴィンの恋人さんに嫉妬したんだよ。お門違いな醜い嫉妬。
トレーネがアルヴィンを自分の身近な存在として話した事が――それが我儘で理不尽な感情であると理解っていても――レイアにはショックで、目の前が真っ暗になってしまった。
以前会った時、彼女はアルヴィンを『アルヴィンさん』と呼んでいた。
それが、さっきは『さん』付けではなく『アルヴィン』と呼ぶようになっていて。
それを聞いた瞬間、レイアは自分の感情を抑えられなくなった。
『わたしの方が、ずっと、ずっとアルヴィンの事知ってる!アルヴィンのすぐ近くにいたのに!』
と。
あまりにも情けなく、みっとも無く、また何の意味もない感情。
恋人と友人。
より大切にされ、近しい場所にいるのは恋人に決まっているのに。
それなのに、レイアは彼女に合鍵を押し付け、失礼な態度で逃げ出してしまった。
あの合鍵はアルヴィンの元に戻って……。
そうしたら、きっともう、友達、でいる事も出来なくなってしまうだろう。
自分の大切な人に醜い嫉妬をし、あんな態度に出る友達なんて迷惑なだけだから。
アルヴィンとの関係が切れてしまう。
一番恐れていた状況に自分から飛び込んでしまったなんて、笑い話にすらならない。
エレベーターが一階に着き、扉が開くと同時に、溢れる涙も拭わずレイアは駆け出した。
この場から逃げ出すために。
涙で霞んでいて、その上俯きがちだったせいで、エレベーターを出る時、入ってこようとした男の人にぶつかったけれど、レイアは「ごめんなさい」も言わず、マンションの外へと走り去った。
僅かすらも心の余裕が持てなかった。
ぶつかった相手がアルヴィンであった事にも気付かない程に。
仕事の用事を済ませ、トレーネの元に戻ろうとしていたアルヴィンは、エレベーターの扉が開いた時、目に入った色に驚きを隠せなかった。
オレンジブラウンと翠色。
アルヴィンのよく知る色。
それは二週間ぶりに見る色で、たった二週間をアルヴィンは懐かしいとすら思ってしまった。
同時に、ほっとした気持ちも。だから、
その色に向かって言い慣れた名を口しようとして、けれど、はっと息を呑んだ。
泣いていたから。
目元から溢れる透明な雫を拭いもせず、レイアは俯きがちに泣いていた。
半瞬遅れて、「レイア」と呼びかけ手を伸ばし掛けたが、レイアはアルヴィンに気付かないまま、ばっと駆け出していった。
肩がぶつかる。
それでもレイアは立ち止まらなかった。
「……レイ、ア。……なんで、泣いてんだ。どうしたんだよ、一体?」
空しく宙を彷徨ってしまった手を下ろしながら、もう見えなくなった背中に向かって問い掛けた。
エレベーターに乗り込むのも忘れ、暫くその場から動けなかった。
あんな泣き顔を初めて見たから。
レイアが荷物を持ち帰り、アルヴィンの家に来なくなってからずっと感じていた、心の隙間が更に広がったように思えた。
ざわつく心。
レイアがこのマンションにやってくるのはアルヴィンへの用事以外考えられない。
そして、彼女はたった今上階からここに降りてきた。アルヴィンの家ではトレーネが待っている。
「…………」
何か、があったのだろうか?
でも、その『何か』があったという事はレイアはアルヴィンを……。
「ありえない、な」
まるで自分に言い聞かせるようにアルヴィンは呟いた。
今にも消えた背中を追って走り出そうとする足を、意思の鎖で地面に繋いだ。
自分が向かうべきはそちらではない、と。
レイアの涙を拭うのはもう自分の役目ではない。
自分にその資格はない。
アルヴィンはもう選んだのだから。
なかなか動こうとしない両足を叱咤しレイアが走り去った方向には背を向けて、乗り逃したエレベーターを呼び戻した。
仮にレイアのあの涙がアルヴィンを求めてのものだったとしたら――。
エレベーターのランプが少しずつ降りてくる。
後僅かで迎えの扉が開く。その明滅を見遣りながら、首を振った。
「何で、気付かせちまうんだよ……今更、遅すぎるだろ」
正直過ぎる心。その場所に蓋をして。
溜息のような言葉を残してアルヴィンは開かれた扉を潜った。
地上から両足を離すために。
上階で待つ、アルヴィンが想いを向けるべき人の元へ向かって。
アルヴィンを出迎えたトレーネは少し元気がなく、花のような微笑も、何処か曖昧でぼやけていた。
けれど、アルヴィンはそれに気付かないふりをして、そっと彼女の背に手を添えて、玄関の鍵を外した。
その鍵を鳶色の瞳がじっと見つめているような気がしたけど、それにも何も言わなかった。
内側を叱咤し続けていなければ、両足が今にもこの場から駆け出してしまいそうだったから。
モドル