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本当は何時だって、境界線を引くことで逃げていたんだろう。
それはきっと、お互いにそうだった。
曖昧なまま、歪な境界線を引いて、核心部分には触れないようにしてきた。
だって、折角作り上げた心地よい関係が崩れる事を想像すると怖かったから。
二人共に、あの頃の、一言も口を利けない状態に戻ってしまう事を恐れていたんだ。

あんな風になってしまう可能性があるのなら、ずっと、『友達』でいた方がいいって。
自分でも気付かない内に、そう思い込んでいた……。

だけど、もうそろそろ、それも限界なのかもしれない。




「あーあ、忘れてやがんの」

チェストの上にぽつんと寂しく置き去りにされた『カエルくん』の中型サイズのぬいぐるみをアルヴィンは指で突いた。

「お前、ご主人様に置き去りにされちまったな」

口元に小さな苦笑を浮かべながら、目の前のぬいぐるみに語り掛ける。
何時もなら何とも言えずイラっとくる、思いっきり垂れた糸目と、ゆくる開かれた口をしたそのカエルが今日は何だか寂しげに見えた。
もしかしたらアルヴィンの心の一部を映し込んでいるのかもしれない。
このカエルはレイアのお気に入りのキャラクターで、彼女曰く(失礼な話だが)アルヴィンに似ているそうなので。
しかもその上……。

「何か急に殺風景になっちまったな」

苦笑はそのままに、ぬいぐるみから顔を上げると自分の家の中をぐるりと見回して、そう独りごちた。
ほんの数時間前まで、(アルヴィンの趣味とは随分ずれていた)色鮮やかで可愛らしいもの(例えばキャラグッズとか)が其処此処にあった部屋は、今は落ち着いた色合いのシンプルな家具や必要最低限のものが置かれるだけの状態になっていた。
レイアが自分の荷物を全て家へと持ち帰ったために。
そして、この『カエルくん』は荷物を纏めるごたごたの中でどうやら置き去りを喰らったらしい。

アルヴィンが『お見合い』をしてから、そろそろふた月が過ぎようとしていた。

最初こそあまり乗り気になれなかったお見合いだったが、実際に会ってみるとアルヴィンの心は大きく揺さぶられた。
見合い相手であった彼女の実物は写真で見るよりもずっと、母に似た面影を持っており、その上穏やかで優しい雰囲気を纏っていた。
見合いの後、何度か食事に誘ったり、デートをしたりする内に彼女に惹かれていく自分をアルヴィンは確かに感じていた。
トレーネ・フォン・ハウゼンという名のひとりの女性が着実に自分の世界の中に馴染んでいくようだった。
今まで、しがらみも打算もない恋愛をした事のないアルヴィンにとって新鮮な感覚だった。
最初の出会いがお見合いからという事もあり、次第にアルヴィンは彼女との結婚につい真面目に考えるようになった。
彼女となら上手くいくかもしれないと。
トレーネとの結婚生活を思い描く事はレイアとの結婚生活を思い描く事――見合いを決めたすぐ後、アルヴィンはそれを想像してみたが上手くいかなかった――よりもずっと簡単だった。
実際、彼女は恋人として、また将来の妻としても申し分ない人で、何の不満も抱きようがない。
それなのに、アルヴィンの心の中はその幸せ(を思い描く気持ち)とは別に、がらんとした、今この部屋のような一抹の寂しさを孕んだ状態だった。
胸の中にひろがるもやもやとした気持ちは消えなかった。
それでも、目を閉じる時、ふとした瞬間に、意識の中に現れるオレンジブラウンの髪と翠の瞳をトレーネの亜麻色の髪と鳶色の瞳とに置き換える事を根気よく続け、次第に意識しなくともそれが出来るようになった頃、レイアがアルヴィンに申し出た。
「わたしの荷物、家に持って帰るね」と。

そう言われた瞬間、アルヴィンの中のもやもやは今までに無く強まったけれど、だからと言って、「その必要はない」とは言えなかったから、「そっか、わかったよ」とだけ答え、レイアが荷物を纏めるのをざわつく心で見守った。
それが今日のこと。
ただ、合鍵だけはおっちょこちょいのレイアらしく持ってくるのを忘れてしまったようで渡したままになっている。
しきりに「ごめんね、今度必ず持って来るから」と平謝りするレイアに、

「別にいいって。そんな急がなくても。俺は鍵ちゃんと持ってんだから困る事ねぇし」

と笑ってみせた。
何ならそれはレイアがずっと持っててもいいんだ。
そう言い出しそうになったのをぐっと、内側に押さえ込んで。
それを言ってしまったら『何か』を越えてしまいそうな気がしたから。


「要するに、今まで散々騒がしいのの近くにいたからちょっと寂しいってことなんだろうな」

この部屋みたいにさ。
もやもやの原因をやや強引に結論付けて、時計へと視線を移した。
そろそろトレーネとの待ち合わせの時間だった。

「さてと、そろそろ行きますか。お前はもう暫く俺ん家で留守番だな」

再び『カエルくん』を指先で突いてから、玄関へ向かった。
背中にカエルくんの視線がじっと注がれているような気に一瞬なったが、それもきっと気のせいに違いない。
だから、何も感じないふりをして扉を閉め、待ち合わせ場所へ向かうための一歩を踏み出した。



「ごめんなさい。もしかして私、お待たせしてしまいましたか?」

「いや、俺もついさっき着いたところ」

「そうですか、よかった」

約束の時間きっちりに現れたトレーネは藤色のシックなツーピースに包まれた胸に手を当てて、にこりと微笑んだ。時間よりも少し早く到着していたアルヴィンの姿を見て、慌てて走ってきたのだろう。

「これ、父の好きなお店のシュークリームです。後で一緒に食べましょう」

クリームがなめらかで美味しいんですよ。私もお気に入りです。
そう言ってトレーネが胸の高さまで持ち上げた白い紙箱に刻印されたマークにアルヴィンは見覚えがあった。
確か、レイアがアルヴィンの家で見ていた雑誌に載っていたはずだ。


『ここのデザート、凄く美味しいんだって。一回食べてみたいけど、高いなぁ……安月給の新聞記者には手が届かないよ。ね、アルヴィン見てよ!美味しそうだと思わない!?』

『あー、はいはい。そうですねー』

『わぁ、何その投げやりな反応!?』

『どうせ俺が美味そうだなとか反応したら、「じゃ、アルヴィン奢ってよ!」とか何とか言っちゃうんだろ?俺はその手には乗らないからな』

『ちっ、バレたか』

『バレバレだっつーの』


ふいに、その時の光景、会話が鮮明に思い出されてしまい、慌てて刻印から目を逸らした。同じように話題も逸らす。

「本当に良かったのか?折角時間が取れたってのに行き先が俺ん家で」

「はい。ずっと楽しみにしてたんです、アルヴィンさんの家にお邪魔するの。だから今日は嬉しくって」

そのせいで、張り切ってお洒落しちゃいました。
そう言って微笑むトレーネは嫌味すら感じさせない程可憐だった。きっと、世の男なら「守ってやりたい」と思わずにはいられないだろう。勿論、アルヴィンも多分にもれず、その様を好意的に受け止めた。
彼女の言葉の通りに、お洒落をしてきたのだろう、控えめに品のあるレースが施されたツーピースや、鈴蘭をイメージしたようなペンダントとイヤリング、同じく白で統一された髪留めはトレーネの雰囲気によく似合っており、それがまた一層彼女の微笑みの可憐さを引き立てていた。
ストンとアルヴィンの心の中心にトレーネが落ちついて、ついさっき浮かんだ光景をかき消した。ほっと安堵の吐息が零れた。

「そっか。つっても大して珍しいもんもない殺風景なところだけどな。行ってがっかりするかもしれないぜ?」

「そんなことないですよ。私、アルヴィンさんと一緒ならどこででも楽しいですから」

「はは、参ったね。すげぇ殺し文句」

じゃ、貧相な俺の城までエスコートさせて貰いますか。
冗談めかした言葉と、ウインクひとつをトレーネに投げかけてから元来た道を今度は二人で、歩調を合わせながら歩き始めた。
安堵の心のままに。
今日はこのまま、ずっと心の中心にトレーネが居続けていてくれる事を願いながら。

けれど、そんなアルヴィンの願いは幾度も裏切られる事になる。
意識しなくとも、ごく自然に、オレンジブラウンと翠のその色が自分の心の中に浮かんでくるなんて事、アルヴィンはこの時までこれっぽっちも気付いて居なかった。

もしも、それにもっと早く気付けていたなら……、
お互いにこんなもどかしい回り道しなくて良かったのに。


モドル


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